我思う、ゆえに我あり
﹁我思う、故に我在り﹂︵われおもう、ゆえにわれあり、仏: Je pense, donc je suis[1]、羅: Cogito ergo sum︶は、デカルトが仏語の自著﹃方法序説﹄︵Discours de la méthode︶の中で提唱した有名な命題である。﹃方法序説﹄の他、﹃省察﹄、﹃哲学原理﹄、﹃真理の探究﹄でも類似した表現が使われているが、一様でなく、その解釈について争いがある。ラテン語訳のCogito, ergo sum︵コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り︶との標題が有名だが、これは第三者の訳による﹃真理の探求﹄で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。﹃方法序説﹄の幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル︵Étienne de Courcelles︶がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲し[2]、Ego cogito, ergo sum, sive existo との表現がされている。デカルト自身がラテン語で書いた﹃哲学原理﹄︵Principia philosophiae︶ではego cogito, ergo sum[3]、﹃省察﹄では、Ego sum, ego existo [4]と表現されている[5]。
解説 編集
全てについて疑うべし︵De omnibus dubitandum。カール・マルクスの言葉︶という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。﹁自分は本当は存在しないのではないか?﹂と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である︵我思う、ゆえに我あり︶、とする命題である。コギト命題といわれることもある。哲学史を教える場合の一般的な説明によれば、デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していった、とされる。
また、これを意識の﹁内部﹂の発見と位置付けることもできる。中世までの哲学では、意識の内部と外部の問題系というものがなかった。いいかえれば、内部に現われている観念︵表象︶と外部の実在が一致すると思いなされてきた。ところが、デカルトの方法的懐疑はまずこの一致の妥当性を疑った。すなわち、表象と実在は一致するのではなく、むしろ表象から実在を判断することは間違いを伴う、というのである。﹁一度でも間違いが起こった事柄に関しては全幅の信頼を寄せない﹂とするデカルトは、それでもやはり、絶対確実なものを見つけようと試みた。ここで、絶対確実なものとは、表象で直観されたものから実在に関する判断が直接に導かれる事柄のことである。そして、このようなものとは、実は﹁絶対確実なものを見つける﹂という試みそのものを可能にする、﹁私は考える﹂という事実であった。これによって、意識の﹁内部﹂としての﹁考えるところの私﹂が確立し、そこに現われている観念と外部の実在との関係が、様々な形で問題に上るようになった。例えば、﹁観念に対応する実在はいかに考えられるべきか﹂や﹁もっとも確実な観念はなにか﹂といった問いがあげられよう。