小泉節子
日本の女性、作家・小泉八雲の妻 (1868-1932)
概要
生い立ちから八雲との結婚まで
1868年︵慶応4年︶2月4日、松江に生まれセツと命名される。父は出雲松平家の番頭で家禄300石の小泉弥右衛門湊、母はチエ[5]。生後7日で親類で子供の無かった家禄100石の稲垣家の養女となる。
幼いころから物語が好きで、大人たちから昔話、民話、伝説などを聞いて育った[6]。明治維新で士族は家禄を失い困窮した。節子の稲垣家も没落したため、小学校を優秀な成績で卒業し上級学校への進学を希望したにもかかわらず、11歳から織子として働き家計を助けた[7]。
節子が18歳の時に稲垣家は士族の前田為二を婿養子として迎えるが、為二は困窮に耐えられず一年足らずで出奔した[8]。1890年︵明治23年︶、22歳の初めに正式に婚姻関係を解消して小泉家に復帰した[9]。小泉家も困窮しており、1891年︵明治24年︶2月頃一人住まいのハーンの家に住み込み女中として働き始めた[10][注1]。
結婚生活
同居して約半年を経た7月に、ハーンは同僚の英語教師西田千太郎[注2]と出雲大社近くの稲佐の浜を訪れ約半月滞在したが、ハーンは2日目には節子を呼びよせて仲よく一緒に行動しており﹁住み込み女中﹂という扱いではなかった。また8月11日にハーンが友人に出した手紙には節子との結婚を報じている[13]。
1891年︵明治24年︶11月に八雲の転勤で夫婦は熊本県熊本市に転居。節子は八雲との意思疎通のために英語を勉強するが結局ものにならなかった[14]。しかし八雲が語る片言の日本語の﹁ヘルンさん言葉﹂を節子は正確に理解し、夫婦はお互いに意思疎通ができた[15]。熊本では長男の一雄が誕生した。
1894年︵明治27年︶、夫婦は兵庫県神戸市に引っ越した。八雲が熊本時代に執筆した﹃知られぬ日本の面影﹄が好評となったのを受けて、著述に専念するようになった[16]。これ以後の八雲の主要作品に節子が素材を提供している[17]。神戸在住中の1896年にハーンは兵庫県知事の承認を得て日本に帰化し、更に小泉家への﹁外国人入夫結婚﹂の願いが島根県知事に﹁承認﹂されて正式に﹁小泉八雲﹂となった[18]。
1896年︵明治29年︶夫婦は東京府牛込区市谷へ転居する。東京でも節子は八雲に作品の素材を探して提供した。伝承だけでなく当時出版されていた書物を節子が読んで、その内容を﹁ヘルンさん言葉﹂で八雲に伝え、彼の執筆を支えた[19]。八雲は節子に対し﹁本から得た物語で﹂あっても本を見ずに節子自身の言葉で語る﹁語り部﹂であることを要求し、節子はそれに応えた[20]。夫婦は東京で二男一女をもうけるが、夫婦が西大久保に引っ越した1902年頃からハーンの健康が衰え始め[21]、節子が36歳の1904年︵明治37年︶9月26日に八雲が死去した。
八雲の著作に対する節子以外の協力者の存在
晩年
小泉節子を取り扱った作品
脚注
注釈
出典
(一)^ ab長谷川洋二、p.11。
(二)^ 長谷川洋二、p.13。
(三)^ 長谷川洋二、pp.42-43。
(四)^ 青空文庫 思い出の記
(五)^ 長谷川洋二、pp.11-13。
(六)^ 高瀬彰典、p.82。
(七)^ 長谷川洋二、pp.85-86。
(八)^ 長谷川洋二、pp.99-103。
(九)^ 長谷川洋二、p.104
(十)^ 高橋彰典、p.88。
(11)^ 長谷川洋二、p.126。
(12)^ 高瀬彰典、p.91。
(13)^ 長谷川洋二、pp.146-150。
(14)^ 長谷川洋二、p.161。
(15)^ 長谷川洋二、pp.162-163。
(16)^ 長谷川洋二、p.168。
(17)^ 長谷川洋二、p.169。
(18)^ 長谷川洋二、pp.183-184。
(19)^ 長谷川洋二、pp.211-214。
(20)^ 高橋彰典、p.96。
(21)^ 高橋彰典、p.98。
(22)^ 中井孝子、pp.68-69。
(23)^ ab中井孝子、p.71。
(24)^ 中井孝子、p.66。
(25)^ 長谷川洋二、pp.181-182。
(26)^ 高橋彰典、pp.99-100。
(27)^ 長谷川洋二、pp.274-275。
(28)^ 高橋彰典、p.100。
(29)^ “25年度後期の朝ドラ﹁ばけばけ﹂制作決定 モデルは小泉八雲の妻・小泉セツ”. シネマトゥデイ (2024年6月12日). 2024年6月19日閲覧。
(30)^ “2025年度後期 連続テレビ小説﹁ばけばけ﹂制作決定!”. ドラマ情報. NHK (2024年6月12日). 2024年6月19日閲覧。