「シカゴ交響楽団」を編集中
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1953年、現在のシカゴ交響楽団のヴィルトゥオーソ・オーケストラとしての基礎を築き上げたハンガリー人指揮者[[フリッツ・ライナー]]が第6代音楽監督に就任する。ライナーはアンサンブルを練り上げ、首席奏者の入れ替えを積極的に行い(チェロに若き日の[[ヤーノシュ・シュタルケル]]を招聘したのもライナーである)格段のレベルアップを実現し、シカゴ交響楽団はアメリカ最高のオーケストラのひとつに数えられるようになった。ライナーの治世が、シカゴ交響楽団の第1期黄金時代であったことは確かである。ライナーはシカゴ交響楽団とともに[[RCAレコード|RCAレーベル]]におびただしい録音をおこない、中でも[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、リヒャルト・シュトラウス、[[オットリーノ・レスピーギ|レスピーギ]]、[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]、ブラームス、ドヴォルザーク、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]などに名盤が残された。キャシディのライナー評も好意的であった。 |
1953年、現在のシカゴ交響楽団のヴィルトゥオーソ・オーケストラとしての基礎を築き上げたハンガリー人指揮者[[フリッツ・ライナー]]が第6代音楽監督に就任する。ライナーはアンサンブルを練り上げ、首席奏者の入れ替えを積極的に行い(チェロに若き日の[[ヤーノシュ・シュタルケル]]を招聘したのもライナーである)格段のレベルアップを実現し、シカゴ交響楽団はアメリカ最高のオーケストラのひとつに数えられるようになった。ライナーの治世が、シカゴ交響楽団の第1期黄金時代であったことは確かである。ライナーはシカゴ交響楽団とともに[[RCAレコード|RCAレーベル]]におびただしい録音をおこない、中でも[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、リヒャルト・シュトラウス、[[オットリーノ・レスピーギ|レスピーギ]]、[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]、ブラームス、ドヴォルザーク、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]などに名盤が残された。キャシディのライナー評も好意的であった。 |
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1957年、ライナーは、合唱指揮者として名声を得ていた[[マーガレット・ヒリス]]を招聘して[[シカゴ交響楽団合唱団]]を創設した。ヒリスの指揮する同合唱団は1958年3月13・14日に[[ブルーノ・ワルター]]指揮のモーツァルトのレクイエムによってコンサート・デビューを果たし、さらに同年4月3・4・8日にライナー自身の指揮するヴェルディのレクイエムの演奏に参加した。さらに、1959年3月7日にはライナーの指揮する[[ |
1957年、ライナーは、合唱指揮者として名声を得ていた[[マーガレット・ヒリス]]を招聘して[[シカゴ交響楽団合唱団]]を創設した。 ヒリスの指揮する同合唱団は1958年3月13・14日に[[ブルーノ・ワルター]]指揮のモーツァルトのレクイエムによってコンサート・デビューを果たし、さらに同年4月3・4・8日にライナー自身の指揮するヴェルディのレクイエムの演奏に参加した。さらに、1959年3月7日にはライナーの指揮する[[プロコフィエフ]]の[[アレクサンダー・ネフスキー]]によって最初のレコード録音をおこなうなど、着実に発展した。ヒリスはその後、1994年までの37年間にわたって同合唱団を指導することになる。 |
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このようにライナー時代のシカゴ交響楽団は世界の音楽界を瞠目させる輝かしい成果をあげていった。しかし、団員に対する辛辣で厳しいライナーの言動は伝説になるほどであった。国内の演奏旅行などでは非常に高い評価を受け、メンバーの士気も高揚したが、初めての国外演奏旅行(ヨーロッパ)の計画を巡って、関係者間で対立した挙句にライナーが演奏旅行の中止を宣言し、それはライナーと楽員との間に癒しがたい傷を与えた。1962年、ライナーの健康上の理由もあって次シーズンの音楽監督としての契約は更新されず、彼は音楽顧問という立場に退いた。ライナーは翌1963年にニューヨークにおいて死去している。 |
このようにライナー時代のシカゴ交響楽団は世界の音楽界を瞠目させる輝かしい成果をあげていった。しかし、団員に対する辛辣で厳しいライナーの言動は伝説になるほどであった。国内の演奏旅行などでは非常に高い評価を受け、メンバーの士気も高揚したが、初めての国外演奏旅行(ヨーロッパ)の計画を巡って、関係者間で対立した挙句にライナーが演奏旅行の中止を宣言し、それはライナーと楽員との間に癒しがたい傷を与えた。1962年、ライナーの健康上の理由もあって次シーズンの音楽監督としての契約は更新されず、彼は音楽顧問という立場に退いた。ライナーは翌1963年にニューヨークにおいて死去している。 |