ジャンニ・アニェッリ
ジャンニ・アニェッリ Gianni Agnelli | |
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生誕 |
1921年3月12日![]() |
死没 |
2003年1月24日(81歳没)![]() |
国籍 |
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出身校 | トリノ大学 |
肩書き |
フィアット 名誉会長 ユヴェントスFC 名誉会長 終身上院議員 |
配偶者 | マレーラ・カラッチョロ王女 |
子供 |
エドゥアルド・アニェッリ3世 マルゲリータ・アニェッリ |
親 |
エドゥアルド・アニェッリ バージニア・バーボン・デル・モンティ王女 |
親戚 |
ジョヴァンニ・アニェッリ(祖父) ジョン・エルカーン(孫) アンドレア・アニェッリ(甥) 詳細は「アニェッリ家」を参照 |
家族 |
クララ・アニェッリ(姉) スザンナ・アニェッリ(妹) マリア・サロン・アニェッリ(妹) クリスティアーナ・アニェッリ(妹) ジョルジオ・アニェッリ(弟) ウンベルト・アニェッリ(弟) |
プロフィール
編集生い立ち
編集イタリア最大の自動車会社フィアットの創始者ジョヴァンニ・アニェッリの息子エドゥアルドとカルロ・デル・モンテ(サン・ファウスティーノ王子)の娘ヴィルジニア・デル・モンテ王女の長男としてイタリア北部の工業都市で同社の本拠地であるトリノで誕生。
14歳の時に父親が死去したが、ジャンニが幼かったために直ぐには会社を継がず、1966年に会長に就任するまでの間、会社の経営は、第二次世界大戦以前より同社の番頭的存在であったヴィットリオ・ヴァレッタが行った。
フィアット入社
編集第二次世界大戦が終結した1945年にトリノ大学法律学部を卒業し同社に副社長として入社したものの、その間は帝王学を身につけるべく勉学に励む一方、しばらくの間同社の実際の経営はヴァレッタが行い、自らは各国を飛び回り各国の政財界の指導層や貴族などとの親交を深めた。またイタリア随一の財閥の御曹司として世界中のリゾート地を飛び回って優雅な暮らしを堪能した。
またフェラーリ・166MMやフィアット・131・アバルト・ラリーなど特別注文したイタリア車を愛用したが、1950年代には自動車事故のため左足の膝から先を切断し、それ以降は義足を使うことになった。また誘拐を防ぐために、常に自分の車の他にボティーガードを数人乗せたフイアット車を走らせていた。なお、誘拐された時のために常に毒薬を所持していた。
フィアットを継ぐ
編集その後1963年に フィアット社長に、1966年には会長に就任し自身が経営を行うことになった。会長就任後は、ソビエト連邦やブラジル、スペインなど各国に生産拠点を作るなど同社の国際化を進めた他、バスやトラックなどの商用車、航空機や鉄道車両の製造にも手を広げた。
また、1969年には経営不振で倒産寸前だった高級車メーカーのランチアを、1986年には国営化されてからも経営不振が続いていたアルファロメオを傘下に収めた他、1988年には高級スポーツカーメーカーのフェラーリを、1998年にはマセラティも傘下(正確にはフェラーリの傘下)に入れ、フィアットを名実ともにイタリアを代表する大企業に育て上げた。
その他の役職
編集死去
編集プライベート
編集家族
編集![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9c/Fiat_Sen._con_Avv.-1940.jpg/220px-Fiat_Sen._con_Avv.-1940.jpg)
セレブリティ
編集![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4d/Ferrari365Pa.jpg/220px-Ferrari365Pa.jpg)