王辰爾の甥で、味沙の子である胆津︵いつ︶が白猪屯倉︵しらいのみやけ︶の田部︵たべ︶の籍を検定した功績により白猪史の姓を賜った。養老四年︵720年︶、葛井連の姓を賜わる[1]。
白猪氏・葛井連氏からは外交の任についた人物が多くみられ、一説に中国で墓誌がみつかった井真成も白猪史姓であったという説がある[1]。白猪では井の字が無いが、出国時の養老元年︵717年︶の時点ですでに葛井連姓を賜っていたとか、養老元年に白猪で出国したが、天平五年︵733年︶の遣唐使から唐の地において葛井連への改姓の情報を聞き自らも改姓した、とする主張もある[1]。