葛井諸会
経歴
編集
元明朝の和銅4年︵711年︶対策を受験し、この時の策問に対する対策文が﹃経国集﹄に採られている。
聖武朝の天平7年︵735年︶諸会は大史を務めていたが、美作守・阿倍帯麻呂らが4人を故殺したとして遺族が太政官に対して訴え出る。しかし、この訴えを審理せず放置したとして、右大弁・大伴道足、右中弁・高橋安麻呂、右少弁・県犬養石次とともに怠慢の罪により罰せられたが、詔があり何れも罪を赦されている[1]。
山背介を経て、天平17年︵745年︶外従五位下に叙せられる。その後も天平19年︵747年︶相模守と聖武朝末にかけて地方官を歴任した。この間の天平18年︵746年︶正月の大雪の日に、左大臣・橘諸兄や中納言・藤原豊成ら廷臣が元正上皇の御在所に参入して酒宴を行った際、詔を受けて諸会が詠んだ和歌作品が﹃万葉集﹄に採録されている[2]。
孝謙朝末の天平勝宝9歳︵757年︶内位の従五位下に至る。
官歴
編集注記のないものは『続日本紀』による。