浅羽佐喜太郎
人物・生涯
1867年(慶応3年)3月、静岡県磐田郡東浅羽村︵現在の袋井市梅山[1]︶にて生まれた。佐喜太郎の父・義樹は神主だったが、戊辰戦争で官軍に加わった事をきっかけに軍人に転向した人物だった。帝国大学医科大学︵現在の東京大学医学部︶卒業後、神奈川県小田原市国府津町と故郷の東浅羽村にて医院を開業。生来、困っている人を見ると助けずにはいられない性分で、貧しい患者から決して金を取ろうとせず、むしろ金を施した程であったと伝わっている。慈善活動にも熱心で、神奈川県立第二中学校︵現・神奈川県立小田原高等学校︶や前羽村︵神奈川県足柄下郡にあった村。現在の小田原市︶の消防団設立に当たって多大な寄付をした他、前羽村や国府津町の小学校で校医を務め、前羽村小学校に風琴︵オルガン︶を贈呈するなど地域発展にも力を尽くした。
1907年(明治40年)、故郷・東浅羽村に帰っていた浅羽は道端で行き倒れになっていた、ベトナムの民主主義運動家だった阮泰抜を助けた。そして阮に対して東京同文書院︵後の東亜同文書院大学︶への入学手続きや学費まで支払い、金銭的な援助をした。これが同じベトナムの民主主義運動家のファン・ボイ・チャウの耳に入り、2人の交流が始まった。ファンは1905年(明治38年)に来日し、犬養毅の支援を通じて、ベトナムの青年を日本に留学させる東遊運動︵ドンズー運動︶を興していたが、この頃になると金銭的に苦しくなっていた。浅羽はそんなファンに対し、1,700円もの大金[2]を提供してファンを助けた。2人の交流は、日仏協約の締結によるベトナム人留学生の国外退去命令が出された1909年(明治42年)3月まで続いた。ファンの退去時にも浅羽は歓待し、2人で互いに再開を約束し、国外退去命令を推進した大隈重信や犬養毅を酷評したと言われている。
しかし浅羽は病弱であり、当時不治の病だった肺結核を長年患っていた︵このため医科大学卒業後、ドイツ留学を希望していたが断念せざるを得なかったエピソードがある︶。加えて1910年(明治43年)8月に東浅羽村を大洪水が襲い、被災者への心労が加わった事も病状を悪化させてしまった[3]。洪水の翌月︵ファンとの別れから1年半後︶の1910年9月25日、東浅羽村の自宅で死去。43歳の若さだった。
中国で浅羽の訃報を知ったファンは、1917年(大正6年)5月に偽名を使って日本に密入国した。翌1918年(大正7年)に3度目の来日をし、東浅羽村の村長の金銭的援助もあって、浅羽佐喜太郎への記念碑を建立した。碑は高さ2.7m、幅0.87mの大掛かりな物で、以下の文言︵和訳箇所あり︶が刻まれた。
われらは国難のため扶桑︵日本︶に亡命した。公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。
豪空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。我ガ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ億万年。
大正七年三月 越南光復会同人
日越国交樹立40周年となった2013年には、テレビでしばしばファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎の交流が取り上げられた。
テレビ
●ベトナム独立の夢を日本に賭けた男 - 2013年VTV︵ベトナムテレビジョン︶製作。NHK BS1﹃BS世界のドキュメンタリー﹄枠にて、2013年12月20日19:00~19:50に放送された。
●﹃The Partner 〜愛しき百年の友へ〜﹄ - 浅羽佐喜太郎とファン・ボイ・チャウの交流を描いた日本・ベトナム合作テレビドラマ。2013年9月29日にTBSテレビで放送。主演の浅羽は東山紀之が演じた。
著作物
日本語訳書
参考・関連文献
●内海三八郎﹃ヴェトナム独立運動家潘佩珠伝 日本・中国を駆け抜けた革命家の生涯﹄千島英一、櫻井良樹編、芙蓉書房、1999年。ISBN 4829502258。
●田中孜﹃日越ドンズーの華 ヴェトナム独立秘史 潘佩珠の東遊(=日本に学べ)運動と浅羽佐喜太郎﹄明成社、2010年。ISBN 978-4-944219-90-2。
関連項目
- 日越関係
- ファン・ボイ・チャウ - ドンズー運動の一環として来日。浅羽から多大な支援を受けた。
脚注
外部リンク
- 浅羽佐喜太郎・医は仁なり 袋井市のPDFファイルより
- 浅羽ベトナム友好85周年記念行事のご案内 浅羽町まちおこし協会
- 浅羽佐喜太郎公紀念碑と潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ) 袋井市議会議員・寺田守のHP
- ファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎の物語:日越交流40周年記念ドラマ「パートナー」の題材となったドンズー運動ベトナム生活観光情報ナビ