三根山藩

日本の江戸時代末期(幕末)~明治時代初期に、越後国に所在した藩

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三根山藩(みねやまはん)は、江戸時代末の越後国蒲原郡三根山(のちの西蒲原郡巻町嶺岡→峰岡、現在の新潟市西蒲区峰岡)にあった藩。藩主は譜代大名牧野家

三根山藩址公園(陣屋跡)にある「三根山藩址之碑」(新潟市西蒲区

沿革

三根山分知


163411521()駿60001 50001848641863377[1][1]

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三根山藩立藩


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三根山藩址公園にある米百俵の碑

戊辰戦争とその後


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米百俵の逸話

宗家の長岡藩は北越戊辰戦争敗戦後に極度の食糧不足に陥ったため、急遽三根山藩が100俵ほどの義援米を送り届けたが、その義援米の扱いをめぐって長岡藩が人材育成を優先したことが、後に戯曲化されて「米百俵」の美談として世に知られるようになった。

三根山藩の機構

職制




[2]

家格




[3][2]

17 [4]

主要家臣


33200[5]

60124

歴代領主・藩主

牧野家
旗本寄合 6000石 (1634年 - 1863年)
  1. 定成(さだなり)
  2. 忠清(ただきよ) 養子、定成の弟
  3. 忠貴(ただたか)
  4. 忠列(ただつら) 養子、秋月種封の子
  5. 忠知(ただとも)
  6. 忠義(ただよし)
  7. 忠救(ただひら)
  8. 忠衛(ただもり) 養子、松平乗寛の子
  9. 忠直(ただなお) 養子、奥平昌高の子
  10. 忠興(ただおき) 養子、松平乗美の子
譜代 11000石 (1863年 - 1871年)
  1. 忠泰(ただひろ) 養子、五島盛保の子

幕末の領地

脚注

注釈

  1. ^ 与板(後に小諸移封)、三根山の2つの分家を、忠成の一代で諸侯(大名)として召し出されるのは恐れ多いので、三根山は当初から実質11000石の石高がありながら遠慮してこのようになったとされる。
  2. ^ 上士は御目見え以上の格式、下士は御目見え以下である

出典

  1. ^ 『三根山藩』2頁、「分知の事情」(原典は『峰岡藩史資料』)
  2. ^ 『三根山藩』34-35頁、「職制」(原典は『峰岡藩史資料』16頁・『西蒲原郡誌』)
  3. ^ 『三根山藩』35頁、「職制」(原典は『西蒲原郡誌』)
  4. ^ 『三根山藩』35頁、「職制」(原典は『西蒲原郡誌』)
  5. ^ 『三根山藩』35頁7行、46頁脚注11(福井伊藤家文書「諸日記帳」三根山家中、牧野筑後守様家臣方御席順表)及び付表8(「正米分限帳」)

参考文献

  • 今泉省三『長岡の歴史 第1巻』野島出版、1968年
  • 武田広昭編『三根山藩』巻町双書第二十集、1968年10月10日

関連項目

先代
越後国
行政区の変遷
1634年 - 1871年 (三根山藩→嶺岡藩→嶺岡県)
次代
新潟県