「大石良雄」を編集中
最新版 | 編集中の文章 | ||
137行目: | 137行目: | ||
しかし、お家再興よりも吉良義央の首を挙げることを優先する堀部武庸ら江戸急進派は、この間も良雄に江戸下向を促す書状を再三にわたり送り付けている。良雄は江戸急進派鎮撫のため、9月下旬に原元辰(300石足軽頭)・[[潮田高教]](200石絵図奉行)・[[中村正辰]](100石祐筆)らを江戸へ派遣、続いて進藤俊式と[[大高忠雄]](20石5人扶持腰物方)も江戸に派遣した。しかし彼らは逆に堀部に論破されて急進派になってしまったため、10月、良雄が自身で江戸へ下向した(第一次大石東下り)。良雄は江戸三田([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[三田 (東京都港区)|三田]])の[[前川忠大夫]]宅で堀部と会談し、浅野長矩の一周忌になる明年3月に決行を約束した。またこの時、かつて赤穂藩を追われた[[不破正種]]が一党に加えてほしいと参じている。良雄は長矩の眠る[[泉岳寺]]へ参詣した際に主君の墓前で不破の帰参と同志へ加えることの許可を得た。この江戸下向で荒木や長矩の[[瑤泉院]]とも会っている。江戸で一通りやるべきことを終えた良雄は、12月には京都へ戻った。帰京後、嫡男[[大石良金]]を元服させている。大石良金は盟約に加わることを望み、良雄はこれを許した{{Efn|妊娠中の妻りくと主税以外の子供たちは翌年元禄15年([[1702年]])4月に妻の実家の[[豊岡市|豊岡]]へ帰した。りくは7月に大三郎を出産。この子はのちに[[広島藩]]に仕えることになる。}}。 |
しかし、お家再興よりも吉良義央の首を挙げることを優先する堀部武庸ら江戸急進派は、この間も良雄に江戸下向を促す書状を再三にわたり送り付けている。良雄は江戸急進派鎮撫のため、9月下旬に原元辰(300石足軽頭)・[[潮田高教]](200石絵図奉行)・[[中村正辰]](100石祐筆)らを江戸へ派遣、続いて進藤俊式と[[大高忠雄]](20石5人扶持腰物方)も江戸に派遣した。しかし彼らは逆に堀部に論破されて急進派になってしまったため、10月、良雄が自身で江戸へ下向した(第一次大石東下り)。良雄は江戸三田([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[三田 (東京都港区)|三田]])の[[前川忠大夫]]宅で堀部と会談し、浅野長矩の一周忌になる明年3月に決行を約束した。またこの時、かつて赤穂藩を追われた[[不破正種]]が一党に加えてほしいと参じている。良雄は長矩の眠る[[泉岳寺]]へ参詣した際に主君の墓前で不破の帰参と同志へ加えることの許可を得た。この江戸下向で荒木や長矩の[[瑤泉院]]とも会っている。江戸で一通りやるべきことを終えた良雄は、12月には京都へ戻った。帰京後、嫡男[[大石良金]]を元服させている。大石良金は盟約に加わることを望み、良雄はこれを許した{{Efn|妊娠中の妻りくと主税以外の子供たちは翌年元禄15年([[1702年]])4月に妻の実家の[[豊岡市|豊岡]]へ帰した。りくは7月に大三郎を出産。この子はのちに[[広島藩]]に仕えることになる。}}。 |
||
しかし、この帰京後から、良雄の廓などでの放蕩がひどくなった。﹃[[仮名手本忠臣蔵]]﹄の影響で、これは吉良家や上杉家の |
しかし、この帰京後から、良雄の廓などでの放蕩がひどくなった。﹃[[仮名手本忠臣蔵]]﹄の影響で、これは吉良家や上杉家の目を欺くための演技であるというのが半ば定説化している。{{要出典範囲|しかし良雄はもともと赤穂藩時代から自由気ままな遊び人であり、本当に楽しんでいた面もあった可能性は高い|date=2017年9月}}︵﹃甲子夜話﹄では大石内蔵助らが十人も引き連れて伏見で豪遊し﹁墨硯をつまに持たせ天井に落書いたし候﹂と文句を書い、連中が使った金は自身の工面では無かろうとしている。但し、松浦静山は作中では赤穂義士にはすべて蔑称か呼び捨て、吉良には必ず敬称をつけ<ref>[[松浦静山|松浦静]]﹃甲子夜話﹄︵正篇三十など︶</ref>、平戸藩邸︵下屋敷︶は本所にあり吉良邸に近いこと、静山自身も柳の間で諸大名に江戸城での作法や礼儀を指南していること、吉良氏秘伝の﹃吉良懐中抄﹄を平戸藩は家宝として今日まで継承していること<ref>﹁松浦家関係文書﹂︵松浦史料博物館︶</ref> 、義央を救いに吉良邸に駆け付けた津軽氏を絶賛し、﹁南部の大石内蔵助﹂と評された相馬大作を罵倒していること、等多くの点で吉良寄りであり公平な[[第三者]]とは言い難い︶。近年の﹃忠臣蔵﹄のドラマでも、﹁人間内蔵助﹂を描こうとして後者に描かれることが多い。{{要出典範囲|一方で、良雄放蕩の根拠とされる﹃江赤見聞記﹄は、脱盟者の進藤俊式と小山良師が言ったことをそのまま載せたものとみられており、﹃堀部筆記﹄にもまるで出てこないことから、そもそも放蕩の事実はないとする説も有力|date=2017年9月}}。
|
||
この年の年末からは脱盟者も出始めており、その一人は江戸急進派の中心人物・高田郡兵衛であった。これは江戸急進派の顔を失わせる結果となり、その発言力を弱めさせた。良雄はこれを好機として元禄15年︵[[1702年]]︶2月の山科と円山での会議において﹁大学様の処分が決まるまで決起しない﹂ことを決定。[[吉田兼亮]]︵200石加東郡郡代︶と[[近松行重]]︵馬廻250石︶を江戸に派遣して江戸急進派にこれを伝えた。しかし江戸急進派は納得せず、良雄をはずして独自に決起することを模索しつつ、ついに6月には江戸急進派の頭目・堀部武庸が自ら京都へ乗り込んでくる。﹁もはや大石は不要﹂として良雄を斬り捨てるつもりだったとも言われる{{要出典|date=2017年9月}}。しかしちょうどこの頃、遠林寺の祐海などを通じて良雄もお家再興が難しい情勢を知らされていた。7月18日、ついに幕府は浅野長広にたいして広島藩お預かりを言い渡した。ここにお家再興は絶望的となり、幕府への遠慮は無用となった。
|
この年の年末からは脱盟者も出始めており、その一人は江戸急進派の中心人物・高田郡兵衛であった。これは江戸急進派の顔を失わせる結果となり、その発言力を弱めさせた。良雄はこれを好機として元禄15年︵[[1702年]]︶2月の山科と円山での会議において﹁大学様の処分が決まるまで決起しない﹂ことを決定。[[吉田兼亮]]︵200石加東郡郡代︶と[[近松行重]]︵馬廻250石︶を江戸に派遣して江戸急進派にこれを伝えた。しかし江戸急進派は納得せず、良雄をはずして独自に決起することを模索しつつ、ついに6月には江戸急進派の頭目・堀部武庸が自ら京都へ乗り込んでくる。﹁もはや大石は不要﹂として良雄を斬り捨てるつもりだったとも言われる{{要出典|date=2017年9月}}。しかしちょうどこの頃、遠林寺の祐海などを通じて良雄もお家再興が難しい情勢を知らされていた。7月18日、ついに幕府は浅野長広にたいして広島藩お預かりを言い渡した。ここにお家再興は絶望的となり、幕府への遠慮は無用となった。
|