白猪骨
白猪 骨 | |
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時代 | 飛鳥時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 宝然 |
官位 | 務大壱 |
主君 | 天武天皇→持統天皇→文武天皇 |
氏族 | 白猪史→宿禰 |
経歴
編集
天智天皇・天武天皇時代に10年あまり唐に留学し、﹃日本書紀﹄巻第二十九によると、土師宿禰甥︵はじ の すくね おい︶と共に﹁大唐︵もろこし︶の学生︵ものならいひとども︶﹂、すなわち﹁遣唐留学生﹂として唐に留学していたが、白村江の戦いの時に唐側に捕らえられていた猪使連子首︵いつかい の むらじ こびと)・筑紫三宅連得許︵つくしのみやけ の むらじ とくこ︶と共に新羅に入り、天武天皇13年︵684年︶、新羅送使の大奈末︵だいなま︶金物儒︵こんもつぬ︶に率いられて送還された[1]。これを祝して、死刑以外の恩赦が行われた、という[2]。
﹃続日本紀﹄巻第一によると、文武天皇4年︵700年︶、大宝律令撰定の功で、刑部親王以下19人が禄を与えられたが、この中に白猪史骨の名前も、前述の土師甥らと共に位階﹁務大壱﹂︵正七位上に相当︶で記載されている[3]。
﹁白猪史﹂一族は、﹃続紀﹄巻第八によると、養老4年︵720年︶5月に﹁葛井連﹂に氏姓を改め[4]、﹃続紀﹄巻第四十の記述では、延暦10年︵791年︶正月に宿禰姓を授与されている[5]。﹃新撰姓氏録﹄右京諸蕃に﹁葛井宿禰﹂がある。