http://twitter.com/oika/status/2452464341
> 中学生の生徒が学校で校則変更の署名活動をしてるらしいが、学校側がそれを厳しく咎めて止めさせようとしてるってのを聞いてめちゃくちゃびっくりした。中学生のうちから自主的に署名活動起こすなんて、めっちゃ素晴らしいじゃん。
教師と生徒が対等なら、生徒による校則変更の署名活動は有効だが、教師と生徒は対等でない。生徒というのは、教師を能動的に叱りつけるということを許されていない。だから、そういうとき、生徒は立場上﹁見放す﹂しか方法がなくなる。
生徒は教師を見ていろんなことを学ぶことができるが、生徒が教師に“学ばせる”ことはできない。結果的に教師が自主的に生徒から学ぶことはあっても、生徒の直接的な意思により教師を学習させることはふつうできない。
教師と生徒のあいだにあるこの非対等性は、﹁教師は変化しないもの﹂という措定により与えられる。かりに教師が変化する存在だとすると、それは生徒の学習機会の一部を剥奪していることになってしまうからだ。
essa氏は﹁変化の不平等﹂ということを言ったが、そういう点から見れば学校というところは究極的に﹁変化の不平等﹂が達成されまくっているところである。
なにか問題があったときに、その問題が解決されるためには、誰かが変わる必要があるが、そのときに、教師が変わる役目を引き受けてしまうと、ダメなのである。
教師が究極的にバカであろうが究極的に天才であろうが、そんなことはどうでもよい。大切なことは、﹁教師自身は変化しない﹂ということだ。
たぶん、原始社会の大人たちの大半というのは、﹁変化しない﹂人たちであっただろう。だから子どもは、問題を解決するためには、自分のほうが変わらないといけない、ということを学んだ。いまはどうだろうか。
大人にも問題がある。それは確かに真実だ。問題のない大人なんていない。だが、生涯学習などと言って、なまじ大人も一生成長してゆく存在だ、などということが人口に膾炙し始めてから、教育というのはおかしくなっていったのだというふうに考えることもできてしまう。
変化の不平等の度合が弱まれば弱まるほど、子どもたちが引き受ける﹁変化の量﹂は減ってゆく。大人たちが少しずつ﹁自分たちも学ばなきゃ!﹂と、一人また一人と思い立つにつれて、子どもたちは﹁ぼくたちはもう以前ほど学ばなくていいんだ﹂と、一人また一人と学ばなくなってゆく。
そういう意味で言えば、大学と小中高は根本的に違う。大学というのは、先生は研究する存在でもあるから、大学の先生は﹁変化する存在﹂である。一方、小中高の先生というのは、少なくとも、﹁変化することを期待されていない存在﹂である。
しかし、だからといって、﹁変化する先生﹂のもとで学んだ子どもたちや子弟らが、みんな愚かで役立たずになってゆく、ということではない。そういうところからは、変化する先生のまねをして、自分もまた変化する存在にならんとする子もたくさん輩出されるからである。
思うにこれは、﹁自分は、先生と同じ役割を期待されている存在である﹂というふうに解釈するか、﹁先生とは異なる役割を期待されている存在である﹂と解釈するかの違いだと思う。前者は大学的、後者は小学校的である。
たぶんこの問題は、境界線をどこに引くかの問題なんだと思う。ぼくが大学的、小学校的とは言ったけど、﹁じゃあ中学生や高校生はどっちに分類するのがいいんだ?﹂ということに対しては明言を避けたのもそこなんです。
先生と同じ役割を引き受けるべきだという自覚のある中学生は、署名活動をするだろうが、自分は先生とは違う役割なのだというふうに心の底から思っている中学生は、署名活動などという発想には至り得ない。
親鸞聖人は9歳で得度されたわけだが(得度というのはお坊さんになること)、この世には、9歳で人を導く立場を強いられる人というのがいるわけだ。実際、少ないにせよ、父親が住職で、かつ早世した場合、僅か10歳前後の子どもがその役割を強いられるということは十分にあることである。
戦前には15歳の少年が小学校の校長を務めたという記録もあるくらいで、人間、やらざるを得ない状況ならそれくらいはできるのである。実際、今の小学校の校長の業務をすることができるであろう15歳の少年を見つけてくることは、それほど難しいことではない気が私はする。
さすがに3歳や4歳ではムリだが、15歳なら充分である。9歳でも、できる子はできるだろう。こういうふうに考えていくと﹁先生と生徒は違う役割なんだ﹂ということを前提にしてやる教育というのは、3歳児や4歳児向けの教育なんだという気が、私はする。
だから、﹁先生と生徒は違う役割なんだ﹂ということを前提にしてやる教育というのは、まあ小学生くらいまでで“卒業”して、中学生以降は、基本大人として扱う、というのが、ジェネラルスタンダードであって然るべきだと、さしあたっては思うのだが、
そういう、署名活動が生徒たちの間で自主的に湧き上がってくるとか以前の問題であるような、生徒たちがたくさんいる、中学校・高校というのも、これまた、それほど珍しいことではない、というふうにも、一部からは聞かれる。
だから私は、杓子定規に﹁中学生以降は大人扱いでおk﹂とは思わないが、生徒たちに見られる問題行動が、﹁それ以前の問題﹂であるのか、それともそうでないのかを見抜く眼を、少なくとも教師たちは持っていなくてはいけなくて、
それを持っていない教師たちのもとで育つと、いろいろな本格的な災難が、子どもたちの前に立ち現れる気がする。
ある程度以上の年齢の子どもは、教師や親に対して﹁対等性﹂を要求するものだと思う。親が倒れたら自分がその代わりをしなければいけないわけであるから、当然である。
そういう意味で言えば、このことは、親と教師とを同列には語れない。通常の学校においては、教師が倒れても、べつの教師が自動的に供給されてくるわけで、生徒は自分が代わりをする必要はさらさらないからだ。
そしてこの、﹁教師が倒れても、べつの教師が自動的に供給されてくる﹂という点が、まさにいまの教育をダメにしているのではないか、という気もまたするのである。
親を殺した子どもは、一生親なしだが、教師を殺した生徒は、一生教師なしではない。親は﹁代わりが効かない存在﹂であるが、教師は﹁(制度上は)いくらでも代わりはいる存在﹂として認知されているし、そういうふうに認識することを我々は強要されている。
﹁いまの自治体には金がない。だから新しく教師を雇えないし、そもそも人がいない。だから、いま先生が急病で倒れたら、君たちは先生なしで自分で勉強するしかないんだよ﹂というような状況に、戦前の子どもたちの一部は、置かれていたのではないだろうか。
幼児は親や先生に対して対等性を要求しない。
幼児たちは、彼ら同士で張り合ったり、喧嘩したりすることはあっても、先生と張り合ったりすることは基本的にない。それは幼児たちが先生たちを﹁次元の違う存在﹂であるというふうに認識しているからだろう。幼児たちにとって先生たちというのは、自分と同じゲームのプレイヤーではないのだ。
子どもが対等性を要求するようになったら(*1)、本来は教師や親は﹁そうか、お前もそういう年齢になったか﹂と、その成長を喜ばなくてはいけないのである。であるのに、いつまでも相手が幼児であるというような気分で、子どもに接している親や教師は実際多い。
︵*1 ならなくても、教師や親のほうから自主的に子どもを対等に扱うことによって、子どもの側の対等性への欲求を引き出してやるということすら、それなりの発達段階にいる子どもに対しては、やらなくてはいけないことではないかというふうに思う。︶
なんというか、大人が﹁子どもの教師や親に対する違背が、なにに基づくものなのか﹂についての判断を誤ることは、子どもの成長を妨げることのほうが多いのではないだろうか。
もっとも、この判断がどれくらい簡単かについては議論の余地があるかもしれないけれども。
生徒は教師を見ていろんなことを学ぶことができるが、生徒が教師に“学ばせる”ことはできない。結果的に教師が自主的に生徒から学ぶことはあっても、生徒の直接的な意思により教師を学習させることはふつうできない。
教師と生徒のあいだにあるこの非対等性は、﹁教師は変化しないもの﹂という措定により与えられる。かりに教師が変化する存在だとすると、それは生徒の学習機会の一部を剥奪していることになってしまうからだ。
essa氏は﹁変化の不平等﹂ということを言ったが、そういう点から見れば学校というところは究極的に﹁変化の不平等﹂が達成されまくっているところである。
なにか問題があったときに、その問題が解決されるためには、誰かが変わる必要があるが、そのときに、教師が変わる役目を引き受けてしまうと、ダメなのである。
教師が究極的にバカであろうが究極的に天才であろうが、そんなことはどうでもよい。大切なことは、﹁教師自身は変化しない﹂ということだ。
たぶん、原始社会の大人たちの大半というのは、﹁変化しない﹂人たちであっただろう。だから子どもは、問題を解決するためには、自分のほうが変わらないといけない、ということを学んだ。いまはどうだろうか。
大人にも問題がある。それは確かに真実だ。問題のない大人なんていない。だが、生涯学習などと言って、なまじ大人も一生成長してゆく存在だ、などということが人口に膾炙し始めてから、教育というのはおかしくなっていったのだというふうに考えることもできてしまう。
変化の不平等の度合が弱まれば弱まるほど、子どもたちが引き受ける﹁変化の量﹂は減ってゆく。大人たちが少しずつ﹁自分たちも学ばなきゃ!﹂と、一人また一人と思い立つにつれて、子どもたちは﹁ぼくたちはもう以前ほど学ばなくていいんだ﹂と、一人また一人と学ばなくなってゆく。
そういう意味で言えば、大学と小中高は根本的に違う。大学というのは、先生は研究する存在でもあるから、大学の先生は﹁変化する存在﹂である。一方、小中高の先生というのは、少なくとも、﹁変化することを期待されていない存在﹂である。
しかし、だからといって、﹁変化する先生﹂のもとで学んだ子どもたちや子弟らが、みんな愚かで役立たずになってゆく、ということではない。そういうところからは、変化する先生のまねをして、自分もまた変化する存在にならんとする子もたくさん輩出されるからである。
思うにこれは、﹁自分は、先生と同じ役割を期待されている存在である﹂というふうに解釈するか、﹁先生とは異なる役割を期待されている存在である﹂と解釈するかの違いだと思う。前者は大学的、後者は小学校的である。
たぶんこの問題は、境界線をどこに引くかの問題なんだと思う。ぼくが大学的、小学校的とは言ったけど、﹁じゃあ中学生や高校生はどっちに分類するのがいいんだ?﹂ということに対しては明言を避けたのもそこなんです。
先生と同じ役割を引き受けるべきだという自覚のある中学生は、署名活動をするだろうが、自分は先生とは違う役割なのだというふうに心の底から思っている中学生は、署名活動などという発想には至り得ない。
親鸞聖人は9歳で得度されたわけだが(得度というのはお坊さんになること)、この世には、9歳で人を導く立場を強いられる人というのがいるわけだ。実際、少ないにせよ、父親が住職で、かつ早世した場合、僅か10歳前後の子どもがその役割を強いられるということは十分にあることである。
戦前には15歳の少年が小学校の校長を務めたという記録もあるくらいで、人間、やらざるを得ない状況ならそれくらいはできるのである。実際、今の小学校の校長の業務をすることができるであろう15歳の少年を見つけてくることは、それほど難しいことではない気が私はする。
さすがに3歳や4歳ではムリだが、15歳なら充分である。9歳でも、できる子はできるだろう。こういうふうに考えていくと﹁先生と生徒は違う役割なんだ﹂ということを前提にしてやる教育というのは、3歳児や4歳児向けの教育なんだという気が、私はする。
だから、﹁先生と生徒は違う役割なんだ﹂ということを前提にしてやる教育というのは、まあ小学生くらいまでで“卒業”して、中学生以降は、基本大人として扱う、というのが、ジェネラルスタンダードであって然るべきだと、さしあたっては思うのだが、
そういう、署名活動が生徒たちの間で自主的に湧き上がってくるとか以前の問題であるような、生徒たちがたくさんいる、中学校・高校というのも、これまた、それほど珍しいことではない、というふうにも、一部からは聞かれる。
だから私は、杓子定規に﹁中学生以降は大人扱いでおk﹂とは思わないが、生徒たちに見られる問題行動が、﹁それ以前の問題﹂であるのか、それともそうでないのかを見抜く眼を、少なくとも教師たちは持っていなくてはいけなくて、
それを持っていない教師たちのもとで育つと、いろいろな本格的な災難が、子どもたちの前に立ち現れる気がする。
ある程度以上の年齢の子どもは、教師や親に対して﹁対等性﹂を要求するものだと思う。親が倒れたら自分がその代わりをしなければいけないわけであるから、当然である。
そういう意味で言えば、このことは、親と教師とを同列には語れない。通常の学校においては、教師が倒れても、べつの教師が自動的に供給されてくるわけで、生徒は自分が代わりをする必要はさらさらないからだ。
そしてこの、﹁教師が倒れても、べつの教師が自動的に供給されてくる﹂という点が、まさにいまの教育をダメにしているのではないか、という気もまたするのである。
親を殺した子どもは、一生親なしだが、教師を殺した生徒は、一生教師なしではない。親は﹁代わりが効かない存在﹂であるが、教師は﹁(制度上は)いくらでも代わりはいる存在﹂として認知されているし、そういうふうに認識することを我々は強要されている。
﹁いまの自治体には金がない。だから新しく教師を雇えないし、そもそも人がいない。だから、いま先生が急病で倒れたら、君たちは先生なしで自分で勉強するしかないんだよ﹂というような状況に、戦前の子どもたちの一部は、置かれていたのではないだろうか。
幼児は親や先生に対して対等性を要求しない。
幼児たちは、彼ら同士で張り合ったり、喧嘩したりすることはあっても、先生と張り合ったりすることは基本的にない。それは幼児たちが先生たちを﹁次元の違う存在﹂であるというふうに認識しているからだろう。幼児たちにとって先生たちというのは、自分と同じゲームのプレイヤーではないのだ。
子どもが対等性を要求するようになったら(*1)、本来は教師や親は﹁そうか、お前もそういう年齢になったか﹂と、その成長を喜ばなくてはいけないのである。であるのに、いつまでも相手が幼児であるというような気分で、子どもに接している親や教師は実際多い。
︵*1 ならなくても、教師や親のほうから自主的に子どもを対等に扱うことによって、子どもの側の対等性への欲求を引き出してやるということすら、それなりの発達段階にいる子どもに対しては、やらなくてはいけないことではないかというふうに思う。︶
なんというか、大人が﹁子どもの教師や親に対する違背が、なにに基づくものなのか﹂についての判断を誤ることは、子どもの成長を妨げることのほうが多いのではないだろうか。
もっとも、この判断がどれくらい簡単かについては議論の余地があるかもしれないけれども。
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