ウィキペディア日本語版へようこそ!
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こんにちは、ミラー海神さん。はじめまして! ウィキペディア日本語版へようこそ!
ファーストステップ・ガイド
●初心者の方はまずガイドブックを読んでください。今後の編集活動にとってとても大切な内容が書かれています。
●児童・学生のみなさんは児童・生徒の方々へをお読みください。
●サンドボックスでは、自由に試し書きをすることができます。
●トレーニングも兼ねて自己紹介をしてみましょう。
●隣の利用者ページは自己紹介や作業用のスペースとして利用することができます。
●執筆・編集するときは五本の柱に注意してください。
ヘルプ
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●FAQ - ウィキペディアについてのよくある質問と回答集です。
●ヘルプ - ウィキペディアの使い方を説明したページの一覧です。
●コミュニティ・ポータル - 利用者のための総合的なポータルページです。
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ワンポイント情報
●署名 - ノートページでは必ず署名をしてください。編集画面の上部にある署名アイコン︵ ︶を押すか、--~~~~と書くと署名に変換されます。
●基本方針とガイドライン - 百科事典を作り上げるための方針とガイドライン
●ページの編集 / 新しいページの作成方法
●スタイルマニュアル - ウィキペディアにおいて記事を書くときに、使用するべき文章スタイルについて
間違えてしまったら?
●ウィキペディアはウィキというシステムを使っています。ちょっとした間違いなら、すぐに直して投稿すれば問題ありません。
●ウィキペディアのページそのものは削除することができません。詳しくは削除の方針に書かれています。
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- Hello, ミラー海神! Welcome to Japanese Wikipedia. If you are not a Japanese speaker, you can ask a question in Help. Enjoy!
- ウィキペディアの機能や使い方に関してわからないことがあったら利用案内で質問できます。
- ミラー海神さんがウィキペディアにおいて実り多き執筆・活動をなされることを楽しみにしております。--Trgbot(会話) 2013年12月19日 (木) 19:41 (UTC)返信
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力士記事の出典の大相撲力士名鑑平成13年版のことにつき
私の作成した記事の細部修正に協力いただき感謝します。ところで、私は6月より、﹁大相撲力士一覧﹂のところで作成されていない十両、幕内の記事を簡易ながら作成し、あとは詳しい人の加筆に委ねるという方法を取り、従って相当に適当な記事も多くあります。関取経験者の記事はなるべくあった方が良いという判断からです。記事作成で最大の頼りにしたのは、水野氏の大相撲力士名鑑で、これは1976、1985、2000年と上梓され、現在は毎年出版されています。
2000年12月に発売された平成13年版に収録されているのは、顔写真付きで旧両国国技館開館の1909年6月場所から2000年11月場所までの間に幕内に在位した力士全員と、顔写真なしの一覧表で、戦後︵1945年11月場所以降︶の十両昇進者全員︵最高位が十両の力士、2000年9月新十両・2001年1月新入幕の朝青龍はここに収録︶が収録されています。さらには、顔写真なしで旧両国国技館開館までの幕内力士も入幕順に収録されていて、一番古いのは、1853年11月入幕の浦風林右エ門︵白真弓肥太右エ門、6代浦風、のちの浦風林右エ門とは別人︶で、最も現代に近いのは五所車です。なので、幕内力士に限っては、白真弓肥太エ門から2000年11月新入幕の若光翔までは、大相撲力士名鑑を出典として用いることは有効です。従ってマラー海神さんが作成された、鉞音五郎、緋縅力弥 (2代)と、戸田川鷲之助とアラタマ、オダマキの記事の出典に大相撲力士名鑑の平成13年版を用いると、記載がないと言われ揚げ足を取られると思います。別にこの出典がなくても、十分に立派な記事なのだから大丈夫です。また鉞音五郎などの出典に明記を続けていると、私が大相撲力士名鑑を頼りに作成した記事もいかがわしく思われてしまうことも心配です。
私は大相撲力士名鑑を頼りに記事になっていない力士を全部作成しようとしましたが、ちょっと諦めました。というのも古くなれば同名力士が多く、それが何代目か分からなくなるからです。緋縅力弥も4人ほどいますし、名鑑に記載がある明治時代の緋縅力弥が何代目かわからず断念しました。その他で言うと、8代常盤山の二枚鑑札、常盤山小平治は、これより前に鷲ヶ峯、さらには箕島と名乗っている。また9代常盤山は、箕島邦五郎の名で記載があるが、その後鷲ヶ峯に改名しいる。名鑑以外の別の資料で調べると、この二人より前に、箕島、鷲ヶ峯と名乗った常盤山部屋の力士が存在し、それぞれ何代目の箕島で、何代目の鷲ヶ峯か皆目見当が付かず断念しました。狭布里のように名乗った力士の数が分かっていれば容易なことです。その他では、一覧表で唯一、出身地が不明とされている若山与吉という力士がいます。他の資料では当時の東京府出身となっていましたが、私は自信がなく作成を断念しました。
ミラー海神さんは、珍名や難読力士が守備範囲の一つであるようなので、大相撲力士名鑑の浦風から五所車までの力士の一覧表で、そのような四股名の力士を紹介させていただくと鉞り鉄五郎、横車利三郎という力士がいます。また現在の幕内力士の勢翔太より前に、﹁イキオイ﹂を名乗った幕内力士として勢イ力八という力士がいます。よろしければチャレンジ下さい。––まっきんりい
Eichler-Shimuraの編集ありがとうございます.しかしながら、現在、英語側の原文の編集も行う予定があり、英語側、日本語側の他の記事との整合性を取っているところです.また、このマクロの該当部分を変更しても表面上は何の変化もありませんので意味がありません.英語版と比較することができませんので、Undoさせていただきます.趣旨をご理解いただきましたら、本セクションを削除いただいて結構です.--Enyokoyama︵会話︶ 2014年9月14日 (日) 07:51 (UTC)返信
どうもはじめまして。途方シネマズと申します。野球選手の記事について大変積極的な加筆をされているようで、恐れ入ります。しかし、ミラー海神様が加筆されている記事について、出典をよく見ると、個人のサイトを出典としているものが大半のように見受けられました。果てはヤフー知恵袋︵筒井良武です︶を出典とされているようですね。Wikipedia:信頼できる情報源を見ますと、︵前略︶自己公表された本や個人のウェブサイト、ブログの大部分は情報源として受け入れられませんとあり、原則個人のサイトは出典としてはNGという事になっています。ヤフー知恵袋についてはネット上での匿名での投稿となるため、情報源としては受け入れられないように思います。Wikipediaでは出典を全くつけずに加筆していく方が非常に多いので、出典はないよりはましだとは思いますが、出典を付けるのであればWikipedia:信頼できる情報源をお読みになり、記事の加筆・立項をお願いいたします。--途方シネマズ︵会話︶ 2014年10月2日 (木) 23:34 (UTC)返信
上記の注意書きを記載後にのぼらんかと言うゲームの記事を立項されたようですが、外部リンクを見ますと、個人サイトYoutubeの動画などがリンクされています。外部リンクの取り決めを見ますと、youtubeなどの動画は禁止ではないもののアップロードされている動画は一個人が勝手にアップロードした動画のようなので著作権上問題となる動画ですので不適切な外部リンクとなります。動画でないサイトについても個人サイトのようですから、宣伝的で中立でない可能性があり、外部リンクとしては不適切です。--途方シネマズ︵会話︶ 2014年10月6日 (月) 01:21 (UTC)返信
上記の注意書き後、更にプロゴルフ (ゲーム)の記事を立項されたようですが、こちらに外部リンクとして記載されているサイトは個人のブログと、youtubeの個人のプレイ動画ではないでしょうか?また野球選手の記事を立項されていますが、今度はいずれも出典が全くありません。個人のサイトは出典として使えませんが、書物等であれば出典があるはずです。ちゃんとした出典が無ければ記事を書くべきではありません。Wikipediaには様々な方針やルールがありますが、それらを理解の上編集活動にいそしんでいただきますようお願いします。--途方シネマズ︵会話︶ 2014年10月26日 (日) 23:28 (UTC)返信
私が新しく作成したいくつかの記事に「○○年設立」などのカテゴリーの付与を行っていただき、ありがとうございます。ミラー海神さんはペドロ・サンチェスにCategory:スペインのバスケットボール選手を付与されましたが、ABC紙の出典を確認するとあくまでも学生時代にアマチュアとしてプレーしていただけのようで、この人物の経歴の中では政治家という肩書と並列させるまでもないと思い、この項目からCategory:スペインのバスケットボール選手を外し、エストゥディアンテスBCの歴代所属選手欄からサンチェスの名前を除去しました。ご理解をお願いします。なお、結局エストゥディアンテスBCのどのカテゴリーのチームに所属していたのかが不明なのですが、現在は基金の運営にかかわっているなどとの注釈つきでエストゥディアンテスBCの項目に記載することには意義があるかもしれません。その辺はお任せします。--Asturio Cantabrio(会話) 2014年10月27日 (月) 04:30 (UTC)返信
お疲れ様です。森岡俊夫についてミラー海神さんが追加してくださった[[Category:大阪大学出身の人物]]ですが、医学部選科の場合にもつけていいのでしょうか?当時の歯科医師が研究で医学博士になる際に必要なルートでは有りますが、大学としては特殊なコースの用に思えますので、そこで判断に悩んでinfoboxの出身校や出身カテゴリに追加できませんでした。KMT(会話) 2014年11月1日 (土) 09:29 (UTC)返信
あなたのお気に入りの記事をお聞かせください。その記事に半角スペース1文字だけ入れてわたしに知らせてください。読みたくなりました。読んだら感想とかまた書かせていただくかもしれません。--ジャコウネズミ︵会話 | 投稿記録︶ 2014年12月23日 (火) 05:55 (UTC)返信
初めまして、ジャコウネズミ様。ミラー海神と申します。私のお気に入りの記事は、無冠の帝王 シルバーコレクター 番狂わせ の3つです。世間では普通、勝者ばかり取り上げられることが多いですが︵好例が関ヶ原の戦い 元禄赤穂事件 など︶、この3つの記事は、勝者の陰に隠れがちな敗者にスポットライトを当てて、敗者の特徴・美点を広く知らしめる点で気に入っています。私がWikipediaに投稿するコンセプトは、﹁時代の陰に埋もれてしまった人物・事項︵特に第二次世界大戦前後の混乱期で、当時有名だった物が、いつの間にか時代の波に埋もれていたりする日本の事物︶をこの場で投稿して、再び光を当てる﹂事です。そのため、少々出典が不足・不十分であって︵無いのは困りますが。でも、私の投稿も度々Wikipediaのルールに抵触している所もあり、その点は反省しています︶も、Wikipediaに立稿する事によって、再びスポットライトを当ててあげたい。そう思いながら、投稿しています。こんな私ですが、よろしくお願い致します。--ミラー海神︵会話 | 投稿記録︶ 2014年12月23日 (火) 06:21 (UTC)返信
どうもです。会話ページのリバートを悪意にとられるのは本当に嫌ですよね。私もいろいろ失礼な勘繰りをしてしまいました。英語版Wikipediaでは、自由に表示を消す文化が維持されているようですし︵日本語版もその文化ごと輸入したので最初はそうだったらしいんですが、ページ上で言い合い︵議論とも呼べないような︶が多発して、話が終わってないのに消すな!って表示を復活させて、むしろ醜い応酬や警告の方が表示させなくてはならないようになって、今では﹁白紙化も禁止されていませんが﹂という程になってしまいました。むしろ禁止されていると思っている人の方が多いです。私の勘違いかもしれませんが、中国語版では既読の印にリバートするみたいです。﹁話が終わってないのに消すな!﹂に慣れてしまってついリバートしたら管理者か誰かがすぐ代わりに来て注意されました。白紙化の話は何度かしているんですが、いよいよこれは訴えなくてはいけないなと。Wikipedia:井戸端で話してみようと思います。
本来、この会話ページは記事向上のための議論のためにあって、雑談するためではないですし、感想を書かせていただくかもって言いましたが、特になかったです。テレビゲームの記事がやたら詳しかったんでそういうものがお好きなのかなと最初思っていました。﹁敗者の特徴・美点﹂ですか。神妙な気持ちになりますね。
で、ですが、Wikipedia:独立記事作成の目安の方はWikipedia:信頼できる情報源の質をがっちり固めてないとあなたが思っている以上にまずいかもしれないです。コメント依頼でブロックとか、一度言ってしまったくらいなんで。厳しい考え方をしています。ただ、﹁特筆性の有無がはっきりしない記事については、削除は最後の手段であるべきです。﹂ってありますので、本当に最後の手段です。考え方については後でまた詳しく書きます。--ジャコウネズミ︵会話 | 投稿記録︶ 2014年12月23日 (火) 08:05 (UTC)返信
利用者‐会話:ジャコウネズミまで気楽にお越しください。お話しましょう。話題は何でも構いません。編集することの楽しさとかについて語り合いたいです。--ジャコウネズミ︵会話 | 投稿記録︶ 2014年12月24日 (水) 00:31 (UTC)返信
ミラー海神さんがこれまで会話ページにいらっしゃらなかった理由が分かりましたので、逆に申します。この節に書くことは消さないでください。隠密にしておくために消してくださいと言いたいところですが、追記を書かせていただくことが発生してしまうかもしれないので、表示したままでお願いいたします。なぜ記事を粗製濫造してはいけないのかを結論から先に言いますと、﹃Wikipediaは複数の人たちが集まって記事を書き、よりよい記事にしていくサイトだから﹄です。私、ジャコウネズミは今後もあなたが記事の編集を続けていかれることを全力で擁護したいと思います。しかし、それを決めるのは、ここにいる人たちです。ですから、私にあなたを擁護するための根拠を与えてください。既にあなたは他の方々が編集されている記事を編集しています。他の方々が書いておられる記事の記事本文の編集の機会を増やしてください。カテゴリの濫造や既にあるカテゴリの添付ももうしないでください。擁護しづらくなります。翻訳記事の作成も内容的には素晴らしいことかもしれませんが、日本語版Wikipediaに居る人たちの中で記述を良くして行こうというここのサイトの趣旨に沿いません。気持ち的には擁護しますが不可能です。もうやらないでください。特筆性とは、立項される対象がその対象と無関係な信頼できる情報源において有意に言及されている状態であることを意味します。特筆性の言葉上の意味は、店の評判など、どんな些細なことでもWikipedia:信頼できる情報源を満たす出典によって何か言われたことが記事に書かれているということです。言葉の意味はただそれだけのことですが、出典があれば記事になるわけではなく、︵リンク作の記事は︶単にWikipedia:信頼できる情報源を厳格に守っただけの頭のいい人が作った﹁悪ふざけ﹂です。﹁独立記事作成の基準﹂ではありません。Wikipedia:独立記事作成の目安が﹁目安﹂であって﹁基準﹂とかかれていないのはそのためです。誰かと協力して、対話して、ときには議論もして、複数の編集者が記事を編集していけそうな話題がWikipediaで好まれているのはそのためです。このことをさらに強調するために、Wikipediaに﹁編集履歴﹂というものがある意味をご説明いたします。理由は﹃1.著作権法を守ることと、2.既に書かれている記事を変更することと、3.いちいち誰がどこをどのように変更したかを記事本文に表示させておかなくてすむようにする、この3つの条件をすべてクリアするために必要なシステム﹄だからです。1. 誰でも書いたものは著作物で、誰にも複製も変更もさせない権利を持っています。2.記事編集に出典を付けるのも、著作権法の複製権︵転載禁止︶の例外規定である引用に定められている法的用件だからです。誰が︵どこをどのように︶変更したかを署名付きで残しておけば、編集可能です、というWikipedia内部のルールを保証して、記事を編集可能にしているのがWikipediaのライセンス規定です。3.これだけだと、現状自由に編集させてくれないここの会話ページやノートページのように、どんどん追加され、署名が増え、打ち消し線だらけのぐちゃぐちゃなページになってしまいます。記事として読めません。そこで、その役目を記事の裏にある履歴ページを残すことで表に書かなくて済むようにした、それがWikipediaのシステムなのです。ウィキペディアのシステムは全てはこのためにあるのです。そのシステムの中で、時を重ねるごとに、記事内容が向上するよう定めた考えに考えられた仕組みが、難しい言葉で書かれているWikipediaのルールの全てです。ちなみにここの編集者たちは、会話ページをまるで1.2.までしかない状態と同じと考えているやつらばっかりですが、同じシステムなので安心してください。もし差し戻すなと誰かに言われたら私を呼んでください。この件も含め、私はあなたの編集を身を挺する覚悟で擁護します。決して裏切らないでください。擁護と弁護は違います。弁護もしますが、その分、あなたの編集行為が有名になってしまい、不利かもしれないと危惧しています。もうこれ以上何も言わないことも擁護のうちだろうと思います。どんなことでもいいので、こちらに来て私に相談してください。あなたは、その編集行為の特徴から、既に何人かの方々から指摘を受け、徐々に知られる人になってきています。用心して記事の編集に励んでください。では失礼致します。--ジャコウネズミ︵会話 | 投稿記録︶ 2014年12月24日 (水) 16:52 (UTC)返信
●度々感謝していただき大変恐縮です。さて、ミラー海神さんは、勝者の陰に隠れがちなもの、日の当たらないものに興味があるとのこと。この点に付いては私も同じで、ちょっと意味が違うかもしれないが、有名でありながら未だ記事がなかった人物についても、私は日の当たらない人物として捉えています。相撲のことはあらかた終わったと思っていて、今は別角度からの記事作成をせねばならぬと思っている日々です。
●ところで先日来、私には記事にする自信がないとして執筆依頼に上げたものを紹介しておきますので、ミラー海神さんが記事にできそうであれば、どうぞ記事にしてあげてください。いずれも、日が当たっていないか、有名なのに記事がないものです。
●まずはゴルフの選手から、最近とみに活躍している武藤俊憲選手の記事がまだありません。また青木功などと同じように中卒のたたき上げ、千葉県野田市出身、優勝8回の草壁政治選手も記事がない。草壁は優勝から32年遠のいているので、過去の人かもしれません。
●ついで野球選手では、ドラフト制以降の中卒選手3人のうち、近藤義之がいまだ記事なし。元中日・広島の若林隆信の父、元西鉄の若林淳至も記事なし。西日本パイレーツの元選手、大分の津久見高校監督として優勝2回、高橋直樹、大田卓司らを指導、川崎憲次郎が2年の1987年まで監督を務めた小嶋の兄ちゃんこと小嶋仁八郎︵1921年7月7日-1999年11月16日︶も、何故か記事がありません。
●ラグビーの世界では、都城から明治、サントリー初優勝の決勝ゴールを決めたサントリーのエース・永友洋司、何かと有名な選手だがこれも記事なし。また1991年1月8日の三洋との伝説の試合でロスタイムの大逆転トライを決めた神戸製鋼のイアン・ウィリアムス︵トライで同点、コンバージョンゴールで逆転勝ち越し、キックは細川隆弘︶、2013年春に24歳で死亡した近鉄ライナーズの有望株、中井太喜も記事がない。
●マラソン選手では、1992年のバルセロナ五輪で有森裕子を選ぶか松野明美を選ぶかで有森を選んだ小掛照二は、ソウル五輪の男子マラソン3人目でも瀬古利彦か工藤一良かで、瀬古を選んだ。瀬古は有名だが、工藤一良も当時は悲運の選手として知れ渡っていた。ソウル五輪補欠になった工藤一良もいまだ記事なし。工藤は、青森の駅伝の名門だった名久井農業高校からリッカーミシンに進んだが、リッカーが廃部。ソウル五輪補欠になった時は日産自動車陸上競技部の選手だった。その日産陸上部も5、6年ほど前に廃部なのだから、工藤は悲運が似合うようです。しかし、日清食品グループ陸上部のコーチだか何だかに招聘され、日清陸上部を強豪にしたのだから、記事がないのは日が当たっていない証左。その他、読売防府マラソン常連の渡辺共則やマヌエル・マティアス、ジャクソン・カビガ、森宗寛司なども記事なしです。
●これは人物ではないですが、高校野球や高校サッカーの全国大会に過去に出場した高校は、当然記事があるものと捉えていたら、公立高校は統合によって消滅していたりするものです。そういった学校で、学校としての記事がないものとしては、野球では北海道芦別工業高等学校、サッカーでは石川県立河北台商業高等学校でしょう。日の当たらないという点では、廃校した私立高校というのもあり、釧路第一やジ・オリオンは何かと有名です。その他多くありますが、記事がなくて日が当たっていない廃校した私立高校は、石川の星稜︵実践第二︶の兄弟校の実践第一高校︵実践商業高校から改称︶や、和歌山の三尾高校︵三尾商業高校から改称︶でしょう。
●以上の上げたものは、私には到底記事に出来そうにない人物や学校ばかりで、丸投げのようで申し訳ありませんが、もしもミラー海神さんの眼鏡に叶い記事にすべきと判断し、出来そうであればチャレンジ下さい。--まっきんりい︵会話︶ 2015年1月27日 (火) 05:23 (UTC)返信
初めまして、まっきんりい様。ミラー海神と申します。色々と執筆依頼をして下さって、本当にありがとうございます。また折に触れて、執筆依頼の記事を作りたいと思います。今後もどうぞよろしくお願いします。--ミラー海神︵投稿記録︶ 2015年1月27日 (火) 10:00 (UTC)返信
●丸投げ迷惑かと思ったら、そうでもないとのこと感謝します。ところで昨日申し述べた小嶋仁八郎のこと、もし私が提供した情報を元に記事を作られるならば、ちょっと誤りがあったので訂正しておきたいと思います。1999年に小嶋氏が逝去された時に、川崎が﹁私が高2の時まで…﹂と言っていたので、1987年まで監督かと思っていたら1982年までのようです。その後はグラウンドに顔を出して、時折指導していたとのこと。小嶋仁八郎は、臼杵高、中央大では投手ですが、実際に西日本パイレーツに所属したのかあやふや、練習生であったのかもしれず、要するに元プロなのかそうではないのかわからず、それがネックで私には記事に出来なかった。教え子20余人をプロに輩出したのに記事がないのは残念なことです。その他、知っているのは1988年に朝日体育賞というものを受賞したことくらいです。
●また、2009年まで奈良の郡山高校を実に長く指揮し、甲子園でも名将に数えられる、今は大阪桐蔭の総監督でもある森本達幸氏の記事も存在しません。もう81歳くらいだと思います。たしか大和郡山市内で森本バッティングセンターという自営業をしながら、郡山高校を長く率いた人物です。また、福島の学法石川高校を強豪にし、監督退任後に総監督となり、1999年の学法石川の甲子園出場の際に、アルプススタンドで観戦中に倒れ、数日後に西宮市内で亡くなった柳沢泰典監督や、三重の明野高校の監督で、明野時代を築いた野球未経験、元ボクシング選手の冨士井金雪監督も著名です。明野の冨士井監督は、1990年6月13日に、部の後援会だか保護者会だか、部費のことだったか、何かのトラブルで連日の警察の事情聴取に疲れ、首吊り自殺しています。冨士井監督が潔白だったのかはわかりませんが、明野時代を築いたのは事実。昨日の分と、森本、柳沢、冨士井の3監督が、私には記事に出来そうにない人物、学校です。気が向いたらどうぞ、よろしくお願いします。--まっきんりい︵会話︶ 2015年1月28日 (水) 06:48 (UTC)返信
●執筆丸投げだと申し訳ないので、もし記事に出来るのであればと思い、私がこれまで摑んでいる情報を提供しておきます。ただ、これだけだと記事にするには心許ないことばかりです。
●まずは森本達幸ですが、1934年11月6日、奈良県生まれ。郡山高校から関西大学、京都大丸で投手。高1の時は紀和大会決勝で新宮に1-2、高3でも紀和大会決勝で新宮に0-1で敗れ甲子園出場なし。関大では上田利治とバッテリーを組む。1963年から母校監督、2009年まで務め、甲子園春夏11回出場。1971年夏に初戦でPL学園に快勝したことで一目置かれはじめた人物。監督在任中は、バッテイングセンター経営と、時期不明ながら大和郡山市の助役も務めた。2011年から大阪桐蔭高校の総監督。80歳。
●ついで学法石川の柳沢泰典は、横浜生まれで日本大学高校から日本大学。卒業後の1967年に福島の学法石川高校の野球部監督に就任。大洋・遠藤、ロッテ・諸積、オリックス・川越を指導。福島の強豪にしたが、ある時に監督を退任し、総監督に退いた。1993年夏出場の時は、まだ監督であったので、それ以降のことかと思われる。1999年に学法石川が甲子園出場し、8月14日の初戦をアルプススタンドで在校生とともに観戦・応援中にくも膜下出血で倒れ騒ぎとなって病院に搬送され、大会終了翌日の8月22日に54歳で没。柳沢は甲子園で死んだと言われた。生年月日がわからないが、逆算すると1945年4月2日から8月22日までの間の生まれか。
●明野の冨士井金雪は、1943年10月10日に三重県度会郡二見町の生まれ。伊勢実業高校︵伊勢まなび高校に改称︶、国士舘大学の出身。元ボクシング選手で、ボクシング部のある明野高校に赴任してボクシング部監督。1975年の三重国体では、明野ボクシング部を中心に構成するボクシング三重県代表監督として、国体優勝。1978年から野球未経験であったが野球部監督に就任。本人の志願ではなくて、ボクシングで優勝した手腕を買われたとのこと。1980年夏に初出場し、最後の甲子園出場は1988年春。初勝利は1985年春。金星は1986年の初戦にセンバツ優勝の池田を圧倒した白星。教え子に大道典嘉、広沢好輝。1990年のトラブルは、部員か部員の家族か、その周辺からの収賄容疑とのことで、警察沙汰になり任意事情聴取中に首を釣って縊死。
●別件で紹介した廃校した私立高校の三尾高校は、三尾商業高校から改称ではなく、1948年の新制高校化で三尾商業学校から三尾高校に改称のようです。また最終的には三尾高校から三尾実業高校に改称したと聞き、いずれにしても1952年に廃校となり、高等学校としては4年しか存在しなかった模様です。ただ、実際に三尾高校を名乗ったのかどうかも不明で、三尾商業学校から三尾実業高校へ改称かもしれません。
●以上の点では、記事にするには少し足りないと思い、私では出来ないと判断した次第。その為、私が摑んでいる情報を全て提供します。度々のこと、申し訳なく思っています。--まっきんりい︵会話︶ 2015年1月29日 (木) 03:40 (UTC)返信
●柳沢泰典は、1997年夏の予選終了後に監督を退き、総監督となったようです。また死去から15日後の9月6日に、学法石川高校で柳沢家と学法石川高校による合同葬が営まれた模様です。--まっきんりい︵会話︶ 2015年1月30日 (金) 08:28 (UTC)返信
●丸投げして申し訳なかったのですが、なかなか素晴らしい記事の仕上がり感謝します。足りない点は私も加筆しますし、また誰かが加筆するでしょう。ところで、近藤義之について私もよく知らないのですが、中学卒業後の1967年夏にプロテストを受けたので、生年月日は逆算すると1951年4月2日-1952年4月1日の間になります。1952年とあるので、1952年1月1日-4月1日の間で間違いないでしょうか?また詳しい誰かが加筆するので心配は無用かと思いますが。若林淳至の生年月日もそのうち誰かが加筆するでしょう。ラグビーの永友洋司のことを言うと、宮崎県に長友、永友の姓が多いので、当然何故多いのかそれに応えるために記事があって、著名人として永友洋司はあるものだと思ったらなかった。1995年度の三洋との同点優勝を決めたゴールキックなど何かと有名だったのですが。サッカーの長友も祖父が宮崎出身のようです。また郡山高校の森本達幸は、昨年発売された本に郡山高校名誉監督とあったので、大阪桐蔭の総監督をもう辞めたのか、兼任なのかわかりません。ともあれ立派な記事感謝します。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月2日 (月) 03:08 (UTC)返信
●まっきんりい様へ。褒めて戴き、こちらこそ感謝致します。近藤義之に関しては、ページ中の元阪神の辻本賢人の記事で﹁15歳で1年目のシーズン﹂を迎えたとあるので、1968年1月1日時点で15歳というと、1952年1月2日-1953年1月1日の間になります。また仰る通り、1967年夏にプロテストを受けたので、生年月日は逆算すると1951年4月2日-1952年4月1日の間ですから、重複している期間として1952年1月2日-4月1日の間と計算できます。これ以上はいくら調べても不明でした。ただ断片的な資料から計算できる物はなるべく記事化していきたいです。お仕事があるので中々時間が取りづらいですが、今後もなるべくまっきんりい様のご要望に関しては、記事化していきますのでよろしくお願い致します。--ミラー海神︵投稿記録︶ 2015年2月2日 (月) 13:00 (UTC)返信
●忙しいところ申し訳ないです。ところで、日が当たらないマラソン選手︵有名なのに記事がない選手含む︶で、工藤一良のみ詳しく情報を提供しましたが、他の選手については情報を提供していないので、ここで提供をしておきます。渡辺共則は旭化成所属、高校は京都の宇治高校で、女子マラソンの千葉真子と同級のようです。高3の9月1日から宇治高校が立命館宇治高校に改称したようです。防府国際マラソンや北海道マラソンといった、少し注目されないが大きい大会によく参加していた選手。防府は1999、北海道は2005、2006年で優勝しています。都道府県対抗男子駅伝の京都選手団に入ったりと、マラソン選手としては比較的地味に活動。表記はごく稀に渡邊とされるが、実際に渡邊なのか渡邉なのかわからないから、渡辺共則と表記されるのが一般的。旭化成の一流選手と千葉真子の陰に隠れた存在。
●次いで森宗寛司︵もりそうかんじ︶については、カネボウ所属の選手で、マラソン選手しては好結果を残せておらず、それがネック。ただ、伊藤国光の指導を受けた選手で、伊藤に栄冠を齎した大功労者ということは事実。伊藤と言えば日本が誇る名ランナーでありながら、何故か一度も優勝できなかったカネボウの選手。日本人で初めて2時間7分台をたたき出した時も優勝できなかった。カネボウ監督としては、高岡寿成や入船敏を一流に育てた手腕は大変評価されています。現在元日に開催されている実業団駅伝の第40回大会で優勝監督になった時は、優勝に縁がなかっただけに感動しました。この40回大会でカネボウのアンカーを任されたのが森宗で、旭化成の佐保希とほぼ同時にタスキを受け、佐保とともにアンカー区間を併走、ゴール目前1秒差で佐保を抑え、伊藤に栄冠を齎した。アンカー区間以前の区間の選手も立派だが、森宗が伊藤を男にしたのは事実。森宗はマラソン選手としてはあまり実績がなかった。都道府県男子駅伝で出身の岡山選手団で何度か走っていた。
●マラソンの大会では、トラック勝負になることが、かつての東京国際や福岡国際ではよくあって、ジュマ・イカンガーと瀬古利彦、デンシモと渋谷俊浩、メコネンと小指徹のトラック勝負とかが有名です。ポルトガルのマヌエル・マティアスは、1989年の福岡国際でトラック勝負を制した選手で、併走して競技場に入ってきたのではなく、それなりの差をソ連のラビル・カシャポフに付けられて競技場に入ってきた。それをトラック400mで猛追し、残り20mほどで並んだと記憶していて、最後に抜いたと思う。当時はポルトガルは、1984年ロサンゼルス五輪男子マラソン、1988年ソウル五輪女子マラソンで金メダリストを輩出しており、さすがにポルトガルの選手は勝負強いと思ったが、マラソン大国であったポルトガルの、日本のマラソン大会優勝者の記事がないことは残念なことです。またマティアスにかわされたカシャポフは、実は前年が3位でこの年は同タイムの2位、翌年に期待されましたが、翌年は全くいいところがく4位、さらに翌年にソ連崩壊だからこれが皮肉。ソ連という国の晩年を彩ったマラソン選手かもしれません。
●トラック勝負とは別に、初めから独走と言うと、1998年の福岡国際を制したケニアのジャクソン・カビガ。初めから抜け出しバテないかと心配するくらい。途中2位集団から抜け出した選手が一旦追いついたが、再スパートしてまたまた独走。なにか、当時いくつかの大会で結果を既に残していた選手のようで、一流マラソン選手とのことです。
●日本電気所属の阿部文明が記事にならないかと思っていたら、先日記事になっていて、それは阿部がびわこ毎日マラソンで2度優勝したことからではなく、箱根駅伝を走ったマラソン選手というくくりで作成されたものでした。日本電気のマラソン選手で、阿部より有名なのは早乙女等ですが、なんと早乙女の記事がないようです。姓も早乙女と珍しいのだから、誰かが気付いて記事を作ってもよさそうですが。
●ゴルフの武藤俊憲は現状、一流選手ですので簡単に記事を作成したら、誰かが大量に加筆して万全の記事が出来るのではとも思っています。
●これはまた別のことですが、先日森本達幸、柳沢泰典、冨士井金雪という高校野球監督を紹介しましたが、1970年夏、福島の磐城高校で準優勝投手、小さな大投手、福島のヒーロー、田村隆寿の記事がないようです。田村は日大、ヨークベニマルを経てのちに、安積商︵現・帝京安積︶を2度、母校の磐城を1度、監督として甲子園に導き、昨今隆盛を極める聖光学院の監督も務めていました。今の聖光学院の斎藤監督は、田村が監督時は野球部部長︵責任教師︶。田村監督のもと、秋季東北大会に出場するなど、強豪・聖光学院の下地を築いた。どうやら、福島の人には、田村を擁した磐城高校時代、柳沢泰典指揮下の学法石時代、そして聖光学院時代と3つあるようです。
●丸投げはよくないので、情報だけを提供しておきます。記事に出来そうなものがあれば一つ宜しく願います。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月3日 (火) 05:01 (UTC)返信
●阿部文明は日本電気HEでしたが、早乙女等は日本電気で、所属が別でした。誤情報提供を陳謝します。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月4日 (水) 08:12 (UTC)返信
●またしても素晴らしい記事で、あのような形で亡くなった冨士井監督の浮かばれるかと思います。もみ上げについての情報は提供していなかったのですが、それも入っているのはなかなかの調査力です。これも陰に隠れた、隠れてしまった人物を取り上げたい気持ちが強いからなのでしょう。
●提供し忘れていた情報と言えば、学法石川の柳沢泰典は日大の経済学部の卒で、現役時代は外野手。ただ怪我の為に、今で言う学生コーチに転じており、その指導力を買われ学法石川に雇われたようです。つまり、柳沢からではなく、学法石川の招聘。学法石川は戦前からある学校ですので、日大にもルートがあったのでしょう。磐城のエース、安積商、磐城、聖光学院元監督の田村隆寿も日大ですが、こちらは準硬式野球部の所属です。
●私が丸投げする人物や組織の記事作成は大変でしょう。そう思っていながら、まだ私では作成困難な人物を紹介させていただくと、サッカー・ベルギー代表DFのペーター・ファン・デル・ヘイデンの記事がまだありません。この選手は、2002年W杯の日本戦に出場した選手です。自らのミスから、日本の鈴木隆行に同点ゴールを許し、さらに稲本のゴールで逆転される。ペーター・ファン・デル・ヘイデンは、日本のGK楢崎がやや前に出ているのを見逃さず、冷静にループシュートを決めて同点に追いついた。試合中に自らのミスを帳消しにした。この他、サッカーなら日本が出場した1998年で同組になり、得点も決めた選手でまだ記事がないのはアルゼンチンのピネダ、ジャマイカのアールあたりですね。1982年のハンガリー10得点大勝の得点者のキシュなどもまだ記事がありません。
●歴史上の人物にも造詣が深いならば、絵師の加瀬谷東嶺についても私では記事にできないと思っています。今の秋田県横手市︵横手市に吸収された増田町︶の人で、同じ増田町出身の漫画家の矢口高雄の蛍雪時代なる漫画に登場する実在の人物です。秋田と言えば秋田蘭画ですが、日本絵師もいたわけで、加瀬谷東嶺は増田町の狙半内︵さるはんない︶という地区の肝煎りの身分だったようですが、とあることから牢獄にぶち込まれています。藩の理不尽な課税に抗議した結果なのか、何なのかわかりませんが、無茶苦茶な理由でぶち込まれています。牢獄を出て、肝煎りを息子に譲り、39歳︵数え︶で、円山・四条派の鈴木南嶺に入門し絵師になっています。故郷に錦を飾ったが、1年後に死亡。加瀬谷家は代々正右衛門を名乗るようです。東嶺の雅号は、鈴木南嶺の弟子だからです。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月8日 (日) 03:49 (UTC)返信
●柳沢泰典で忘れていた情報で、たしか2002年あたりに、その死が労災に認定されていたはずです。こういうのも労災になると、話題になりました。こういうのと言うのは、総監督でスタンド観戦中でのこと。かつて1959年の大会で戸畑の直村鉄雄監督が、試合に敗れた直後のベンチで倒れのち死亡ということがありましたが、直村は労災に認定されたのか、されなかったのかと、こちらも話題になった。戸畑は1959年から3年連続出場だから、あとの2年は弔い合戦と言われていたのですが、労災のことは聞かなかった。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月8日 (日) 08:58 (UTC)返信
●深夜遅く失礼します。詳細な情報を提供して下さって、本当にありがとうございます。柳沢泰典についても記事作成致しました。--ミラー海神︵投稿記録︶ 2015年2月8日 (日) 17:15 (UTC)返信
●柳沢も報われて感謝します。私の知り得る情報だけではこのような立派な記事にはならないでしょう。やはり、私が作成するよりは丸投げしたのが正解だったかもしれない。川越はまだ、柳沢に総監督に退く前の選手なので訂正しておきました。また、これまでの記事も誰か更に詳しい人の加筆を望む為に、Portal:日本の都道府県の加筆依頼に入れてあります。これは近藤や若林父、柳沢の生年月日を知る人がいるかもしれない処置です。また、加瀬谷東嶺が牢獄にぶち込まれたのは仙北街道の拡張工事に関する事のようです。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月9日 (月) 04:03 (UTC)返信
●まず田村隆寿︵たむらたかとし︶の記事作成困難なのは聖光学院の監督にいつ就任したかがわからないということ。日大準硬式からヨークベニマル、1976年に安積商の監督就任、1983年には母校の磐城の監督就任。1985年に母校を甲子園出場に導いた。とにかく、小さな大投手と言われる人物は何人かいるが、その代表例のような人物。聖光学院は1991年秋季東北大会に福島1位で乗り込みます。この時、田村が監督だというので話題になりました。初戦で仙台育英に延長15回1-2でサヨナラ負けのようです。今の斎藤智也監督は1999年に監督就任。田村については1996年監督就任ともいうので、一旦誰かに譲ったのちに再就任しているのか。だとしても、1991年の秋季東北大会に出場した時はすでに監督であったので、一体何時就任したのかわからない。1996年というのが、1986年の誤りであるならわかりがいいのですが。
●加瀬谷東嶺︵かせやとうれい︶について、ただ日本絵師とだけ紹介してもわからないでしょうから、私が摑んでいる情報を提供しておきます。漫画家の矢口高雄と同じく秋田県増田町︵現・横手市︶狙半内の人で、1789年生まれ。加瀬谷家は狙半内の親郷肝煎で苗字を許された身分、10代加瀬谷正右衛門の長男で、幼名は正七。絵に興味があり、家も裕福で親も理解があり、秋田藩の絵師・渡辺洞昌に付いて若年の頃に絵を学ぶ。何年間学んだか、また帰郷して11代加瀬谷正右衛門として親郷肝煎にいつなったかは不明。3年間牢獄にぶち込まれたのは、1825年に起きた牛道事件と言われるもので、発端は仙北街道の手倉越えの道の拡幅工事。人しか通れない幅を、牛馬が通れる幅に拡幅したいと役所に願い出た。拡幅の狙いは、狙半内の新田開発や農耕に、牛馬を活用したいため。奥羽山脈の東、今の岩手県は奥羽馬の産地、また牛もいて、奥羽山脈の西では、当時農作業に牛馬を使うことが稀だった。この為、牛馬獲得、新田開発、農作業を楽にする、延いては石高増産、年貢米も増えるし、農民の手取りも増えるという理由から、道の拡幅を肝煎として役所に願い出た。ところで、この今の仙北街道の手倉越えは、秋田藩領の祖半内から仙台藩領の下嵐江︵おろせ︶に跨るので、同様の主旨を仙台藩の肝煎りを通して願い出て、仙台藩領内の手倉越えの道の拡幅は許された。下嵐江は今の岩手県胆沢あたりです。ところが、秋田藩ではなかなか許可が下りない。仙台藩領内の道は、仙台藩の親郷肝煎たちの手で拡幅工事が始まり、東嶺もそのうち許可が下りるだろうと秋田藩領内の拡幅工事を始めたところ、逮捕され3年間の入牢となった。考えてみれば、秋田藩佐竹家と仙台藩伊達家は、関ヶ原合戦では敵対しており、道を拡幅すれば攻め込まれる危険が増えるし、仙台藩の牛馬を買うわけにはいかないということで、許可が下りるはずがなかった。3年間入牢ののち出獄、息子の正松に肝煎を譲って絵に専念するために、円山応挙の流れの汲む円山・四条派の鈴木南嶺に弟子入り。これが数え39歳で、修行期間は足掛けで8年︵1828-1835︶、東嶺の雅号を頂き、1835年5月に帰郷。しかし、1836年12月22日、数え48歳で没、死因不明という人物です。東嶺については、同じ狙半内の矢口高雄が、蛍雪時代という漫画で﹁東嶺の末裔﹂という話で紹介したのが有名で、この話を発表した時に、1995年が増田町の町制100年だから・・・とか、また他にも東嶺の名誉回復を・・・と聞いた記憶があります。これだけでも記事に出来そうですが、足りない気がしています。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月9日 (月) 07:01 (UTC)返信
●柳沢泰典の件ですが、1967年に22歳で日大卒業と同時に監督就任なので、生年月日は1945年4月2日から8月22日の間ではなく、1945年1月1日から4月1日の間でした。誤情報提供を陳謝。勘違いしていました。手元の資料に、1945年生まれとだけあり、1999年8月22日に54歳で没。1967年4月に着任とあるので、1945年の早生まれということです。なので横浜の渡辺監督︵1944年11月︶や天理の橋本監督︵1944年12月︶なんかと同じということでした。訂正しておきました。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月10日 (火) 02:41 (UTC)返信
第4回東京箱根間往復大学駅伝競走について
こんにちは~ ミラー海神さん
第4回東京箱根間往復大学駅伝競走のページで通過順位と表示されているのにも関わらず各区間の区間順位が載っています。
早急の訂正をよろしくお願いします。
--KAZUKI.JP 2015年2月14日 (土) 09:44 (UTC)こんにちは~ ミラー海神さん
第4回東京箱根間往復大学駅伝競走のページで通過順位と表示されているのにも関わらず各区間の区間順位が載っています。早急の訂正をよろしくお願いします。
●こんばんは、KAZUKI.JPさん。再確認した所、やはり区間順位ではなく通過順位を記入しています。この年の駅伝は激戦で、6区までは順位が入れ替わっていました。各大学の区間ごとのタイムを合算し、タイム順に通過順位を記入しました。よって計算違いがなければ、私の投稿で間違っていないと思います。 -- ミラー海神︵投稿記録︶ 2015年2月14日 (土) 09:53 (UTC)返信
●私には出来ない記事内容で感謝します。この調子で頼みます。サッカーのW杯得点者のことでは、アルゼンチンのピネダについては、そこそこ有名なのに記事がないので上げましたが、ジャマイカのアールについては、同国のW杯初得点者なので上げています。やはりW杯初得点者は、敬意を示されるようで、エクアドルのデルガドなんかは協会の大物になっています。他には1994年W杯で、ボリビアにW杯5試合目にして初得点を齎したエルウィン・サンチェス︵1969年10月19日-︶の記事がまだありません。サンチェスはのちに監督も務めます。1978年W杯のポーランド戦ゴールが有名なブラジルのロベルト・ディナミテは、のちに名門のバスコ・ダ・ガマの会長になったはずです。他に有名どころで記事がないのは、メキシコのフランシスコ・バレンシア、同じくフローレスあたりでしょうか。
●野球選手では、尾崎兄弟や阪神の岡本、日本ハムの津野のようにゴルファーに転向する人も珍しくありません。1977年に読売ジャイアンツに2位指名を受けた木下透もゴルファーに転向しています。1県1校制でなかったので、県で優勝したが山口哲治︵のち近鉄︶の智弁学園に敗れて甲子園出場がならなかったという選手。今は焼肉屋を営む西岡良洋の先輩のようです。また1969年に阪神に指名されて拒否した三重高校の上西博昭︵1969年センバツ優勝投手︶も中京大学卒業後にゴルファーとなっています。木下も上西も、地方のゴルフ場の専属と聞きます。
●ラグビーのウィリアムスと永友について、少し詳しく述べておきます。新日鉄釜石の7連覇の2年後、東芝府中が優勝しましたが、この第40回社会人大会1回戦の神戸製鋼戦は逆転、逆転また逆転の熱戦で、終了間際の再逆転で東芝府中が1点差で勝利したはずです。そのまま東芝府中が優勝したものだから、神戸製鋼は悔しかった。それが1988-1994年度の7連覇に繋がっています。この7連覇中、1990年度の社会人大会決勝が、件の三洋電機戦で、終了間際の同点、逆転であり、ウィリアムスの活躍です。7連覇中最も危なかった試合ですが、リーグ戦では神戸製鋼キラーのワールドに結構負けていた。それでも同じ神戸のチームだからあまり話題にならなかった。この7連覇中でルールも変わった。1992年度から1トライ4点から5点になり、トーナメントでは同点の場合は無無条件引き分けであったのが、まずはトライ数が多い方が次戦進出、トライ数も同じならば抽選に変わった。要はトライを重視することになった。それでも記録上は引き分けだが。1996年度まで、社会人大会優勝者と大学選手権優勝者による試合を1月15日の成人の日のしていましたが、社会人と大学の実力差が開き過ぎ、大会方式が変わったのはルール変更と無関係ではないでしょう。前述の東芝府中を早稲田が倒したのが、実質的に最後の大学勝利のはずです。神戸製鋼の7連覇の2日後に震災があり、翌年度は神戸製鋼の連覇が阻止されます。止めたのが若きチームリーダー永友が率いるサントリーでした。神戸製鋼が3点リードしながらも、トライ数ではサントリーが上回っている終了間際に永友が同点のPGを決めます。決勝でも三洋電機相手に、同じように三洋3点リードでトライ数でサントリーが上回る終了間際に、永友が同点のPGを決めます。どちらも記録上は引き分けで、決勝は両者優勝になるわけですが、大学優勝者との次戦進出が懸かっているので重要なキックでした。永友は神戸製鋼戦でのキックを、外したら切腹ものだったと言いましたが、同じようなキックがもう一回あるとは思ってもみなかったことでしょう。三洋に関しては、非常にシルバーコレクターで、2009年度もリーグ戦で1位になりながら、トーナメントで負けたりサントリーアレルギーが払拭できないでいましたが、三洋の名で最後の2010年度に遂に単独優勝できてよかったなと思っています。
●加瀬谷東嶺について、矢口高雄︵本名は高橋︶が言うには、矢口の曽祖父︵3代前︶の話では、高橋家の先祖は加瀬谷家の下男だったとのこと。それが矢口の高祖父︵4代前︶なのか、さらに前なのか、時の加瀬谷家当主が東嶺なのか、その息子、または東嶺の親の時なのかわからないが、とにかく関わりがあったということです。同じ狙半内で、絵を生業とし、血縁はないが先祖が奉公していたということで、﹁東嶺の末裔﹂という自伝漫画を描いています。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月17日 (火) 06:14 (UTC)返信
●早速の記事作成感謝します。ボリビアはあの後に国の内紛が起きてサッカーどころではなくなってしまったので、その大変な時に代表監督を引き受けたサンチェスにも日の目が当たりました。今、アレハンドロ・チュマセロという期待の星がいるようです。また私の記憶違いで、5試合目の初得点ではなく6試合目の初得点でした。たしかギリシャが4戦4完封負けで5試合目に初得点しましたが、ボリビアは5試合目がスコアレスドローだったはず。いまだW杯で得点なしは、中国、カナダ、旧ザイール、インドネシア、トリニダード・トバゴでしたか。インドネシアは出場回数に含まれているのかは定かではありません。トリニダードはスコアレスドローがあるので勝ち点だけは上げているということですね。恐韓症のように苦手意識のある対決も面白いかもしれません。例えば日本がクウェートに3戦3完封負け︵全て0-2︶であり、引き分けどころか得点できていないとか、また日本が北朝鮮での試合は3試合して未だ得点なしとか、苦手な場所を取り上げるのも面白いでしょう。アメリカ代表がメキシコでの試合に勝ったことがなかったのですが、先年遂に勝利し話題になりました。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月18日 (水) 03:21 (UTC)返信
●こんにちは、まっきんりいさん。度々返信して戴いて、とても感謝しております。日本がクウェートに3戦して未勝利なのは、サッカークウェート代表の項にあります。ところで、Category:FIFAワールドカップにおける初得点者 (各国代表別)を作成して気付いたのですが、結構日本キラーの選手︵=日本のサポーターにとっては嫌な思い出がある選手︶が多いですね。代表格がオーストラリアのケーヒル︵実は2006年W杯での日本戦の同点ゴールが、オーストラリア史上初のW杯でのゴールでした︶,コートジボアールのドログバ︵嗚呼、2014年W杯…︶でしょうか。他に1998年W杯で対戦したクロアチアのスタニッチ、ドーハの悲劇でも対戦したイラクのラディ、1985年に1986年W杯アジア予選で対戦した韓国の朴昌善などもいます。極めつけはイスラエルのシュピーグラー。イスラエルは1970年代初頭、AFCに所属︵1974年に周辺諸国との険悪な関係︿特にUAEとサウジアラビア﹀によりAFCを追放され、現在はUEFAに所属︶していて、日本戦でも度々対戦した記録が残っています。ちなみに日本代表は、イスラエルになんと7戦して全敗というワースト記録を残しています。←ニッポン天敵列伝Vol.1 ﹁男子サッカー・イスラエル代表﹂︵参考サイト︶。サッカーイスラエル代表の編集を見ていたら、その事に言及している人がいましたが、やはり独自研究と取られたのか非表示になっています。何はともあれ、これからも宜しくお願い致します。 -- ミラー海神︵投稿記録︶ 2015年2月19日 (木) 06:47 (UTC)返信
●そうでしたか、クウェートに未勝利は既にありましたか。それと側面情報だった三洋がサントリーにやられたのは、2010年度のようで、またまた記憶違いで申し訳ない。ラグビーの日本選手権については、1997年度の大会方式変更でさっぱり要領を得なくなっています。豪州の初得点献上についても、豪州は初出場以来32年越しですので、何も日本が相手でなくともと思いました。1993年のドーハでの集中開催のイラク戦の記事では、同点ゴールを決めたオムラムの記事がないようですね。これは驚きです。フセインの拷問を回避できたイラク選手団にとっては英雄、何度か日本のTV局の取材に応えていましたが、記事がないとは。オムライスに響きが似るので、忘れにくい名前です。W杯本戦については、PKを決めた選手一覧とか、オウンゴールをした選手一覧とかあってもいいと思いましたが、初得点者より価値が低く思われ、ただ初得点がPKによるものは違いますが、やめた方がいいかと思われます。PKの場合、W杯で初のPKを決めたメキシコの選手の情報が不鮮明で、さらに両軍で5本のPKが決まる、PKの判定が下った不可解な試合もあり、オウンゴールは自チームに貢献していないからです。
●私が知り得ている役に立たず、記事にできない情報だと、沖縄県の前原高校は野球で3回全国大会に出場し、全て初戦完封負け。サッカーでも今年度の大会に2度目の出場を果たし、またまた初戦完封負け。競技は違えど、5度出場し悉く無得点は面白い。サッカーの場合、0-0で引き分けてPK勝ちもあるので、必ずしも無得点が恥ではないが、これは興味深いと唸りました。これはアマチュアスポーツですので構いませんが、プロスポーツで陰に埋もれているものには光を当てたいものです。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月19日 (木) 08:02 (UTC)返信
●これまた素晴らしい記事で、やはり私には作成できない内容でした。やはり初得点者は一目置かれるのかもしれません。初勝利の立役者のウィットモアは監督になっているし。この調子で、陰に埋もれている、または有名なのに記事がない人に光を当ててください。
●W杯のサッカーについて、多くのサッカーに興味がなかった日本人が見るようになったのは、初出場の1998年や日韓共催の2002年大会ですので、あの時よく名を聞いた選手は、どんな選手だったのかなと気になることも多いかと思われ、2006年以降はまだ記憶に新しいでしょうから、特に1998、2002年の得点者や注目された選手は記事を作っておいた方が有効かと思われます。私には出来ないので丸投げしているわけですが。
●1998年に日本と対戦したクロアチアのアリオシャ・アサノビッチ︵アリョシャ・アサノビッチとも、1965年12月14日-︶の記事がないことに驚いています。ゴルフの武藤の記事がまだなかったのと同じくらいの驚きです。アサノビッチは一流だし、日本人には浅野に聞こえて馴染みがあったし、大体日本戦のシュケルのゴールは、警戒していたアサノビッチに突破を許したところから始まっており、それだけ名が知られているのに記事がないことは不思議です。
●またジャマイカのアールの記事を作成して頂きましたが、この時のジャマイカ代表で最も触れ込みが高かったのは、アールでもウィットモアでもなく、ディオン・バートン︵1976年10月25日-︶であり、当時日本でもジャマイカで警戒をすべきはバートンと報道されて名は知られているのに記事が有りません。
●変わったところでは、2002年大会で韓国戦でゴールを決めたアメリカのクリント・マティス︵1976年11月25日-︶は、サッカーがマイナーであったアメリカのスポーツ雑誌の一面を飾った初のサッカー選手という勲章を持っています。この大会は、ベッカムのモヒカンに倣ったのか、日本では戸田、トルコのユミトダバラもモヒカンにしていましたが、ベッカムを除けばこのマティスが最もモヒカンが似合っており、なるほど一面を飾るはずだと妙に納得しました。
●先に上げたメキシコのバレンシアは指導者としても有能ですが、とかくクアウテモク・ブランコと馬が合わなかったとか。フローレスも代表監督を一時したはずです。
●1991年に東京で開催された第3回世界陸上の50km競歩で、ソ連のアンドレイ・ペルロフとアレクサンドル・ボタショフが併走して競技場に入ってきて、どちらが優勝するかと注目された時、どちらかか忘れましたが、手を差し伸べ二人で肩を組んで同時にゴールしようということになった。これはこの1ヶ月前にゴルバチョフの軟禁事件があり、結果的にこの年限りでソ連が崩壊、そういう苦境にあって同じソ連の選手として争うのは止め仲良くゴールしようというもので、肩を組むのも唐突だったが拒否するでもなくあうんの呼吸があった。それでもどちらかを金、どちらかが銀にしなければならぬので、ゴール脇で写真判定をし、ボタショフが金になりました。ただ、ペルロフは記事があるのに、ボタショフは記事がありません。なかなか有名な出来事ですので、記事があれば有効ですが、私には出来そうになにので、出来そうであれば頼みます。
●私はもうあれこれ丸投げするわけにもいかぬので、依頼するのはこれくらいにして、あとは丸投げした人物や学校につき、何か思い出したことがあれば情報を提供します。
●先日の東芝府中の優勝は、新日鉄釜石7連覇の2年後ではなく3年後でした。また三洋がサントリーにまたやられたのは2009年度ではなく2007年度で、2009年度は東芝にやられていて記憶が混同していました。永友とウィリアムスの側面情報としてはあまり役立ってなかったですが、誤情報陳謝します。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月19日 (木) 03:49 (UTC)返信
●ラグビーにおいてもなかなか立派な記事で、これまで知名度がありながら記事がなく日が当たっていなかったので、これは素晴らしいことと思います。
●情報の提供ですが、マラソン選手のジャクソン・カビガ︵Jackson・KABIGA︶は、どうやらかなり日本では馴染みの選手のようですね。1998年の福岡国際を制したあと、1999年から始まった長野五輪記念の長野マラソンの第1回で優勝しているようです。長野マラソンにも福岡国際にも、以後招待されてかなり走っているようです。
●マラソン選手で、日本でもかなり知られているのに記事がない選手で、南アフリカのゲルト・タイス︵1972年-︶がいました。1996年と2006年の別府大分毎日マラソンで優勝していますが、10年ぶり優勝というのはマラソンでは稀ですが、これは一流選手としての期間が長いからです。また2006年まで2月にあった東京国際マラソンの1999年大会で2時間6分33秒という、当時の世界歴代2位の記録で優勝もしており、それでいながら記事がないのは信じられぬところです。今でもこの記録は、これまでの日本国内の全てのマラソン大会の記録で、かなり上位ではないでしょうか。
●メキシコ代表のフランシスコ・バレンシアは、1973年4月28日生まれのようで、先日監督を辞めたアギーレの第一次メキシコ監督の時、急遽代表復帰したようですが、同じく復帰したブランコと馬が合わないので、両者ともに呼び戻すというのが、離れ業だったようです。
●この年代のメキシコの選手、ヘスス・アレジャノ︵1973年5月8日-︶は、モンテレイでは永久欠番になっているようです。
●フローレスという姓はメキシコに多いらしく、1978年W杯にDFとして出場したイグナシオ・フローレスは、2011年8月に旅行先で銃撃され58歳で死亡したようです。1986年W杯出場のルイス・フローレス︵1961年7月18日-︶もなかなかの選手。この大会は地元開催の地元のスター・ウーゴ・サンチェスが全く不振で、フローレスやフェルナンド・キラルテ︵1961年7月7日-︶の脇役の活躍で、メキシコはベスト8入りしたはずです。サンチェスはPKを外したり、名選手の割りにW杯では不完全燃焼でした。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月22日 (日) 08:05 (UTC)返信
●私などとは調査力が違いますね。私の適当な記事なんかよりはるかに充実しているし、丸投げして正解であったように思います。工藤も報われました。
●ジャクソン・カビガは、1998年のパリマラソンでも優勝しているようです。同年12月の福岡国際で22歳、1999年4月の栄えある第1回長野マラソンで22歳ですので、1976年4月-12月の間の生まれと思われます。
●1998年のW杯・クロアチア戦で得点したアルゼンチンのDF・マウリシオ・ピネダは1975年7月13日生まれで、当時はウディネーゼに所属です。
●少しサッカーのメキシコ代表チームのことについて述べておきます。1990年W杯で、予選途中でメキシコは失格になっています。まだ1試合もしていない状況でしたが、これは年齢制限のある別の大会で、年齢を超過した選手を出場させた制裁措置という。何故別の大会、A代表の大会にペナルティを転嫁するのか、これはアメリカの陰謀とも言われています。1994年に自国開催を控え、その前回大会に出場しておきたかったアメリカが、FIFAを動かしメキシコを失格に追い込んだとも言われます。なお、アメリカの戦前2度の出場は、イングランドからの帰化選手中心で、1950年大会はアマチュア主体でした。メキシコの英雄、ウーゴ・サンチェスは、若くして1978年W杯に出場しましたが活躍できず、1982年は不幸にして出場を逃し、自国開催の1986年は不完全燃焼、1990年は予選失格、1994年は峠を越えてしまい、初戦のノルウェー戦にのみ出場しただけでした。こういう不運もあり、メキシコの得点者には着目しています。それでは、1986年以降に限り、W杯で得点したメキシコ選手を紹介︵既に紹介したルイス・フローレスとキラルテを除く︶します。
●まずマヌエル・ネグレテ︵1960年3月2日-︶は、メキシコが唯一ベスト8入りした1986年W杯の決勝トーナメント1回戦のブルガリア戦で、決勝点となる先制点を、左足ジャンピングボレーで決めています。クライフターンのように人々の記憶に残るゴールなので、映像も多いと思います。ネグレテとアギーレ元日本代表監督とのワンツーからだったと思います。ベスト8を手繰り寄せた得点。さらにDFのラウル・セルビン︵1963年4月29日-︶による追加点が入り勝利しています。
●1994年、1998年のW杯に出場し、1994年のイタリア戦で同点ゴールを決めたのは、マルセリーノ・ベルナル︵1962年5月27日-︶は、のちにモンテレイにも所属しました。1998年W杯で、韓国戦、オランダ戦でいずれもリードされている後半から出場し、いずれも反撃の狼煙となる得点を決めたスーパー・サブのリカルド・ペラエス︵1964年3月14日-︶も強烈に印象に残ります。決勝トーナメント1回戦のドイツ戦でも後半から出場しました。
●昨日述べた1986年の得点者のルイス・フローレスは、同名のドミニカ共和国のバスケットボール選手がいるので注意が必要です。1986年にはDFのアマドール・フローレスも出場しているのでややこしい。1978年のポーランド戦の出場したDFのフローレスが、旅先で犯罪に巻き込まれて死亡したのは昨日伝えました。運がないようです。
●学校の記事のことですが、以前いくつか伝えましたが、野球の全国大会に出場しながら記事がないのは、1981年センバツ出場の福岡県立築上中部高等学校もそうでした。しかし、築上中部は他校と統合され青豊高校になっているようです。人によっては統合先へのリダイレクトを作成していますが、統合でできた学校と、統合された学校は別物では。また戦前に4回出場した京阪商業、のちの大阪府立守口高等学校も統合されていますが、そもそも守口高校︵大阪府立芦間高等学校へのリダレクト︶の記事がない。京阪とは鉄道会社の京阪が作った元は私立高で、のち市立、府立になったようです。統合先へのリダイレクトで問題ないならば、この両校に河北台商、芦別工も何とか出来ます。しかし実践第一と三尾実業はそうはできないようです。
●ちょっとゴルフのことですが、1998年に彗星の如く登場した韓国の朴セリという女子ゴルファーですが、1998年7月の全米オープンで実に20ホールにも及ぶプレーオフの末優勝しました。この時、闘った当時アマチュアで、タイのジェニー・シャシリポーン︵こんな名前だった︶は、どうなったか気になっている人は多いと思います。プロに転向したのは知っていますが。
●ここからは、日に隠れたものではなく、単に依頼です。私は四海波のなかで、四海波を名乗った力士の曖昧さ回避を作成しましたが、この中で一番上にある四海浪吉五郎こと由良ノ海楫五郎、のちの3代湊川ですが、私には到底出来そうにないので執筆を依頼する次第です。力士についてはもう一件千田川吉藏の曖昧さ回避で作った千田川吉藏 (2代)も私には手に負えません。両者とも資料が少なすぎる。千田川の方は、大関の千田川吉藏よりあとの時代の人ということ、千葉の銚子のでということしか分かりません。銚子市が顕彰会でも設けていたらよいのですが。それと、ミラー海神さんが以前作った錦木塚五郎は2人おり、どちらも小結で、現役中に死亡したのは後者のですので、現役死した力士一覧を修正しました。どちらも同名で小結ですので、死亡した錦木塚五郎 (2代)にしてあります。現在幕下の錦木が関取になれば、歴代錦木に注目が集まりそうです。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月23日 (月) 04:38 (UTC)返信
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●マヌエル・マティアスは1994年の福岡国際でも2位のようです。また早乙女等は、同年代に小指徹がいて、苗字先行の印象で、1991年福岡国際の3位が最高成績ではないかと思われます。
●先ほど申し述べたタイの選手は、両親がタイ人の国籍はアメリカ人、表記はジェニー・チュアシリポーンが最も多いようで、シュアシリポーンもあるようです。最終日に朴セリに追いつき、5日目となるプレーオフも18ホールで決着が付かなかった。プレーオフの何ホール目だったか、朴セリが池の渕に打ち込んでしまい、これで決まりかと思われたところ、朴セリの水切りのスーパーショットがあり、まだまだプレーオフは続きました。この水切りショットの前に、ジェニー・チュアシリポーンは、もう自分の優勝が決まったと気持ちが緩み、カロリーメイトのような携行食を口にしていました。その後のスーパーショットで気持ち的にやられたのではないか。決着が付いたのは少し後のことでした。この1998年全米オープンでは、まだアマチュアだったので、1位の賞金がプロの朴セリにのみ入るので、それならば優勝という名誉がほしかったということだったはず。2012年7月11日付の日経の電子版では、ジェニー・チュアシリポーン︵すでに引退︶とあるので、引退したのでしょう。また2012年6月24日のテレビ朝日﹁朝いちゴルフPlayBack全米オープン﹂で、過去の名勝負の筆頭各として、1998年のプレーオフ20ホール目決着が取り上げられているようです。
●ともあれ、力士の2人はともかく、日が当たらない人物に光を当てる作業で、私には無理だからと、もし自分に技量があれば記事にするつもりのものを上げてきましたが、上げた数が非常に多くなってしまい、中には記事にするのも困難であるのも含まれ、ミラー海神さんには負担だろうから、これくらいにし、以後はもし記事が出来れば加筆するなり、修正するなりします。また欠かすことが出来ない人物、学校に対する情報を摑んだり思い出したりすれば提供します。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月23日 (月) 08:21 (UTC)返信
●早速由良ノ海の記事を作成していただき感謝します。また錦木塚五郎2代の記事も作られたとの事で、Wikipediaの記事が益々充実するでしょう。さて錦木が盛岡藩抱えの四股名であるのと、三ツ鱗︵家紋で有名︶も盛岡藩抱えの四股名と知り、三ツ鱗 (四股名)を作成したのですが、三ツ鱗龍八こと大淀音右エ門も私には手に負えないと思っていて、記事に出来そうであれば頼みます。5代竹縄で、年寄になった人物は作っておいた方が有効かなと思います。大淀は多分、宮崎出身なので大淀川からでしょう。また十両時代逆鉾であったのは、宮崎の諸県郡が薩摩藩島津家の領内であったことが由来と思われます。
●昨日の四海浪と千田川の曖昧さ回避からの依頼で、2つほど依頼し忘れたのがあったので、ここで申し訳ないのですが、依頼をしようと思います。ボブ・マクドナルド (曖昧さ回避)で作成したP&Gのボブ・マクドナルドがまず一つですが、実業家なので難しいかもしれません。ボブ・マクドナルドでは阪神の投手のみで、綴りは違えど、有名なボブ・マクドナルドはP&Gの方だろうと思いました。また松田昇 (曖昧さ回避)で作成した、高知商、明徳の松田昇監督がもう一件です。戦前に2度出場した天津商を実際に甲子園で指揮したかは不明。戦前は、甲子園出場がなかった高知県を強豪にしたのは偏に松田昇です。当初は監督兼部長なので、教員であったと思われます。一時、部長に退いたりしました。部長兼任監督、監督、部長時代の教え子多数。77歳まで監督を務めました。同じく高齢まで監督をした森本達幸と違うのは、森本は47年連続、同一校を率いたが、松田は監督でなかった期間が15年ほどあること。1976年に須崎市の横浪半島の台地を造成して開校した明徳高校の監督に就任し、1982年に初めて出場に導きました。この時76歳。箕島戦で敗れた時、﹁老いた武蔵が若き小次郎にやられました﹂の台詞を吐いた。箕島の尾藤氏はこの時39歳でした。1982年11月19日に、秋季四国大会が開催される香川県で倒れ、翌日の20日の6時くらいに結腸癌で死亡。この日は四国大会の開幕の日で土曜日でした。日頃からグラウンドで死んだら本望と言っていて、倒れてから意識がある最後の言葉が﹁ユニホームは用意してあるか﹂だたったとか。死んだらユニホーム姿で葬られたかったのか、棺に入れてほしかったのか。実はこの前年に開腹手術を受けたが、手遅れ状態であったのを知っていたから﹁グラウンドで死ねたら﹂と言っていて、常にそれ用のユニホームを所持していたのでしょう。
●先日来、ひとまずメキシコの得点者という括りで選手を紹介しました︵得点者ではないが、バレンシアとアレジャノも名高いので紹介しました︶が、2006年大会でポルトガル戦で得点したフランシスコ・フォンセカ︵1979年10月2日-︶を忘れていました。本名はホセ・フランシスコ・フォンセカ・グスマンだったような気がします。左CKからニアでヘッドで合わせた得点だったと思います。
●マヌエル・マティアスとラビル・カシャポフの争いや、早乙女等、1991年世界陸上競歩50kmの件、昨日紹介した1998年全米オープンのタイ系の選手のことは、近いうちに図書館に行き、当時の新聞を見てきますので、何か分かれば情報を提供します。マティアスとカシャポフに一騎打ちや、1998年全米オープン・プレーオフ20H目の決着、競歩50kmを最後に肩を組んでゴールは強烈な印象を受けた人が多いでしょうから、記事があれば有効かと思いますが、やはり資料は新聞等を再確認するのが妥当と思料したわけです。
●それでは、充実した記事の作成に邁進されることを祈ります。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月24日 (火) 04:47 (UTC)返信
●アサノビッチの記事感謝します。私が丸投げしたものが多すぎて困るでしょう。近いうちに、図書館で調査しますので、何か分かれば情報を提供します。
●ミラー海神さんは食も興味があるようですので、今日は少し食についても述べておきたいと思います。紳士服のコナカという企業がありますが、コナカは﹁かつや﹂など飲食業も展開しています。ずっと以前から片仮名ではなく平仮名の﹁こなか﹂という飲食業者があると聞いていて、コナカと関係があるのか気になっていました。こなかというのは、﹁和風レストランこなか﹂﹁うどん茶屋こなか﹂等を展開していると聞いていました。そこで調査したら、紳士服のコナカより独立した﹁こなか﹂という企業が大阪市弁天に本社があるということがわかりました。しかし、独立したのはそれほど古くなく、それより以前から﹁こなか﹂の存在を聞いていたので、もしかしたら﹁かつや﹂などはコナカに残し、うどんや和風レストランは独立させたのか、そもそもコナカから独立した﹁こなか﹂と、和風レストランの﹁こなか﹂は別物かもしれません。独立したものであるなら﹁コナカ﹂の中に記述しても良いし、独立記事を作成しても良い。別物なら当然、独立記事を作るが良い。しかし、何故か私のPCでは、コナカから独立したという﹁こなか﹂のHPに繋がらず、前述のことがわからず困っています。興味があるなら気に掛けてください。
●また1990年代の半ばに倒産したという、ステーキと焼肉の提供した肉の名門やましげレストランというのが、大阪を中心に事業展開をしたことを知りました。会社名は﹁やましげ﹂なのだろうか。店のことは単に﹁やましげ﹂、﹁肉の名門やましげ﹂とか言うらしい。一時代を築いた企業で、1990年には杉本彩と関根潤三がCMをしています。先日、﹁やましげ﹂がWikipedia内では俳優の﹁山崎樹範﹂の愛称で、山崎のみへのリダイレクトになっていたので、これを解消。店は正式名であるのに、ニックネームだけへのリダイレクトはよろしくないので、曖昧さ回避にしました。ところが、﹁肉の名門やましげ﹂で検索すると、米沢にも﹁肉の名門やましげ﹂という著名な店︵精肉店か︶があることを知り、件の企業のCMのロゴには、下に﹁レストラン﹂とあったので、ひとまず﹁肉の名門やましげレストラン﹂として赤括弧にしておきました。色々と調べると、﹁やましげのステーキが美味かったな﹂とか﹁もう一回食べたい﹂とか、そういう書き込みを見ますので、相当知られた企業だったのでしょう。しかし、倒産してからでも20年近く経ち︵1995年8月に閉店したという店舗情報を知ったため︶、企業情報がわかりません。光を当てたいとは思いますが、米沢の精肉店のも入ってくるのでなかなかに困難です。ちょっとこれは、ミラー海神さんでも難しいと思いますが、一応気に掛けておいて下さい。﹁こなか﹂も﹁肉の名門やましげレストラン﹂もPortal:食のフードビジネスの執筆依頼に入れてはいます。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月26日 (木) 07:16 (UTC)返信
●米沢にやましげという精肉店はないようです。色々調べたら、米沢の精肉店とこの企業が同時に出てくるので混同しました。それならば﹁肉の名門やましげ﹂だけでよかったかもしれません。しかし、色んなところに﹁肉の名門やましげ﹂というレストランがあったようです。店舗のあとが、他のレストランチェーンになっているのも多い模様です。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月26日 (木) 07:24 (UTC)返信
●まずは、イグナシオ・フローレス感謝します。バスケットボールのルイス・フローレスは、ルイス・アルベルト・フローレスに改名提案をしており、ルイス・フローレスは、バスケット選手とイグナシオ弟の曖昧さ回避にする予定です。
●ネグレテのアクロバティックボレーは⇒決勝トーナメント1回戦ブルガリア戦 - You Tubeある模様です。
●1977年巨人ドラフト2位の木下透は、1959年8月31日生まれのようで、日本ゴルフツアー機構と日本ゴルフ協会のプロフィールでは、所属先が違います。体重とゴルフ開始年齢もちょっと違う。上西博昭は、プロではあまり好結果を残せていないようです。
●忘れていましたが、1999年4月23日に史上初の1イニング2満塁弾、1ニング8打点の新記録を朴賛浩からぶっ放した、カージナルスのフェルナンド・タティスの記事が、なんとありません。当時のカージナルスはマグワイアばかりに注目されていましたが、タティスも忘れてはならぬ男です。1975年1月1日生まれ、1997年メジャーデビュー。2008年あたりにカムバック賞を受賞です。
●調査の結果ですが、まずは早乙女等の1991年福岡国際で3位に入った時に24歳のようです。1位が森田修一ですが、2位で同タイム日本電気EHの本田に敗れ、本田も24歳というが、本田が﹁早乙女さん﹂と言っているので本田より年上の可能性があります。早乙女は40km付近で本田を引き離して差を付けたかった。それは本田がトラック専門だったからだが、引き離せずに追いつかれて3位転落。1991年は別府大分で6位、7月の札幌国際ハーフマラソンでワキウリなど強豪を下して優勝し注目株でした。また早乙女は1992年の福岡国際では2時間12分9秒で7位となっています。
●ついで1991年8月31日、東京世界陸上7日目朝7時開始の男子競歩50kmの肩を組んでゴールのことです。金となったアレクサンドル・ポタショフと銀となったアンドレ・ペルロフは、30kmすぎから並走。長身のポタショフから腕を差し出し、これにペルロフが応じました。ともに29歳、同じシベリア出身だが別の町で、競歩を通じて中学時代に知り合っています。スタート前から﹁2人で金銀を独占しよう﹂と言い﹁どちらかが金でどちらかが銀では意味がない﹂とペルロフが言っていることから、2人は初めから肩組みゴールの演出を予定していたと思われます。この10日程前に、ソ連でゴルバチョフ軟禁のクーデターがあったものですか、期するものがあったでしょう。なお、記録は2人とも3時間53分9秒、3位が3時間55分14秒なので2人の圧勝です。
●マティアスとカシャポフのことについて、まずはマヌエル・マティアス︵Manuel Matias︶から。1989年12月の福岡国際の時は27歳のようです。元々父親と大工をしており、スペインとの国境の町・ベージャの生まれ。この時は、ポルトガルマラソンクラブ所属。トラックの長距離選手からマラソンに転向して2年足らずで、これが4回目のマラソン。転向と同時に大工との兼業をやめたが、リスボン郊外に自宅を建築中。1988年のパリマラソンで優勝し、1989年のロンドンマラソンで4位となった2時間9分43秒が自己最高だった。この1989年福岡国際は36kmでメコネンが給水した隙に、マティアスとカシャポフがスパート、40km過ぎに右腹を押さえながらもカシャポフがスパートしマティアスに20m差を付ける。競技場にそのまま入ったが、マティアスは残り300mで勝負するつもりでスパート、残り100mで更に猛スパートし、残り20mで追いついたようです。マティアスは、1984年のロサンゼルス五輪マラソン優勝のカルロス・ロペスの再来と言われたようです︵ロペスが五輪金の前に1万mの世界記録も作ったことから︶。マティアスは、1990年の福岡国際では2時間14分55秒で6位︵1990年はパリマラソンでも3位︶、1991年の福岡国際は2時間14分17秒で13位、1994年3月の韓国東亜マラソンで優勝したあと、同年の福岡国際は2時間9分50秒で、イカンガーの弟子のアコナイ︵タンザニア︶に5秒差で敗れる。足が動かなかったとのこと。ただ2時間10分を切るのは4回目なのでよかったとのこと。170cm、61kgです。
●ラビル・カシャポフは、1988年のソウル五輪男子マラソンで10位、同年の福岡国際が3位。1989年のシカゴマラソンで2時間11分7秒で2位。これが当時の自己記録のようです。1990年の福岡国際は2時間14分17秒で4位。1989年の福岡国際で優勝できなかったのが悔やまれます。
●なお、南アフリカの名選手、ゲルト・タイス︵一部でゲート・タイスの表記あり、ゲルトの表記が優勢︶は、1993年の福岡国際に出場していますので、非常に息の長い選手だったことがわかります。10年ぶり優勝も納得です。
●ついで1998年7月2日から6日にかけて行われた全米女子での、ジェニー・チュアシリポーンのことですが、このあとに全米アマチュア選手権でも2位、しかも朴セリと同じく韓国のグレース・朴︵アメリカの大学に留学中︶に敗れており、年齢が21歳となっています。これは民団新聞1998年8月26日付けにあります。
●1998年全米は最終日の7月5日に2人が並び、6日の月曜日に18Hでのプレーオフを実施します。朴セリの水切りショットは18H目の2打目で、このスーパーショットで緊張感が緩んでしまったとのこと︵朴が池の渕10cmに打ち込んだのに対し、チュアシリポーンは浅いラフの好位置に付けていた︶。結局18Hで決着付かず、19Hからはサドンデス。20Hに朴がピンまで5m、チュアシリポーンがが6mの位置に付け、先に打って外し、朴が決めて優勝。チュアシリポーンは無欲のはずが、12H目から優勝を意識し始めてしまったととのこと。2人とも4日を終えて6オーバーで並び、1992年大会以来の8回目の決勝プレーオフ︵アマチュア選手のプレーオフ進出は1956年以来2度目、ただこの時は7打差で敗退︶となり、プレーオフ18Hを終えて2オーバー︵73打︶でまだ並び、20Hで決着ということです。4日目を終えて、フェアウェーキープ率は、朴が83.9パーセント、チュアシリポーンが80.4パーセント、パーオン率は、朴が69.4%、チュアシリポーンが72.2%、パット数平均は朴が1.72回、チュアシリポーンが1.78回、ドライバー平均飛距離は朴が244.3ヤード、チュアシリポーンが222.9ヤードです。
●プレーオフの成績は︵パーをP、バーディーをB、ボギーを△で表記、6はパー4でのトリプルボギー︶以下の通り。
朴セリ-P、P、△、P、P、P、P、△、△︵前半38︶、P、B、B、P、B、△、P、P、△︵後半35︶P、B
チュア-B、B、P、P、B、6、P、P、△︵前半36︶、P、P、P、P、P、P、P、P、△︵後半37︶P、-︵朴の優勝が決まったのでパットせず︶
もしかしたら映像があるかもしれません。
●昨日の﹁コナカ﹂と、﹁こなか﹂のことですが、経営者が湖中さんなので同一かもしれません。もしかしたら、コナカから独立したという﹁こなか﹂と和風レストランとうどん茶屋の﹁こなか﹂は別なのかもしれません。以上のことなので参考にして下さい。カシャポフはちょっと資料が足りなかったかも。また何か分かれば情報提供をします。私は私で、自分で記事に出来そうなものに邁進します。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月27日 (金) 06:30 (UTC)返信
●色々と数多くの詳細な情報を提供して下さって、本当にありがとうございます。また、記事作成の方を頑張りますのでよろしくお願い致します。--ミラー海神︵投稿記録︶ 2015年2月27日 (金) 10:35 (UTC)返信
●私が丸投げしているだから、所謂後方支援、蕭何のようなことをしているわけです。昨日書き忘れたのは、全米女子は、最終日に同点者がいる場合、5日目を設けて、18Hでのプレーオフをするということ。18Hで決着付かずに、19H以降のサドンデスは1998年大会が初ということ。チュアシリポーンは、やはり朴セリが18番Hで池の渕に入れてしまった時、緊張感が緩んだのは、軽食を摂ったところに表れているかもしれません。
●イグナシオの弟はルイス・エンリケ・フローレスにしてあります。母方の姓は省きました。
●南アフリカの名ランナーのゲルト・タイスは我流で有名ですが、17歳の時に一度だけコーチに付いたが、2ヶ月で﹁嫌になった﹂と再び我流トレーニングに。トレーニングは、さながらタイス流とでも言うのかもしれない。
●ジャクソン・カビガについて、新たに分かったことは、8人兄弟の7番目で、3歳の時に父が亡くなった。高校時代、初めはボクシング部で、その練習として長距離を始めた。そこからマラソン選手への転向を図るが、転機は地元のケニアでのハーフ・マラソン大会で優勝したこと。この大会の主催者が日本人で、そこから日本に関わり、日本の多くの大会に出場するようになった。日本での初めは、1994年に金沢市であったロードレースという。その後、ホノルルマラソンに参加し、ボストンマラソンを1993年から3年連続で制したコスマス・デティの練習相手になり経験を積んだと言うことです。その成果が表れたのが、1998年のパリマラソン、福岡国際でしょう。最初からぶっちぎりで、途中佐藤信之が一瞬追いつくが、再スパートで圧勝。2006年までの東京国際を含んで、福岡国際、別府大分、びわこ毎日の4大大会での優勝は、これしかないですが、その他の大会には頻繁に参加し優勝があることは、以前述べました。
●パリマラソンで、1988年優勝のマヌエル・マティアス、1998年優勝のジャクソン・カビガについて何か分かるかもしれません。--まっきんりい︵会話︶ 2015年2月28日 (土) 05:05 (UTC)返信
●廃校となったものは難しかったと思いまが、この感じで築上中部、河北台商、大阪府立守口︵旧・京阪商、現状は府立守口北とともに、府立芦間に転送になっている︶も甲子園、サッカー出場校なので記事があれば便利ですね。こうなってくると、期間が短かった三尾実は困難かもしれません。当該校の卒業生が記事を作るにも、いずれも高齢であり、記憶が曖昧かもしれません。わかったことは、三尾実は、ラグビーにおいて和歌山市内の他の4校とリーグ戦をしていたというので、所在地は和歌山市だろうということだけで読みがミオなのかミツオなのかも未だ不明。⇒絆わこう
●マヌエル・マティアスは、ゲルト・タイスが当時世界2位の記録をたたき出した1999年2月の東京国際にも出場し、2時間18分19秒の14位であったようです。マティアスも衰えたが、タイスが速すぎた。またマティアスが出場した1994年の韓国の東亜マラソンとは、ソウル国際マラソンのことです。この時、金完基という韓国選手に1秒差で振り切って優勝しています。
●また初めに、50km競歩で誤ってボタショフと紹介しましたが、ポタショフであって半濁点です。
●朴セリとチュアシリポーンのプレーオフ、朴の水切りショット︵水中ショットとも︶の18番Hは、パー4です。決着が付いたサドンデス2H目のプレーオフ20H目もパー4で、ともにバーディーショットを打ったが、先に打ったチュアシリポーンが外し、朴セリが決めたということです。
●これまで上げたメキシコ以外のサッカー選手、ロベルト・ディナミテや、マティス、ピネダとかも何か分かれば情報を提供します。
●千田川吉蔵の銚子出身のと、田村隆寿がいつ聖光学院に監督に就任したのかは、皆目情報を入手できません。
●1イニング2満塁弾のタティスの離脱中のことも、今は分かりません。
●こなかと、肉の名門やましげも同じ。
●渡辺共則と森宗寛司については、森宗が1974年生まれという情報を得ただけです。--まっきんりい︵会話︶ 2015年3月1日 (日) 05:48 (UTC)返信
追加情報
●渡辺共則は、西日本新聞によると、1976年6月9日生まれのようです。また高校駅伝の公式サイトで、高2であった1993年は第1区30分18秒で3位、高3の1994年も1区で30分43秒の区間16位であったようです。
●森宗寛司は、1974年6月27日岡山県出身、倉敷高校卒。高校駅伝は高2だった1991年は全国大会で補欠メンバー1番目に名があり、高3だった1992年は3区を25分8秒区間14位と高校駅伝公式サイトにあります。またフルマラソンはあまり回数を走っておらず、中距離から長距離選手であり、カネボウの高岡や入船たちと同様の距離の大会に参加した記録があります。--まっきんりい︵会話︶ 2015年3月1日 (日) 06:09 (UTC)返信
誤情報陳謝
●星稜︵実践第二︶の兄弟校は、実践第一に改称しておらず実践商業高校のままでした⇒学校法人稲置学園によると、先に出来た実践商業の土地建物を石川県に売却。石川県立金沢向陽高等学校が新たにその土地・建物に入りました。後継校になるかは不明。実践学園高校の旧称も実践商業高校なので、実践商業高等学校 (石川県)にしてあります。--まっきんりい︵会話︶ 2015年3月1日 (日) 09:29 (UTC)返信
早乙女のことなど。
●早乙女等は1967年の早生まれのようです。何日かはわかりません。1966年度生まれで、1967年1月1日-4月1日の間の生まれというのがわかりました。世界陸上東京大会50km競歩でのソ連の2人については、1936年のベルリン五輪・棒高跳びで2、3位を分け合った西田修平と大江季雄の友情のメダルに準えられていますが、ソ連の2人がメダルを割って同様のことをしたのかは不明。西田と大江は結果として順位が分かれたが、ソ連の2人は形上順位は分かれるが、同時ゴールを初めから目指したので、西田と大江を引き合いに出していた報道には疑問を感じてしまうが、似たようなものと捉えられているのでしょう。--まっきんりい︵会話︶ 2015年3月2日 (月) 03:38 (UTC)返信
●Chiba ryoさん、初めまして。ミラー海神と申します。まず、今回の件についてちょっと熱くなりすぎてしまって、申し訳ありませんでした。要約欄については、貴方の仰る通り、主観的な文言を書き入れるべきではないと思っています。しかし、今回は直近の記録や過去のマラソンデータを見ても明らかに田中選手の方が優れていたのに、田中選手より劣る重友梨佐選手を選んだ事に関する日本陸連への怒り、そして何よりこれだけ優秀な成績を残している田中選手を埋もれさせてはいけないと思い、記事を起こそうと決心したわけです︵同様の例は、1988年のソウルオリンピックマラソン代表選考で、瀬古利彦に破れた工藤一良にも言えます。工藤選手も長い間立稿されていませんでしたが、私が立稿しました。︶。個人的な意見としてWikipediaは、社会的影響力も大きく、そこに立稿される事によって日の目を見る事もあると思っています。記事を書くに当たってはなるべく当時の背景や状況を再現しようとして、主観的な文言を入れてしまったのかもしれません。ともあれ、これからは気をつけます。--ミラー海神︵会話︶ 2015年3月14日 (土) 00:19 (UTC)返信
投稿時、中央のボタンを押すとプレビューできます。
こんにちは。ウィキペディアへのご寄稿ありがとうございます。ミラー海神さんが同じ記事に対して短時間に連続して投稿されているようでしたので、プレビュー機能のお知らせに参りました。投稿する前に﹁プレビューを表示﹂のボタンを押すと、編集結果を先に見ることができます。
これを使うことで
●マークアップ
●リンク
●誤字脱字
などをあらかじめチェックし、修正してから投稿していただくことにより、同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点については、同じ記事への連続投稿を減らすの項目に説明がありますので、よろしければお読みください。また、ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますので、あわせてお読みいただけると幸いです。ご理解とご協力をよろしくお願いします。なお、もしすでにご存じのことでしたら、悪しからずお願いいたします。--115.176.165.221 2015年3月13日 (金) 17:51 (UTC)返信
1971年夏の準優勝投手、磐城の田村隆寿ですが、その後安積商、磐城の監督を経て聖光学院の監督になったのは、1988年11月に嘱託職員として採用されてからのようです。5年契約で監督を引き受け、1991年秋に福島県大会を制し、東北大会に出場しましたが、1991年12月に健康上の理由で退任を願いでて12月25日に受理され、前監督の福地一雄が復帰しています。これは報知高校野球1992年5月号︵1992年4月発売︶132Pにあるものです。年齢は39歳とあるがこれはおかしい。1985年夏に磐城監督として出場した際の、1985年8月3日付朝日新聞朝刊31面に31歳とある。1971年度に高校3年生だから、1985年度は32歳になり、田村は1953年度の生まれ。報知のはちょっとおかしく誤植の可能性が高い。中学卒業までに留年か、浪人していれば1992年4月に39歳になるが、それだと1985年度は33歳でないと駄目だし、雑誌の発売日が4月10日あたりなので、4月2-10日の誕生日であっても、1985年8月は32歳でないとおかしい。誕生日は1953年8月4日から1954年4月1日までと見るべきでしょう。ともあれ、このようなことです。記事作成の足しになればと思い提供します。これからも期待しております。--まっきんりい︵会話︶ 2015年3月24日 (火) 06:03 (UTC)返信
この度は、2代錦木塚右エ門と初代の記事作成感謝します。ところで、﹁錦木塚五郎﹂ですが、これを﹁錦木塚五郎 (初代)﹂に自ら移動して改名してもらえたら幸いです。移動して空いた﹁錦木塚五郎﹂には、﹁錦木﹂の﹁四股名﹂のところにある、2人の錦木塚五郎をコピーして貼り付け、2人の曖昧さ回避、デフォルトソート﹁にしききつかころう﹂にして貰えたら有難いということです。そうなると、初めの﹁錦木塚五郎﹂でリンクしている箇所も﹁錦木塚五郎 (初代)﹂に修正せねばなりませんが、今、錦木という四股名が注目を浴びているので利便性を考えてのことです。江戸ヶ浦が一時名乗った宮城野丈助は、同名力士がおり、また2代の塚右エ門が一時名乗った玉川浪五郎も同名力士がおり、何人同名力士がいるのかわからぬので、リダイレクト作成はやめています。また、初代の塚右エ門ですが、最高位では錦木なので、﹁錦木塚右エ門 (初代)﹂に移動改名しても良いかと思われます。私は、うっかり﹁二所ノ関軍右エ門﹂で赤リンクにしてしまったので、こうなりましたが、二所一門の総帥の二所ノ関の創始者、二枚鑑札を重く見すぎてこうなっています。もし、二所ノ関軍右エ門から錦木塚右エ門 (初代)に改名したら、文中も多少修正せねばならず、リンク先もデフォルトソートも修正せねばなりません。錦木の四股名のところも前後入れ替えねばならない。これについては、移動改名するかしないかはお任せします。江戸ヶ浦の音羽山峰右エ門については、親方、二枚鑑札にならなかった同名力士がいるかもしれず、その確認が取れなかったため、代数ではなく生年にしたのです。このようなものは、常盤山や鷲ヶ濱、箕島が実際には何人いたのか確認が取れないのに同じです。前述の宮城野丈助も何人いたのか分かりません。私は越ノ海で、同名力士4人の曖昧さ回避を作りましたが、4人中2人が現役中没で、後者の方が玉垣額之助という複数人が名乗った四股名をのちに襲名してしまいややこしくて困っています。ややこしいのは稲川政右エ門もそうですし、玉垣、宮城野、音羽山、常盤山と二枚鑑札に多いようです。--まっきんりい︵会話︶ 2015年3月27日 (金) 05:11 (UTC)返信
●1998年W杯のクロアチア戦の得点者のアルゼンチンのピネダは、マウリシオ・ピネダと紹介しましたが、本名はエクトル・マウリシオ・ピネダのようです。﹁エクトル・ピネダ﹂もしくは﹁エクトル・マウリシオ・ピネダ﹂とすべきのようです。スペイン語圏には﹁ピネダ﹂姓が多く、最近ではニューヨーク・ヤンキースのピネダ投手を筆頭に著名人がたくさんおり、ピネダでも作成して、ピネダ姓の曖昧さ回避でも作ろうかと検討していますが、語源が分からないのでやめています。日本人には﹁ぴね田﹂という風に聞こえて、日本の希少姓と思った人が多いようです。まるで、英語の男性名の﹁ネイサン﹂を姉さんと間違えるに似ていますが、アサノビッチ同様に日本語に聞こえるということでしょう。これから先の秀逸な記事も期待します。--まっきんりい︵会話︶ 2015年4月3日 (金) 07:29 (UTC)返信
日々、記事の充実のためにご苦労様です。今、2ちゃんねる 相撲関係のウィキペディアを語ろう︵繋がり難い場合あり︶で、私とミラー海神さんと頭蓋骨氏が同一人物多重アカウント疑惑を掛けられ、ブロックすべしとネガティブキャンペーンを張られていることをご存知でしょうか。これは、無視すべきです。初めは私と頭蓋骨氏に疑惑が掛けられ、この2月に﹁多重アカウントはおやめなさい﹂というのがノートに届き、同じものが頭蓋骨氏のノートに届いたようです。その後にミラー海神さんも含めて3人が同一人物というネガティブキャンペーンに発展しました。今度、この2ちゃんねる上で、我々を陥れるネガティブキャンペーンを張っている者があらかたわかりましたが、放っておくべきと思います。3月に利用者のジャコウネズミ氏から、私がミラー海神さんに依頼し作成してもらった記事の補完について問い合わせがあり、そのこととは別に多重アカウント疑惑のネガティブキャンペーンについての旨を述べたところ、ウィキチェッカーというものを申請すれば良いということでした。しかし私はやり方もわからぬし、痛くもない腹を探られて痛くないことを証明するのは本意ではないので、申請はしませんが、ミラー海神さんは申請する気があるのならばして下さい。--まっきんりい︵会話︶ 2015年4月14日 (火) 07:18 (UTC)返信
●こんばんは、まっきんりいさん。えっ、そんなことをされていたのですか。まぁあのサイトは所詮匿名である事を悪用した﹁便所の落書き﹂ですし、私も無視する事にします。そしてウィキチェッカーも私は申請しません。私も所詮、痛くもない腹を探られて痛くない事を証明する事は本意ではないし、もしよしんば証明できた所で、あのサイトの住人は余計に嘘だろうとか悪意を並べ立てて、攻撃する事は目に見えているからです。あのサイトは正に人間の悪い所・欲望を体現した裏サイトだというのが私の意見です︵私やまっきんりい様、頭蓋骨様だけでなくあらゆる人物を攻撃しようというのが、あのサイトの住人のやる事だと思います︶。そんな事に相手をする暇があったら、このWIKIPEDIAに一つでも新着記事やカテゴリを記載する事の方がよっぽど有益です。まぁ私は相撲を初めとしたスポーツ︵特にプロ野球・サッカー︶に限らず、食や外国の事、歴史・数学・理系・鉄道などあらゆる分野に幅が広いです。まぁ私の投稿記録を見て戴ければ分かりますが。最後に、このような危険な情報を教えて戴き、本当に感謝しています。また、貴重な補完情報もご教示して戴けたら嬉しいです。 -- ミラー海神︵投稿記録︶ 2015年4月14日 (火) 11:37 (UTC)返信
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はじめましてミラー海神さん、にょきにょきと申します。いつもカテゴリやウィキデータのリンクなどありがとうございます。適切なカテゴリを選ぶのが苦手でして、大変ありがたく思っています。またご面倒かけることあるかもしれませんが、これからもよろしくお願いします。フロッグケーキはあんまりおいしくないかもしれません(笑) にょきにょき(会話) 2015年4月16日 (木) 12:58 (UTC)返信
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- 1998年W杯のアルゼンチンのクロアチア戦得点者を、当初マウリシオ・ピネダ、以後エクトル・マウリシオ・ピネダと紹介しましたが、やはりマウリシオ・ピネダが正解で、エクトル(hector)はミドルネームになるようです。全く気が付かなかったのですが、アルファベトの「Mauricio Pineda」で検索したら外国語版があって翻訳できましたが、ただ成績表などが今一つです。同様に1998年W杯、ジャマイカのエースだったディオン・バートン(Deon Burton)なんかも外国語版があって翻訳可能のようです。誤情報を提供しているのは、寝覚めが悪いので報告まで。--まっきんりい(会話) 2015年4月23日 (木) 08:51 (UTC)返信
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錦木繁之助こと、江戸ヶ浦のところで、唯一岩手出身ではないというところ、もう一人いたので修正しました。ベースボールマガジン社の相撲2015年5月号53Pによると、現在の香川県高松市出身の大淀谷五郎が、明治4年11月から盛岡藩抱えになり、錦木繁之介を名乗り明治7年3月まで錦木、以降再び大淀谷五郎に戻したらしいです。大淀が名乗ったのは、繁之介ではなく繁之助ではと思いましたが、ひとまず出版社のものを採用。私も十両にかつて一人いたのは確認していたのですが、よくわからなかった。大淀は5代片男浪︵当時は浪で表記︶の人物で、最高位は十両筆頭、錦木の四股名での最高位は十両4枚目ということです。廃藩置県が明治4年7月なので、その後に抱えになるのはわかりませんが、藩主は華族になったので、廃藩置県後も抱える余裕があったのかもしれません。--まっきんりい︵会話︶ 2015年5月2日 (土) 06:21 (UTC)返信
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●いつも新カテゴリ・新記事作成など、ご苦労様です。このたび、緋縅力弥の初代から3代までに、リダイレクトの削除依頼が提出されたのは、ひとえに、例のネガティブ・キャンペーンの主催者の一人であることは、Wikipedia:リダイレクトの削除依頼/2015年5月の5月28日のところを見れば明らかと思われます。私が何故、緋縅力彌 (初代~3代)から緋縅力弥 (初代~3代)へのリダイレクトを作成したかについては、該当箇所の初めにコメントで残してありますので参照してください。また再度コメントを残し、例の件についても触れてあります。そのうち、例のネガティブ・キャンペーンの主催者たちからミラー海神さんへ、直接的嫌がらせを始めるかもしれませんし、既に監視活動に入っているかもしれません。頭蓋骨氏は3月依頼投稿がないようで、2月の﹁多重アカウントはおやめなさい﹂の言いがかりが効いているようです。
●Wikipediaの記事の充実のために、新カテゴリを作成するのは良いことです。日本プロ野球で、ドラフト外入団者のカテゴリがあれば便利だと思います。1965年入団までは自由獲得競争下で、1965年秋が第1回ドラフト会議なので、1966年にドラフト1期生とドラフト外入団者が初入団し、同時にドラフト外という言葉が誕生したと思います。ドラフト外がご存知のように1990年度ドラフト︵1991年入団︶まで認められていました。例外的に外国の学校を卒業した古川有一が1993年度に入団しましたが、今は外国の学校を出た場合もドラフト対象なので、日本ハムの林田、中日の新井、ロッテ・藤谷もドラフトで指名されました。ドラフト指名者はテンプレートがあったり、各年のドラフト会議の記事にあるのでわかりやすいですが、ドラフト外指名者は、一体誰がドラフト外なのか、文中を見ないとわからない。書籍も、ドラフト指名者の物だけか、ドラフト外入団者でも1軍出場経験のあるもののみ収録なので、初期の頃のドラフト外入団者は、詳細が不明なことも多いはずです。ともあれ、日本プロ野球のドラフト外入団者のカテゴリがあると便利だと思いますので、ご検討ください。なお、最も近いところで西武の吉田など、練習生は違うと思っていて、今の育成選手とも別なのでしょう。育成も練習生も、支配下登録はされていませんが、育成選手はプロ野球選手であり、育成ドラフトで指名されており、練習生はプロ野球選手の扱いではないようで、要するに一般人です。--まっきんりい︵会話︶ 2015年5月29日 (金) 07:07 (UTC)返信