陸軍教導団
陸軍教導団︵りくぐんきょうどうだん︶とは、1871年12月︵明治4年︶から1899年︵明治32年︶11月30日[1]までの間置かれた、大日本帝国陸軍において下士を養成した組織である。
1870年5月︵明治2年︶に大阪兵学寮︵後の陸軍士官学校に当たる。︶内に置かれた教導隊をその前身とする。1871年12月︵明治4年︶に教導隊は教導団と改称されて東京に移され、更に1873年︵明治6年︶10月に兵学寮から分離されて陸軍省の直轄となった。1899年︵明治32年︶に廃止された。初期には、沼津兵学校から編入された生徒もいた︵古川宣誉や早川省義など。︶。千葉県東葛飾郡の国府台︵現・市川市︶などに施設が置かれた。
明治7年 編集
概要 編集
1874年︵明治7年︶10月31日に改訂された陸軍教導団概則及び陸軍教導団条例[1]によると、陸軍教導団の概要は次のようなものであった。
陸軍教導団は、陸軍諸兵の下士に任ずべき者を教育培養する兵団であって、その兵種を区分し、次の6科とした。括弧内は毎年採用すべき人数である。
(一)砲兵︵約193名︶
(二)工兵︵約78名︶
(三)歩兵︵約1,335名︶
(四)騎兵︵約24名︶
(五)輜重兵︵約30名︶
(六)本楽及び喇叭︵約30名︶
なお、生徒修業中は、学術を修し、成業を目途となすため、一切、帰省・休暇を許さなかった。下士に任用された場合、下士の服役期間は7箇年であった。
卒業の上、その学術が秀逸であって、殊に行状方正な者は、選抜して更に陸軍士官学校に転入させて、将校の学科を教授した。このため、陸軍教導団は単なる下士養成機関であるにとどまらず、陸軍での出世を目指す者たちの登竜門的な側面を有していた。そして、教導団出身で陸軍士官学校を経た者から将官も多数輩出した。武藤信義に至っては元帥まで昇っている。
採用の条件 編集
陸軍教導団の生徒は、近衛及び鎮台の兵卒中入団志願の者並びに華族、士族、平民中で、陸軍出身志願の者から充てた。その採用条件は次の通りである。 (一)年齢‥18歳から25歳まで。本楽及び喇叭は15歳から23歳まで。 (二)身長‥5尺︵約151.5cm︶以上。砲兵は5尺2寸︵約157.6cm︶以上。 (三)身体‥体格強壮。なかんずく本楽及び喇叭は歯列斉密の者。 (四)写字‥書束往復に差し支えのない者。 (五)読書‥練兵書等を了解する者。但し本楽及び喇叭はこれを問わない。 (六)算術‥加減乗除を能くする者。但し本楽及び喇叭はこれを問わない。各隊 編集
教導団本部には、次の官僚等が設けられた。 ●長 ●次長 ●書記︵3課に分かれた︶ ●筆生 ●会計官︵3課に分かれた︶ ●教官︵4課に分かれた︶ 教導団には次の隊が設けられた。 ●砲兵大隊︵海岸砲兵の教導も兼ねた。︶ ●工兵大隊 ●歩兵大隊 ●騎兵大隊︵輜重兵の教導も兼ねた。︶ ●楽隊︵喇叭の教導も兼ねた。︶明治23年-明治32年 編集
概要 編集
陸軍教導団条例︵明治23年勅令第47号︶[2]によると、以下のような概要であった。陸軍教導団は、華族、士族、平民中で、歩兵、騎兵、野戦砲兵、工兵、輜重兵科の下士に出身志願の者を選抜して生徒となして、下士たるに必要な教育を施すことを目的とした。 生徒の学期は、概ね毎年12月に始まり、各兵科毎の修業年限は次の通りであった。なお、生徒修業中は一切、帰省・休暇を許さなかった。 ●歩兵科‥16箇月 ●騎兵科‥18箇月 ●砲兵科‥20箇月 ●工兵科‥20箇月 ●輜重兵科‥18箇月 学期末の終末試験に及第した者には、陸軍教導団教則卒業證書を付与して、2等軍曹[3]に任じた。職員 編集
職員としては次のものを置いた。
●団長‥歩兵大佐又は歩兵中佐。歩兵生徒隊長を兼ねる。
●副官‥大尉1人、中尉1人
●病院長‥2等軍医正
●生徒隊長‥少佐1人、大尉3人
●隊附士官‥大尉4人、中尉20人
●歩兵生徒隊附副官‥中尉1人
●砲兵生徒隊附副官‥中尉1人
●軍吏‥6人
●軍医‥8人
●薬剤官‥1人
●獣医‥3人