三根山藩
日本の江戸時代末期(幕末)~明治時代初期に、越後国に所在した藩
三根山藩(みねやまはん)は、江戸時代末の越後国蒲原郡三根山(のちの西蒲原郡巻町嶺岡→峰岡、現在の新潟市西蒲区峰岡)にあった藩。藩主は譜代大名の牧野家。
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沿革
三根山分知
1634年︵寛永11年︶5月21日(旧暦)に牧野駿河守忠成が四男定成に蒲原郡三根山の新墾田6000石を分与し、分家させたのに始まる。その後、領地が1万石に満たないことから大名ではなく旗本寄合席として長らく存続した。
しかし忠成は三根山分知に当たり、いずれ諸侯となれるように、5000石を内高として仕込んでおいたとする。その一方で、士分格式の家臣は、旗本であった1848年︵嘉永元年︶に64名、大名昇格後の1863年︵文久3年︶に77名である。[1][注釈1]
なお1812年︵文化 9年︶9月には、旗本で石高6000石、父が﹁牧野播磨守﹂である﹁牧野半右衛門﹂が定火消役に就任し、1816年︵文化13年︶当時麻布市兵衛町に居住していたことが、﹃編年江戸武鑑 文化武鑑﹄に見られる。
三根山藩立藩
幕末の1863年︵文久2年︶、時の領主忠泰︵ただひろ︶は新田分5000石を新たに打ち出し、高直しにより11000石の三根山藩として立藩した。なお当藩は、諸侯となってからは、参勤交代を行わない定府大名となった。藩庁は三根山陣屋に置かれた。また、藩校入徳館を開校した。
戊辰戦争とその後
戊辰戦争では宗家に近い立場をとるが、新潟・長岡が相次いで陥落すると慶応4年8月には新政府側に恭順し、続く新政府軍の庄内藩征伐に出兵した。明治元年12月に転封命令が出て、明治2年転封先が信濃国伊那と決定するが、嘆願により差し止めとなった。1870年︵明治3年︶、藩名が丹後の峰山藩と紛らわしいため嶺岡藩︵みねおかはん︶と改めさせられる。翌1871年に廃藩置県されて嶺岡県となり、同年中に新潟県に併合された。旧藩主家は華族に列し、子爵となる。
米百俵の逸話
宗家の長岡藩は北越戊辰戦争敗戦後に極度の食糧不足に陥ったため、急遽三根山藩が100俵ほどの義援米を送り届けたが、その義援米の扱いをめぐって長岡藩が人材育成を優先したことが、後に戯曲化されて「米百俵」の美談として世に知られるようになった。
三根山藩の機構
職制
三根山藩には以下の職制があった。
家老、留守居、用人、郡奉行、寺社方、足軽支配、仲間支配、元締、目付、御山方、御普請方、御用方、御勘定方、御取次、御広間番、奥付、御祐筆、御座敷番、御馬役。他に番頭、物頭、代官、御勝手方、公用方など。[2]
家格
上記職制には原則下記の家格に応じて世襲する慣例となっていた。
家老、用人、番頭、物頭、給人格、目付格、納戸格、近習格︵以上が上士︶、中小姓格、徒士目付格、徒士格、坊主格、料理人格︵以上が下士︶。[3][注釈2]
士分以下︵卒分︶として、足軽小頭格、仲間小頭格、足軽、仲間があった。
なお、藩士の嫡子は17歳になると出仕を命じられるが、その際の扱いは概ね以下の通りであった。
家老嫡子は給人格、用人嫡子は納戸格次席、給人格以上の嫡子は近習格、給人格以下の嫡子は中小姓格、また下士の嫡子は坊主格とされた。[4]
主要家臣
主要家臣としては、神戸家、倉地家、岡本家の3家が世襲家老の家柄であり、この3家の家禄は、いずれも200石台前半であった。これに次ぐ家格として槇家、塚田家、小畑家、中村家があった。[5]
三根山藩は、幕末にいわば背伸びをして大名に列したため、越後長岡藩・小諸藩と異なり、表高と裏高にほとんど差がないので、家臣団の数や、その俸禄も多くはない。廃藩置県のときに、士分格式60人・卒分格式124人がいた。
歴代領主・藩主
幕末の領地
脚注
注釈
出典
参考文献
- 今泉省三『長岡の歴史 第1巻』野島出版、1968年
- 武田広昭編『三根山藩』巻町双書第二十集、1968年10月10日
関連項目
先代 (越後国) |
行政区の変遷 1634年 - 1871年 (三根山藩→嶺岡藩→嶺岡県) |
次代 新潟県 |