「細川韶邦」を編集中
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== 生涯 == |
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10代藩主・[[細川斉護]]の次男として誕生 |
10代藩主・[[細川斉護]]の次男として誕生。母は比企氏。幼名は訓三郎、六之助。始め父・斉護の[[偏諱]]を取って'''護順'''︵もりゆき︶、のち藩主就任時に兄・[[細川慶前|慶前]]と同じく12代将軍・[[徳川家慶]]から偏諱を授与されて'''慶順'''︵よしゆき︶と名乗る。
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[[嘉永]]元年︵[[1848年]]︶に兄の慶前が早世したため、父・斉護の嫡子となる。[[万延]]元年︵[[1860年]]︶7月12日、斉護の死去により家督を相続する。同年8月21日、左少将に任官する。[[元治]]元年︵[[1864年]]︶4月11日、従四位上に昇進する。同年4月15日、左中将に任官する。
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[[嘉永]]元年︵[[1848年]]︶に兄の慶前が早世したため、父・斉護の嫡子となる。[[万延]]元年︵[[1860年]]︶7月12日、斉護の死去により家督を相続する。同年8月21日、左少将に任官する。[[元治]]元年︵[[1864年]]︶4月11日、従四位上に昇進する。同年4月15日、左中将に任官する。
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[[尊皇攘夷]]には消極的な人物で、[[文久]]2年([[1862年]])に[[肥後勤王党]]が分裂したのを契機として、藩論を尊王論に統一した。[[慶応]]2年([[1866年]])、[[長州藩]]の[[高杉晋作]]が[[小倉藩]]を攻撃したとき、小倉藩側に |
[[尊皇攘夷]]には消極的な人物で、[[文久]]2年([[1862年]])に[[肥後勤王党]]が分裂したのを契機として、藩論を尊王論に統一した。[[慶応]]2年([[1866年]])、[[長州藩]]の[[高杉晋作]]が[[小倉藩]]を攻撃したとき、小倉藩側に与して戦ったが、隣国の[[薩摩藩]]などの動向が気にかかることもあって、僅かに戦って敗れた後、即座に撤退している。 |
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慶応4年︵[[1868年]]︶4月23日、新政府側に与する意思を示すため、 |
慶応4年︵[[1868年]]︶4月23日、新政府側に与する意思を示すため、実名を慶順から'''韶邦'''に改めた。前述の通り、﹁慶順﹂の﹁慶﹂の字は12代将軍・徳川家慶から偏諱を受けたものであり、それを返上したのである。
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明治2年6月17日、[[版籍奉還]]に伴い[[熊本県|熊本]][[知藩事|藩知事]]となった。明治3年︵[[1870年]]︶5月8日、隠居し、弟で養子の[[細川護久|護久]]に家督を譲った。同年5月13日、正四位に昇進する。明治9年︵[[1876年]]︶10月23日に死去した。[[享年]]42︵満41歳没︶
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明治2年6月17日、[[版籍奉還]]に伴い[[熊本県|熊本]][[知藩事|藩知事]]となった。明治3年︵[[1870年]]︶5月8日、隠居し、弟で養子の[[細川護久|護久]]に家督を譲った。同年5月13日、正四位に昇進する。明治9年︵[[1876年]]︶10月23日に死去した。[[享年]]42︵満41歳没︶
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== 系譜 == |
== 系譜 == |
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*父:[[細川斉護]](1804 |
*父:[[細川斉護]](1804-1860) |
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*母:[[比企氏]] |
*母:[[比企氏]] |
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*正室:峯 - [[一条忠香]]の養女、[[三条実万]]の娘 |
*正室:峯 - [[一条忠香]]の養女、[[三条実万]]の娘 |
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*側室:歌 - 千原氏 |
*側室:歌 - 千原氏 |
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*養子 |
*養子 |
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**男子:[[細川護久]](1839 |
**男子:[[細川護久]](1839-1893) - [[細川斉護]]の三男 |
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== 出典 == |
== 出典 == |
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{{細川氏|肥後細川家|1860年 - 1870年|11代}} |
{{細川氏|肥後細川家|1860年 - 1870年|11代}} |
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{{熊本藩主|細川 |
{{熊本藩主|細川氏|11代|1860年 - 1870年}} |
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{{DEFAULTSORT:ほそかわ よしくに}} |
{{DEFAULTSORT:ほそかわ よしくに}} |
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[[Category:肥後細川 |
[[Category:肥後細川氏|よしくに]] |
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[[Category:熊本藩主|よしくに]] |
[[Category:熊本藩主|よしくに]] |
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[[Category:幕末の大名]] |
[[Category:幕末の大名]] |