Joseph "Joe" Louis Barrow1914513 - 1981412WBA(NBA)
ジョー・ルイス
基本情報
本名 ジョセフ・ルイス・バロー
(Joseph Louis Barrow)
通称 褐色の爆撃機
(Brown Bomber)
階級 ヘビー級
身長 187cm
リーチ 193cm
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
誕生日 1914年5月13日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
アラバマ州ラファイエット
死没日 (1981-04-12) 1981年4月12日(66歳没)
死没地 ネバダ州パラダイス
スタイル オーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数 69
勝ち 66
KO勝ち 52
敗け 3
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人物

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25

2

KO



2

1936193819391941451001


来歴

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1945年

幼少期

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ジョー・ルイスはアラバマ州ラファイエット英語版で父マンロー・バローの息子として生まれる。父親はルイスが生まれてすぐ1916年に精神病院に収容されたためルイスは父親の記憶がほぼ無い。ルイスはまた言語障害に苦しみ、6歳近くまでほとんど話せなかった。1920年頃に母親が再婚、マンロー・バローが収容先で死亡したと知らせが届く(実際には1938年まで生きていた)。

1926年、第一次世界大戦後のアフリカ系アメリカ人の大移動で引っ越したミシガン州デトロイト白人至上主義団体クー・クラックス・クランのメンバーから脅しを受ける。

ジョー・ルイス

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1932年初頭に17歳でアマチュアデビュー。ルイスはほとんど読み書きが出来なかったため、記入欄に名前のルイスを大きく書きすぎてしまい、本名の「Joseph」を書く余白が無くなったため「Joe」と記入し、それ以降ジョー・ルイスとして活動するようになったとされている。一方、母親にボクシングをやっていることを隠すために名前を省略したという説もある。アマチュア戦績は50勝4敗(43KO)。

地元デトロイトの黒人のノミ屋ジョン・ロックスボローから、黒人ボクサーが白人のマネージャーをつけても、いいように使われて搾取され食い物にされるだけだと口説かれ、ロックスボローをマネージャーにして1934年7月4日にプロデビューする。ロックスボローは一般的に使われるようになる前からブラック・パワーについて話すような男であったため、ルイスはボクシングコミッションからロックスボローと手を切り白人のマネージャーをつけるよう度々圧力を受けた。

黒人差別に対するメディア戦略

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7

19301929退1935

1935625205cm120kgKO調

シュメリング第1戦

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1936619調41222512KO




世界ヘビー級王座獲得

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シュメリングはルイスに勝利した後、世界ヘビー級王者ジェームス・J・ブラドックとの対戦交渉に入るが、ブラドック対ルイスの試合の方がファイトマネーが高額になることや、もしシュメリングが勝利して王座を獲得したときに、ナチス当局がシュメリングの挑戦者にアメリカ人ボクサーを許可しない可能性があったことで、ブラドックとの交渉は失敗に終わり、代わりにルイスがブラドックに挑戦することになった。

1937年6月22日、ルイスは世界ヘビー級王者ジェームス・J・ブラドックと対戦し、8回KO勝ちで王座獲得に成功した。

シュメリング第2戦

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この間にもナチス・ドイツオーストリアアンシュルス併合するなど、他の西側諸国との間で緊張を高め、アメリカのマスメディアでも多くの反ドイツのプロパガンダを生み出していた。こういった影響もあり、シュメリングがアメリカで宿泊するホテル前ではルイス再戦前の数日間、反ナチスの抗議者が抗議活動を繰り広げ、シュメリングにも、途方もない数の憎しみのこもった脅迫の手紙が送りつけられ、試合でリングに入場する際には煙草の吸殻やゴミを投げつけられた。

シュメリングとの再戦の数週間前、ルイスはホワイトハウスアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトを訪問し、「ジョー、ドイツを打ち負かすためには、君のような筋肉が必要なのだ」と激励を受けた。また、ルイスは、今回はキャンプ中にゴルフと女性を断ち、真剣にトレーニングに取り組んだ。

試合の数日前には、ニューヨーク州アスレチックコミッションが、シュメリングのマネージャーであるジョー・ジェイコブスが、シュメリングのセコンドに就くこと及び、控え室への入室を禁止した。さらに、いつもシュメリングのセコンドに就いていたドク・ケイシーも、世間からの悪評を恐れてセコンドを拒否した。このため、試合前の控え室でシュメリングは神経質になっていたが、一方のルイスは対照的に2時間の昼寝を取るなどリラックスしていた。

そして第二次世界大戦間近の1938年6月22日、マックス・シュメリングとの再戦が行われた。ヤンキー・スタジアムに70,043人の観衆を集め、1,015,012ドル(2021年の1950万ドル(約26億円)相当)のチケット売上があり、アメリカで7000万人、世界で1億人以上がラジオ中継を聴取した。試合は124秒の間に3度のダウンを奪ったルイスの圧勝に終わった。ルイスはこの勝利で、アメリカで主要な有名人となり、黒人としては最初の国民的英雄と考えられている。

シュメリングとの対戦にはアメリカとドイツとの政治的、社会的対立という側面と同様に人種的対立の側面もあったため、詩人で作家のマヤ・アンジェロウは、初戦でルイスがロープに詰められ敗北しそうだったときの悲観する心情を「私の人種がうめく。それは別のリンチであり、また別の黒人の男が木に吊るされる。これは世界の終わりかもしれない。もしジョーが敗れたら、私たちは奴隷制度に戻っても仕方がない。私たちがより低い種類の人間だという中傷はおそらく全て事実だったのだろう。類人猿よりも少し高いだけの」と回想していたが、再戦でルイスが勝利した際には「世界のチャンピオン。黒人の男の子。黒人の母親の息子。彼は世界で最も強い男だった。人々はアムブロシアーギリシア神話に登場する不死の力を持つ神々の食べ物)のようにコカ・コーラを飲み、クリスマスのようにキャンディーバーを食べた」と喜びを綴っている。アメリカの主流マスメディアのルイスの勝利への反応は肯定的だったが、中には当時のアメリカの暗示的な人種差別を反映しているものもあった。

第二次大戦

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19421947,000194232736,146

96

194549923

1945101

194661940,0008KO60

1947125331102

引退

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194862542,000311KO

194931退50

19509273621522,357100,458

1951102630658128TKO退19511216

晩年

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退1951使

退46080[1]使[2]10019561972

1969使1970退

198141266D.C.

個人生活

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マックス・シュメリングとは対戦後に友人となり、晩年ルイスが経済的に困窮すると援助を受け、ルイスが死去した際には葬儀代の一部をシュメリングが支払った。

1979年にミシガン州デトロイトに、ジョー・ルイス・アリーナという競技場が建てられた。

死後の1982年8月26日に議会名誉黄金勲章を授与された。1986年10月16日にはデトロイトにルイスの拳を模したモニュメントが作られた。2010年2月27日にはアラバマにルイスの銅像が建てられた。

結婚

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最初の妻マルバ・トロッターとは子供2人を儲けたが1945年3月に離婚。1年後に再婚するが1949年2月に再び離婚した。1955年のクリスマスの日にローズ・モーガンと結婚したが1958年に離婚した。1959年の聖パトリックの日にマーサ・ジェファーソンと結婚した。この他にもルイスはエドナ・メイ・ハリスやレナ・ホーンと不倫関係にあった。

プロゴルフ

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19361952PGA (Caucasian) PGAPGA196111 (The First Tee)Jr. 

2009PGA3

戦績

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  • プロボクシング:69戦66勝52KO3敗

脚注

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  1. ^ Joe Louis” (2006年4月16日). 2013年11月25日閲覧。
  2. ^ Joe Louis(1914-1981)” (2004年9月22日). 2013年11月25日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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前王者
ジェームス・J・ブラドック
第17代世界ヘビー級王者

1937年6月22日 - 1949年3月1日(返上)

空位
次タイトル獲得者
イザード・チャールズ