安藤正楽
人物 編集
伊予国︵現在の愛媛県︶宇摩郡小富士村出身[1]。幼名岸蔵、通称鬼子太郎[1]。寺小屋にて本田某に学び、1872年︵明治5年︶に小学校︵方正校︶に入る。小学校卒業後、尾崎星山、合田福太郎に学ぶ。1886年︵明治19年︶正楽と改名。1888年︵明治21年︶福沢諭吉の﹁学問のすすめ﹂に感動。1889年︵明治22年︶10月上京し[1]、明治法律学校︵現在の明治大学︶に入学し、イタリア人パテルノストロ博士や岩谷孫蔵らから国際法を学ぶ。卒業後、1892年︵明治25年︶京都帝大教授になった岩谷に従い京都にてローマ法の翻訳に従う。その後、帰郷。1897年︵明治30年︶再び上京し、久米邦武、重野安繹らの指導を受ける。﹁ロシア南下史﹂他の著述を完了して1899年︵明治32年︶帰郷後、宇摩郡会議員、県会議員として奔走する。1902年︵明治35年︶水墨画を多く描き任堂と号す。1908年︵明治41年︶再び上京し、東京帝大人類学教室、歴史教室で日本古代史を研究。1909年︵明治42年︶﹁日韓古史年表﹂を作成。1910年︵明治43年︶鳥居龍蔵の﹁南満州調査報告﹂の全図録と第二章を書く。1913年︵大正2年︶﹁伊予石器時代遺跡編﹂を書く。
書物や絵画、詠歌もよくし[1]、与謝野鉄幹、与謝野晶子らの文化人と親交を持った[1]。1910年︵明治43年︶に日露戦争を批判した石碑の碑文が削除され、拘留された[1]。
安藤正楽は芸術家であると同時に人類学・考古学の学者であり、政治家であり、非戦論、人道主義を生涯貫く。日露戦争直後に反戦碑を建て、地元の人々のために春日井水道を自費で造った。没後の1993年︵平成9年︶に正楽の子孫により削除された碑文が復刻された[1]。