文屋康秀
日本の歌人
文屋 康秀︵ふんや の やすひで、生年不詳 - 仁和元年︵885年︶?︶は、平安時代前期の歌人。文琳とも。縫殿助・文屋宗于[1]または大舎人頭・文屋真文[2]の子。子に文屋朝康がいる。官位は正六位上・縫殿助。六歌仙および三十六歌仙の一人。
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概要
官人としては元慶元年︵877年︶山城大掾、元慶3年︵880年︶縫殿助に任官したことが伝わる程度で卑官に終始した。
﹃古今和歌集﹄仮名序では、﹁詞はたくみにて、そのさま身におはず、いはば商人のよき衣着たらんがごとし﹂と評される。勅撰和歌集には﹃古今和歌集﹄4首と﹃後撰和歌集﹄1首が入集するが[3]、﹃古今集﹄の2首は子の朝康の作ともいわれる。
小野小町と親密だったといい、三河国に赴任する際に小野小町を誘ったという。それに対し小町は﹁わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ﹂︵=こんなに落ちぶれて、我が身がいやになったのですから、根なし草のように、誘いの水さえあれば、どこにでも流れてお供しようと思います︶と歌を詠んで返事をしたという。のちに﹃古今著聞集﹄や﹃十訓抄﹄といった説話集に、この歌をもとにした話が載せられるようになった。
代表作
- 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ
- 春の日の光にあたる我なれど 頭の雪となるぞわびしき
脚注
関連項目