木村熊二
出石藩出身の宣教師、教育者
木村 熊二︵きむら くまじ、弘化2年1月25日︿1845年3月3日﹀ - 1927年︿昭和2年﹀2月28日[1]︶は、日本の牧師・教育者。名は熊治とも表記。日本の天気予報の創始者とされる桜井勉は実兄。
木村 熊二 | |
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生誕 |
1845年3月3日 日本、京都 |
死没 |
1927年2月28日(81歳没) 日本、東京府東京市芝区白金三光町 |
墓地 | 谷中墓地 |
国籍 | 日本 |
出身校 | ホープ大学、ニューブランズウィック神学校 |
職業 | 武士、教育者、牧師 |
配偶者 |
木村鐙子 伊東華子 東儀隆子 |
経歴 編集
出石藩の藩儒桜井石門の次男として京都に生まれ[2]、5歳で出石︵現在の兵庫県豊岡市出石町︶に移る[2]。8歳で江戸に遊学し、10歳で木村琶山︵石門の弟子︶の養子となった[2]。
江戸では昌平黌で佐藤一斎、安積艮斎に学ぶ。一斎の縁戚である田口卯吉らと知りあい、同居。21歳の時に恩師一斎の曾孫で卯吉の異父姉である田口鐙子︵とうこ︶と結婚したが、熊二は軍事に奔走し、ほとんど同居していない[2][3][4]。
木村は幕府に仕えて徒目付となる[2]。同じく幕臣で洋学者の乙骨太郎乙とは生涯親交を結ぶ[5]。戊辰戦争・江戸幕府瓦解に際して木村は勝海舟の下で活動するが[2]、新政府軍に反抗し、その追及を受けることになるも[5]、処罰を免れた。一時は写真師下岡蓮杖の弟子となり身を隠した[4]。
1883年の第三回全国基督信徒大親睦会の幹部の記念写真、木村は 前から2列目の右から3人目大儀見は前から3列目の左端
木村鐙子
日本脱出を図り、旧暦明治3年12月︵1871年1月︶、森有礼が少弁務使として渡米する際、外山正一、名和道一、矢田部良吉、大儀見元一郎らと随行。パスポートは偽名で作った[6]。ミシガン州の開拓村ホーランドにあったホープ大学の校長を通じてキリスト教と出合い、明治5年︵1872年︶に受洗、同大学を1879年︵明治12年︶に卒業した[7]。その後デイビッド・マレー夫妻の学資援助で改革派教会系のニューブランズウィック神学校で学び[1][7]、牧師としての試験に合格、1882年︵明治15年︶に改革派の派遣宣教師として帰国した[2][1]。
転勤した兄・桜井勉が住んでいた文京区西片の1000坪の土地を借り受け、その半分に自宅として西洋館を建設[8]。帰国後は私塾を開き、生徒のなかには巌本善治がいた[7]。熱心なキリスト教的教育者として主に女子教育に従事する。1883年︵明治16年︶5月、東京の新栄教会で開催された第三回全国基督教信徒大親睦会に、留学仲間の大儀見元一郎とともに幹部として参加。同年、下谷教会の牧師となった[7]。
妻・鐙子も日本一致長老教会︵植村正久が創立した横浜バンド系の教会︶の下谷教会で婦人会を作り、キリスト教普及活動に従事した。
小諸市立小諸義塾記念館
1891年︵明治24年︶、木村は高輪台教会の牧師を辞職[2]。翌1892年︵明治25年︶、自由民権家の早川権弥の導きで伝道のために長野県南佐久郡野沢村︵現在の佐久市︶に移住する[2]。1893年︵明治26年︶、小諸で私塾として小諸義塾を創設し、青年教育にあたった。1899年︵明治32年︶に小諸義塾は旧制中学校として認可を受け、島崎藤村、丸山晩霞等が木村に招かれて教師として勤務した。
木村は小諸で桃や苺の栽培を推奨した他、中棚の湧き水を使うと傷の治りが早いのに気づき、中棚鉱泉の発掘にあたり、その近くに書斎として﹁水明楼﹂を移築した[2]︵島崎藤村の﹁千曲川のスケッチ﹂にも登場する水明楼は現存している︶。
なお、1896年︵明治29年︶に木村は三人目の妻として27歳下の東儀隆子︵雅楽家の東儀家出身︶を迎えた[2]。
地元民に受け入れられなかったこともあり、小諸義塾は1906年︵明治39年︶に財政難などによって閉校を余儀なくされた[2][6]。
木村熊二のレリーフ
1936年︵昭和11年︶に小諸義塾時代の教え子らが中心となり、木村の記念碑を小諸城址懐古園に建設した。懐古園二の門跡付近の石垣に、木村の肖像のレリーフ︵その下には、島崎藤村が揮毫した﹁われらの父木村熊二先生と旧小諸義塾の記念に﹂と刻まれている︶が埋めこまれている。[10]