岩上順一
岩上 順一(いわかみ じゅんいち、1907年(明治40年)1月2日 - 1958年(昭和33年)8月14日)は、日本の文芸評論家。
来歴 編集
山口県吉敷郡小郡町︵現山口市︶に生まれる。家が貧しいため、中学進学ができなかったので、小郡の変電所に勤務するが、学業への意志は強く、鴻城中学校の編入試験に合格した。卒業後は早稲田大学に進み、英文科に所属するも、そのころから社会運動にかかわり、何度か検挙され、結局大学は中退という形になった。
その後、会社勤めをしながら評論を書くことを志し、1938年に評論家としての最初の文章が﹃中央公論﹄に掲載される。この時期、活発に評論活動を行い、1941年5月3日の﹃朝日新聞﹄には﹁全国民を動かす政治的指導が絶対に必要である。翼賛会に対する国民の期待の過半は、統一的な指導力への希望である﹂という大政翼賛会讃美の文章を記した。暴露本﹃進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集﹄︵全貌社、1957年︶には﹁翼賛会に統一的指導力を期待﹂という副題で戦時中の論調が紹介されている。
1941年に最初の評論集﹃文学の饗宴﹄が出版される。戦争に傾斜する文学動向に対して、批判的な立場で論陣をはっていた。そのため、1943年には治安維持法違反のかどで検挙される。
戦後は、すぐに文学活動を再開し、1945年12月の新日本文学会の創立大会で中央委員に選ばれ、書記長をつとめる。この時期には、平野謙や荒正人たちの小林多喜二評価に対して、批判的な意見を発表していた。
1950年代には、新日本文学会に対抗して創刊された雑誌﹃人民文学﹄の中心的な評論家として活動、特に宮本百合子の作品に対して、その小市民性を批判した。この時代には、ソ連との友好関係樹立のために積極的にはたらき、1955年には徳永直とともに訪ソした。
晩年は若い世代の勉強会を組織し、津田孝たちを育てた。
1958年8月14日、脳腫瘍のため死去、享年51歳[1][2][3]。