伊吉宅麻呂
経歴
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天平8年︵736年︶4月に遣新羅使の随行員として大使・阿倍継麻呂らと出航するが、佐婆の海中︵現在の防府市沖の周防灘︶で嵐に遭い、数日漂流の末に順風を得て豊前国下毛郡分間浦︵現在の大分県中津市田尻・今津付近か︶に漂着。この時に宅麻呂が詠んだ和歌1首が﹃万葉集﹄に採録されている[1]。のち、宅麻呂は壱岐島まで渡るが疫病にかかり卒去。その時の挽歌である長歌3首と短歌6歌が﹃万葉集﹄に採られているが[2]、挽歌9首の構成は﹃万葉集﹄の中でも異例のものとなっている。
その後、遣新羅使は新羅に到着するが、当時日本と新羅との関係は悪化していたため、使節としての使命は受け入れられなかった[3]。
その他の経歴は明らかでないが、伊伎島司や神祇官宮主を務めたともされる[4]。