「オキナワ移住地」の版間の差分
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[[ファイル:Colonia Okinawa.jpg|thumb|オキナワ移住地の入口にある訪問者を歓迎する看板]]
'''オキナワ移住地'''︵オキナワじゅう == 行政区分 ==
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{| class="wikitable"
|+ 穀物生産高の推移(トン)<ref name="出稼ぎと移民pp=441"/>
! 年 !! 大豆 !! トウモロコシ !! 小麦 !! ひまわり !!
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! 1994/95
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アメリカ統治下の沖縄からボリビアへ移民が行われた背景は以下のように集約できる。
* 戦後に発生した大量の海外引揚者の帰島
* 過剰人口問題を背景とした沖縄住民の[[反米|反米感情]]の醸成と[[共産主義]]の台頭による社会不安の増大<ref name="日本から一番遠いニッポンpp=195"/>
* 社会不安を手っ取り早く解決するための移民の推進<ref name="日本から一番遠いニッポンpp=195"/>
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さらに、1961年に国有地の約19,000ヘクタールが払い下げられ、この場所が第3移住地となった<ref name="ボリビア日本人移住一〇〇周年移住史編纂委員会pp250"/>。第3移住地には、第14次移住者から入植が始まった。<ref name="ボリビア日本人移住一〇〇周年移住史編纂委員会pp250"/>。第3移住地の整備にあたり、アメリカ政府はUSAIDを通じて約50万ドルを拠出した<ref name="ボリビア・コロニア沖縄入植25周年誌pp=133">{{Harvtxt|ボリビア・コロニア沖縄入植25周年誌|1980|pp=133}}</ref>。1964年に第19次移住者が第3移住地に入植し、この受け入れにより琉球政府の計画移住が終了した<ref name="ボリビア日本人移住一〇〇周年移住史編纂委員会pp250"/>。 1967年、沖縄の日本本土復帰より前に、オキナワ移住地は琉球政府から日本政府に移管された<ref name="出稼ぎと移民pp=433">{{Harvtxt|出稼ぎと移民|2008|pp=433}}</ref>。この背景として、占領地の移民をいつまでも面倒みていられないと考えていたアメリカ政府が、オキナワ移住地の支援を大幅に減らしたため、オキナワ移住地が苦境に陥ることになったことがある<ref name="若槻、発展途上国への移住の研究pp=11"/>。この状況をみた日本政府が1966年の日米協議委員会においてこの問題を持ち出し、外国に居住する沖縄県出身者の保護は第一義的に日本政府が当たることが合意されたためであった<ref name="若槻、発展途上国への移住の研究pp=11"/>。 これにより、オキナワ移住地は、海外移住事業団︵国際協力事業団を経て現在の[[国際協力機構]]︶の管轄となった<ref name="コロニア・オキナワ入植50周年記念誌pp=158">{{Harvtxt|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|pp=158}}</ref>。海外移住事業団は﹁オキナワ総合対策5ヵ年計画﹂を策定し、社会インフラの整備を年次的に進めることを決定した<ref name="コロニア・オキナワ入植50周年記念誌pp=158"/>。またオキナワ移住地の移民者には日本政府発行の[[パスポート]]が発給された<ref name="若槻、発展途上国への移住の研究pp=11"/>{{efn|移民者たちは、日本政府発行のパスポートを渡されるまでは﹁琉球住民身分証明書﹂という琉球政府発行の書類を携行していた。}}。 431行目:
1999年、サンタ・クルス市内で﹁日本人ボリビア移住100周年記念式典﹂が開催された<ref name="コロニア・オキナワ入植50周年記念誌pp=92"/>。この式典にボリビア政府から招待を受け、同国を訪問中の[[黒田清子|紀宮内親王]]がオキナワ移住地を訪れた<ref name="コロニア・オキナワ入植50周年記念誌pp=92"/>。1999年6月6日、歓迎式典が行われた<ref name="コロニア・オキナワ入植50周年記念誌pp=92"/>。 [[2000年]]に3移住地と周辺の19の村落と合わせて、ワルネス郡オキナワ村︵{{lang-es-short|Municipio Okinawa Uno}}︶として正式に発足した<ref name="ボリビア日本人移住一〇〇周年移住史編纂委員会pp234"/>。1999年に第一回 === 入植50周年記念式典 ===
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また、移民二世や三世の出稼ぎによって、彼らの日本への理解が深まり、移民一世の間に相互理解を生むことにもつながったという指摘もなされている<ref name="ボリビア日本人移住一〇〇周年移住史編纂委員会pp254">{{harvtxt|ボリビア日本人移住一〇〇周年移住史編纂委員会|2000|pp=254}}</ref>。 == 社会問題 ==
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エボ・モラレスは大規模農園主の所有地を接収し、先住民農家に配分する政策を進め、2009年1月に承認された修正憲法で土地所有の上限を5000haに制限した<ref name="朝日新聞20090527-M-P10">{{Cite news | title = ボリビア、大地主から土地没収 先住民に配分、不安募る日本人移民| newspaper = [[朝日新聞]]︵朝刊︶ | location = 東京 | pages = 14 | date = 2009-05-27 }}</ref>。2009年3月には、サンタ・クルス県のアメリカ人などの大地主から没収した38,000haの土地を先住民農民に譲り渡すと宣言を行った<ref name="朝日新聞20090527-M-P10"/>。しかしあるボリビアの日系人弁護士は﹁先住民に支えられているモラレス政権が、不法に入り込んだ先住民を排除してくれるかは疑問だ﹂と話した<ref name="朝日新聞20090527-M-P10"/>。 エボ・モラレスは2007年3月に日本を訪問した際、「日系人の農業経営や安全を脅かさない」と日本政府に公言した<ref name="朝日新聞20090527-M-P10"/>。しかし、オキナワ移住地で「土地
== 移民者の意識 ==
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=== 衣食住 ===
衣については、もともと沖縄からの移民は男女ともに洋服である<ref name="若槻、発展途上国への移住の研究pp=399">{{harvtxt|若槻、発展途上国への移住の研究|1987|pp=399}}</ref>。オキナワ移住地の結婚式では、花嫁が白いドレスの他、時に、お色直し用の着物を着る光景が見られる<ref name="若槻、発展途上国への移住の研究pp=399"/>。これらが衣に関する日本的なものの全てで、移民の服装はほぼボリビアに溶け込んでいる<ref name="若槻、発展途上国への移住の研究pp=399"/>。 「食」については、以下の表の通り、「どちらともいえない」を含めれば、どの移住地でも80〜90%はほぼ「日本的料理」をとっていると考えられる<ref name="若槻、発展途上国への移住の研究pp=402"/>。オキナワ移住地がサンタ・クルスよりも「日本的料理」が多いのは、日本的習慣の維持は農村で強く、都市部で弱くなる傾向に沿ったものと推測できる<ref name="若槻、発展途上国への移住の研究pp=402"/>。▼
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▲表の通り、﹁どちらともいえない﹂を含めれば、どの移住地でも80〜90%はほぼ﹁日本的料理﹂をとっていると考えられる<ref name="若槻、発展途上国への移住の研究pp=402"/>。オキナワ移住地がサンタ・クルスよりも﹁日本的料理﹂が多いのは、日本的習慣の維持は農村で強く、都市部で弱くなる傾向に沿ったものと推測できる<ref name="若槻、発展途上国への移住の研究pp=402"/>。 住居については、日本的特徴を見出すことは不可能である<ref name="若槻、発展途上国への移住の研究pp=400">{{harvtxt|若槻、発展途上国への移住の研究|1987|pp=400}}</ref>。掘っ立て小屋から邸宅に至るまで、その住居は持ち主の資本力に応じてボリビア人のそれに似せて造られている<ref name="若槻、発展途上国への移住の研究pp=400"/>。他の国の日系移住地では、時々、庭だけでも日本風庭園にする努力がみられるが、オキナワ移住地ではほぼそのような努力を見出すことはできない<ref name="若槻、発展途上国への移住の研究pp=400"/>。 618行目:
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戦前移民の住居によく見られた神棚は、オキナワ移住地、サンファン移住地も戦後移民が多いため、国家神道の衰退もあって各地とも10%に達していないことが、調査から示された<ref name="若槻、発展途上国への移住の研究pp=437"/>。また戦前の日系移民の家に多くみられた天皇の写真も、僅かしか飾られていなかった<ref name="若槻、発展途上国への移住の研究pp=437"/>。ただ、比率は低いがオキナワ移住地が一番多く天皇の写真を掲げている点は興味深い<ref name="若槻、発展途上国への移住の研究pp=437"/>。 一方でオキナワ移住地で生まれた移民二世で、プロサッカー選手として[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]で活躍した[[石川康]]は日本の雑誌のインタビューに﹁サンフアン移住地の家庭はどこでも天皇の写真を飾っていたと思います。でも、オキナワ村の家には天皇の写真はなかったですね﹂と述べている<ref>{{Cite journal |journal = 週刊文春 |title = ボリビアの家には僕が6歳まで水道と電気がなかった 石川康 |publisher = 文藝春秋社 |date = 1996-03-28 |page = 83}}</ref>。 767行目:
=== 日本政府に対する批判 ===
オキナワ移住地に対して日本政府から[[国際協力機構]]︵その前身である海外移住事業団、国際協力事業団︶を通じて、資金、物資、技術協力の援助が継続してなされている。しかし、この援助がボリビア人の不満の温床にもなっている<ref name="日本から一番遠いニッポンpp=189">{{Harvtxt|日本から一番遠いニッポン|2008|pp=189}}</ref>。ボリビアの日系移住地で聞き取り調査を行った石田甚太郎は、当時の国際協力事業団にオキナワ移住地への補助金の額を問い合わせたが、事業団は﹁外部に出した前例がない﹂という理由で拒否した<ref name="ボリビア移民聞書pp=258">{{Harvtxt|ボリビア移民聞書|1986|pp=258}}</ref>。 === 証言 ===
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ボリビアの日系移住地で聞き取り調査を行った石田甚太郎は﹁事前調査も不満足なまま異国に送り出された移民は、まさにジャングルに棄てられた[[棄民]]だった。だが、日本の経済復興にともない、日本政府の財政援助が増加し個人的な努力ともあいまって、弱者を切り捨て、いまや移民の主流は企業家であり資本家になった﹂とした。その上で﹁企業家になった移民たちには、新たな試練が近づいているような気がした。ボリビア人労働者を使用しないでは成立しない企業にもかかわらず、賃金問題や労働条件︵住居、衛生施設、有害な[[農薬]]の散布︶などを見れば、彼らは農奴待遇であった﹂と指摘した<ref name="ボリビア移民聞書pp=258"/>。石田は更に﹁ボリビア人の農場主はもっと悪どいという弁解も耳にしたが、それが免罪符になるだろうか﹂と疑問を呈した<ref name="ボリビア移民聞書pp=258"/>。 2004年に行われた入植50周年式典で大統領が述べた祝辞について、サンタ・クルス県の新聞﹁{{仮リンク|エル・デベール|en|El Deber}}﹂は、批判的な記事を掲載した<ref name="日本から一番遠いニッポンpp=189" 石田甚太郎は、オキナワ移住地でボリビア人と日系移民の間にある不和が子供にも影響を与えているという話を移住地の学校教師から聞いていた<ref name="ボリビア移民聞書pp=159">{{Harvtxt|ボリビア移民聞書|1986|pp=159}}</ref>。例えば何か物が紛失したとき、日系移民の子供が、最初からボリビア人の子供を犯人扱いする傾向があるとした<ref name="ボリビア移民聞書pp=159"/>。また、日系の子供がボリビア人に対して﹁[[土人]]﹂と差別的な呼び方をしているのを目撃したとも述べている<ref name="ボリビア移民聞書pp=159"/>。 |