国分青崖
明治・大正・昭和期の漢詩人
経歴
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仙台の産。父盛久は仙台藩士だった。後年の号﹃青崖﹄は青葉城に、﹃太白山人﹄は太白山に由来している。
藩学の養賢堂で、国分松嶼︵しょうしょ︶に漢学を、落合直亮に国学を、岡鹿門︵千仞︶に漢詩を学んだ。
1878年︵明治11年︶、上京して司法省法学校に入った。その夏の関西旅行中、弊衣破帽のゆえに拘束される珍事があった。翌年、賄征伐︵調理場荒らし︶のいたずらがこじれ、原敬・陸羯南・福本日南・加藤恒忠らと共に退校した。退校仲間とは長く親しくした。
朝野新聞・第1次高知新聞の記者を勤めて後、1889年︵明治22年︶創刊の日本新聞に、陸羯南に招かれて参加した。日清戦争には、遼東半島に派遣された。日本新聞には、漢詩による時事評論﹃評林﹄を連載したが、痛烈な批判が当局を刺激し、日露戦争前、1903年︵明治36年︶11月の﹃檜可斬﹄︵檜斬るべし︶や翌月の﹃植物類﹄は、発禁の処分を受け、その後も度々なので、﹃会社の被った罰金を弁償する﹄と申し出たと言う[1]。
1890年︵明治23年︶、森槐南・本田種竹らと詩社﹃星﹄社を興した。三詩人と呼ばれた。
1906年︵明治39年︶、陸羯南が社長を辞した時、11人の社員と共に政教社へ移り、その﹃日本及日本人﹄誌で﹃評林﹄を続けた。
1923年︵大正12年︶、大東文化学院の創立と共に教授となった。﹃雅文会﹄・﹃詠社﹄・﹃興社﹄・﹃蘭社﹄・﹃樸社﹄・﹃竜社﹄などの詩社にかかわり、﹃昭和詩文﹄誌を主宰した。
1937年︵昭和12年︶、帝国芸術院会員に選ばれた。1930年︵昭和5年︶以来、政教社社長として﹃日本及日本人﹄誌を率いた五百木良三がこの年に没し、青崖が継ぎ、入江種矩主幹、雑賀博愛主筆と共に雑誌を続けた。戦時下の体制に迎合せざるを得なかった。
太平洋戦争︵大東亜戦争︶の敗色が深まる中で没した。享年87。墓は多磨霊園にある。共に眠る妻・国分操子︵1867-1942︶は松本藩士・江崎政国の娘で[2]、歌人・教育者だった[3]。孫に國分正胤。
青崖の詩作は三万首に及んだと想像されているが、詩集は、﹃評林﹄第一集の﹃詩董狐﹄しか出版しなかった。恬淡無欲な人柄だったと言われる。
著書
編集伝記研究
編集- 木下彪『国分青厓と明治大正昭和の漢詩界』、研文出版(2019)、町泉寿郎・解題
脚注
編集出典
編集外部リンクの情報と