多田北烏
経歴
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長野県松本市北深志出身[2]。多田庄野の長男として生まれる[3]。江戸時代に信濃国安曇郡で発生した貞享騒動の義民多田加助の子孫にあたる[4]。13歳で上京し、日本画家の大和雲陽に師事[3]、旧制東京高等工業学校図案科選科修了、川端画学校に学び、凸版印刷図案部を経て、東京図案研究所長等を歴任した。大正11年︵1922年︶に、日本初のデザイン制作会社である実用美術研究所サン・スタジオを創設し、商業美術の向上と後進の指導に努力した[5]。昭和19年︵1944年︶静岡県沼津市に疎開[6]、同23年︵1948年︶に同地で没した。墓所は染井霊園(1イ-1-20)。
新興日本童画協会常務委員、全日本産業美術連盟常任委員をつとめ、実用版画美術協会を主宰した。著書に﹁多田北烏図案集﹂などがある。
脚注
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(一)^ ポスターデザインの先駆者・多田北烏とその周辺展 武蔵野美術大学、1984年11月29日
(二)^ 国立国会図書館. “多田北烏は松本市出身かどうか”. レファレンス協同データベース. 2023年4月11日閲覧。
(三)^ ab﹃大衆人事録 第3版﹄1930、﹁多田北烏﹂
(四)^ 上垣(2014)p.99
(五)^ 近代日本のポスターが示す複製技術と表現の時代性今井良朗、ことばとイメージ、2020
(六)^ 上垣(2014)p.88
参考文献
編集関連項目
編集- 堀内誠一 ‐ 父親の堀内治雄が多田の弟子
外部リンク
編集- 多田北烏の「キリンビール」ポスター キリンビール
- 多田北烏と『尋常小学算術』阿部紀子、数学教育史研究 第16号(2016)