「愛藤寺城」を編集中
この編集を取り消せます。
下記の差分を確認して、本当に取り消していいか検証してください。よろしければ変更を公開して取り消しを完了してください。
最新版 | 編集中の文章 | ||
36行目: | 36行目: | ||
愛藤寺城は、白糸台地の末端部、[[緑川]]と[[千滝川]]の[[峡谷]]に挟まれた狭隘な台地上にある、3つの尾根にまたがるよう位置している。北から南に向けて緩やかな弧を描きつつ、ところどころに尾根が突き出しながら総延長約560メートルにわたり城域が拡がっている。その三日月状をなす城域の中央付近から西へ突き出る尾根によって同城の[[縄張]]は、一見するとあたかも北西に頭を向けて両翼を大きく広げた鶴のようでもある<ref>その形状から﹁舞鶴︵まいづる︶城﹂の異名がついた、という説もあるが、実際には、同城の本来の城下集落が台地南の小字名﹁津留︵つる︶﹂にあり、その前に位置する事から﹁前津留︵まえづる︶城﹂と称され、それが[[転訛]]して﹁舞鶴城﹂となったものとみられる。なお﹁舞鶴城﹂の異名はほとんど史料には現れない。</ref>。
|
愛藤寺城は、白糸台地の末端部、[[緑川]]と[[千滝川]]の[[峡谷]]に挟まれた狭隘な台地上にある、3つの尾根にまたがるよう位置している。北から南に向けて緩やかな弧を描きつつ、ところどころに尾根が突き出しながら総延長約560メートルにわたり城域が拡がっている。その三日月状をなす城域の中央付近から西へ突き出る尾根によって同城の[[縄張]]は、一見するとあたかも北西に頭を向けて両翼を大きく広げた鶴のようでもある<ref>その形状から﹁舞鶴︵まいづる︶城﹂の異名がついた、という説もあるが、実際には、同城の本来の城下集落が台地南の小字名﹁津留︵つる︶﹂にあり、その前に位置する事から﹁前津留︵まえづる︶城﹂と称され、それが[[転訛]]して﹁舞鶴城﹂となったものとみられる。なお﹁舞鶴城﹂の異名はほとんど史料には現れない。</ref>。
|
||
城域の中央には旧登城口と重なるように林道が南北に貫いており、南北どちらからも160メートルほど入り込んだ辺りでややまとまった平坦地が存在し、城郭の主要部分とみなされる。この平坦地には南北それぞれに高さ数メートルの小丘陵が存在し、北を伝二の丸、南を伝本丸、伝本丸より西へ突き出る尾根を伝三の丸とする連郭式の体をなすが、これまでに行われた調査の |
城域の中央には旧登城口と重なるように林道が南北に貫いており、南北どちらからも160メートルほど入り込んだ辺りでややまとまった平坦地が存在し、城郭の主要部分とみなされる。この平坦地には南北それぞれに高さ数メートルの小丘陵が存在し、北を伝二の丸、南を伝本丸、伝本丸より西へ突き出る尾根を伝三の丸とする[[連郭式]]の体をなすが、これまでに行われた調査の過程で伝二の丸丘陵の方が標高が高く、面積も広いことが判明し、本丸と二の丸との位置関係は本来逆であったとみられる。
|
||
一方、城内から大小の石を出土すること |
一方、城内から大小の石を出土することにより石垣の存在はかねてより示唆されていたが<ref>愛藤寺城のある白糸台地は[[火山灰]]性[[土壌]]であり、[[1次堆積]]土中に[[礫]]を含む事はほとんどない。</ref>、[[平成]]19年︵2008年︶、大雨による土砂災害で埋もれていた石垣の一部が発見され、その残存が確認された。同22年︵2010年︶の調査によって、その分布は伝本丸から伝三の丸にかけてのほかに、城域最北端の通路東に隣接する小丘陵でも確認されており、その付近の旧地名﹁城門﹂と併せて高楼の存在を窺わせている。
|
||
石材は[[安山岩]]だがかなり硬質で、加工痕跡を留める石材はきわめて少ないものの、矢を用いた割石を積み上げており、[[隅石]]には[[算木積み]]を用いている。 |
石材は[[安山岩]]だがかなり硬質で、加工痕跡を明瞭に留める石材はきわめて少ないものの、矢を用いた割石を積み上げており、[[隅石]]には[[算木積み]]を用いている。 |
||
現状での出土[[遺物]]は[[瓦]]が主で、県内唯一のクルス瓦のほか、[[巴紋]]の軒丸瓦などが出土している。クルス瓦はこれまでに4点の追加出土をみているが、やはりその出土は同城内に限られている。ただし分布域は石垣検出部全域に拡散する形となっており、2次利用の可能性が高い。
|
現状での出土[[遺物]]は[[瓦]]が主で、県内唯一のクルス瓦のほか、[[巴紋]]の軒丸瓦などが出土している。クルス瓦はこれまでに4点の追加出土をみているが、やはりその出土は同城内に限られている。ただし分布域は石垣検出部全域に拡散する形となっており、2次利用の可能性が高い。
|