第一次世界大戦は、第二次世界大戦が勃発するまで、世界戦争 (World War) または大戦争 (Great War) と呼ぶのが一般であった[12]。あるいは、欧州大戦 (War in Europe)、戦争を終わらせるための戦争 (the war to end war[13]) という表現もあった[13][14]。主に第一次世界戦争︵First World WarまたはWorld War I︶と呼ばれるようになったのは第二次世界大戦以降である[15]。
このうち﹁世界戦争﹂ (ドイツ語: Weltkrieg) という用語が初めて使われたのはドイツ帝国であり、この名称が使われた背景にはドイツの帝国主義政策﹁世界政策﹂ (Weltpolitik) の存在などがあったという。1917年のアメリカ合衆国参戦後、合衆国国内でも﹁世界戦争﹂という名称が従来の﹁ヨーロッパ戦争﹂に取って代わった。
﹁第一次世界戦争﹂ (First World War) という用語が初めて使われたのは、1914年9月、ドイツの生物学者、哲学者であるエルンスト・ヘッケルが﹁恐れられた﹃ヨーロッパ戦争﹄は疑いもなく︵中略︶完全な意味での﹃初の世界戦争 (the first world war) ﹄となるだろう﹂と述べた時だった[注釈3]。1939年に第二次世界大戦が勃発した後﹁第一次世界戦争﹂という用語が主流になったが、イギリスとカナダの歴史家はFirst World Warを、アメリカの歴史家はWorld War Iを多用した[19]。
一方、﹁大戦争﹂ (英語: Great War, フランス語: la Grande Guerre) という用語は、主に大戦中のイギリス・フランス両国で用いられた。カナダでも1914年10月号のマクリーンズ誌︵英語版︶が﹁大戦争﹂ (Great War) とした[20]。1930年代以降、英仏両国でも﹁世界戦争﹂が第一次世界大戦の名称として使われるようになるが、2014年においても第一次世界大戦を指して﹁大戦争﹂と呼ぶ用法は両国内で広く用いられているという。
歴史家のガレス・グロヴァー︵英語版︶は著書の﹃100の物が語るウォータールー﹄ (Waterloo in 100 Objects) で、﹁この前置きは大戦争という名称が常に1914年から1918年までの第一次世界戦争を意味する環境で育った人にとっては当惑するものかもしれない。しかし、1918年以前を生きた人々にとって、大戦争という称号はイギリスが1793年から1815年までの22年間、フランスと戦った革命戦争とナポレオン戦争を意味した﹂と述べた[21]。例えば、歴史家のジョン・ホランド・ローズは1911年に﹃ウィリアム・ピットと大戦争﹄ (William Pitt and the Great War) という著作を出版したが、題名の﹁大戦争﹂はフランス革命戦争とナポレオン戦争を指している。
木村靖二によれば、日本で定着した名称﹁世界大戦﹂は、﹁世界戦争﹂と﹁大戦争﹂のいずれでもなく両者を組み合わせたものであり、他国には見られない珍しい名称であるという。
戦争の引き金となったのは1914年6月28日、ユーゴスラヴィア民族主義者︵英語版︶の青年ガヴリロ・プリンツィプが、サラエヴォへの視察に訪れていたオーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺した事件︵サラエボ事件︶だった。
これにより、オーストリア=ハンガリーはセルビア王国に最後通牒を発するという七月危機が起こった[22]。各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる[24]。そして、それまでの数十年間に構築されていた欧州各国間の同盟網が一気に発動された結果、数週間で主要な欧州列強が全て参戦することとなった。
まず7月24日から25日にはロシアが一部動員を行い、28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告すると、ロシアは30日に総動員を命じた[25]。ドイツはロシアに最後通牒を突き付けて動員を解除するよう要求、それが断られると8月1日にロシアに宣戦布告した。東部戦線で人数的に不利だったロシアは三国協商を通じて、同盟関係にあるフランスに西部で第二の戦線を開くよう要請した。1870年の普仏戦争の復讐に燃えていたフランスはロシアの要請を受け入れて、8月1日に総動員を開始、3日にはドイツがフランスに宣戦布告した。独仏国境は両側とも要塞化されていたため、ドイツはシュリーフェン・プランに基づきベルギーとルクセンブルクに侵攻、続いて南下してフランスに進軍した。しかしその結果、ドイツがベルギーの中立を侵害したため、8月4日にはイギリスがドイツに宣戦布告した。イギリスと同盟を結んでいた日本も連合国として、8月23日にドイツに宣戦布告した。
ドイツ陸軍のパリ進軍が1914年9月のマルヌ会戦で食い止められると、この西部戦線は消耗戦の様相を呈し、1917年まで塹壕線がほとんど動かない状況となった。東部戦線ではロシアがオーストリア=ハンガリーに勝利したが、ドイツはタンネンベルクの戦いと第一次マズーリ湖攻勢でロシアによる東プロイセン侵攻︵英語版︶を食い止めた。1914年11月にオスマン帝国が中央同盟国に加入すると、カフカースと中東︵メソポタミアやシナイ半島︶の戦線が開かれた。1915年にはイタリアが連合国に、ブルガリアが中央同盟国に加入した。ルーマニア王国とアメリカはそれぞれ1916年と1917年に連合国に加入した。
ロシアでは1917年3月に2月革命によって帝政が崩壊し、代わって成立したロシア臨時政府も十月革命で打倒され、軍事上でも敗北が続くと、ロシアは中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結して大戦から離脱した。1918年春にはドイツが西部戦線で春季攻勢を仕掛けたが、連合国軍は百日攻勢︵英語版︶でドイツ軍を押し返した。1918年11月4日、オーストリア=ハンガリーはヴィラ・ジュスティ休戦協定を締結。ドイツも革命が起こったため休戦協定を締結し、戦争は連合国の勝利となった。
戦争終結前後にはドイツ帝国、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国などのいくつかの帝国が消滅した。国境線が引き直され、独立国として9つの国家が建国されるかあるいは復活した[28]。また、ドイツ植民地帝国は戦勝国の間で分割された。
1919年のパリ講和会議においては﹁五大国﹂︵イギリス、フランス、イタリア、日本、アメリカ︶が会議を主導し、一連の講和条約を敗戦国に押し付け、敗戦国の領土を分割した。大戦後には、再び世界大戦が起こらないことを願って国際連盟が設立された。
軍事的には列強が人員や経済力、工業技術を大規模に動員する国家総力戦であった。航空機や化学兵器︵毒ガス︶、潜水艦、戦車といった新兵器が大規模または史上初めて使われた[29]︵軍事技術も参照︶。
19世紀の間、ヨーロッパ列強は勢力均衡を維持しようとして様々な手を使い、1900年までに複雑な政治と軍事同盟網を築き上げた。その端緒となったのは1815年にプロイセン王国、ロシア帝国、オーストリア帝国の間で締結された神聖同盟であった。1871年にプロイセン王国がドイツ統一を成し遂げると、プロイセン王国はドイツ帝国の一部となった。直後の1873年10月、ドイツ首相オットー・フォン・ビスマルクはオーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国、ドイツ帝国の間での三帝同盟を交渉したが、オーストリア=ハンガリーとロシアがバルカン半島政策をめぐって対立したため、ドイツは1879年にオーストリア=ハンガリーと単独で独墺同盟を締結した。これはオスマン帝国が衰退︵英語版︶を続ける中、ロシアがバルカン半島での影響力を増大させるのに対し両国が対抗するためだった[9]。1882年にはチュニジアを巡るフランスとの対立から、イタリア王国が加入して三国同盟となった。またアジアにおいては、1902年に日本とイギリスが日英同盟を締結した。
ビスマルクはフランスおよびロシアとの二正面作戦を防ぐべく、ロシアをドイツ側に引き込もうとした。しかし、ヴィルヘルム2世がドイツ皇帝に即位すると、ビスマルクは引退を余儀なくされ、彼の同盟網は重要性が薄れていった。例えば、ヴィルヘルム2世は1890年にロシアとの独露再保障条約の更新を拒否した。その2年後に、ロシアは三国同盟への対抗としてフランスと露仏同盟を締結した。またイギリスも、1904年にフランスと英仏協商を、1907年にロシアと英露協商を締結した。これらの協定はイギリスとフランス、ロシア間の正式な同盟ではなかったが、フランスとロシアが関与する戦争にイギリスが参戦する可能性が出て、これらの二国間協定は後に三国協商と呼ばれた[9]。
普仏戦争後の1871年にドイツ統一が成し遂げられ、ドイツ帝国が成立すると、ドイツの政治と経済力が大きく成長した。1890年代中期以降、ヴィルヘルム2世率いるドイツ政府はそれを基盤として莫大な資源を投入、アルフレート・フォン・ティルピッツ提督率いるドイツ帝国海軍を設立して、海軍の優越をめぐってイギリス海軍と競争した[32]。
その結果、両国は主力艦の建造でお互いを追い越そうとした。1906年にイギリスのドレッドノートが竣工、イギリス海軍の優勢を拡大させた[32]。英独間の軍備拡張競争は全ヨーロッパを巻き込み、列強の全員が自国の工業基盤を軍備拡張に投入し、汎ヨーロッパ戦争に必要な装備と武器を準備した。1908年から1913年まで、ヨーロッパ列強の軍事支出は50%上昇した。
暗殺事件により、七月危機と呼ばれる、1か月間にわたるオーストリア=ハンガリー、ドイツ、ロシア、フランス、イギリス間の外交交渉が行われた。
オーストリア=ハンガリーはセルビア当局、特に黒手組関連が大公暗殺の陰謀に加わっていると考え︵後に事実であると判明︶、セルビア人のボスニアにおける影響力を消滅させようとした。7月23日にセルビアに対し最後通牒を発し、セルビアへ犯人の黒手組を調査させるべく10点の要求を突き付けた。セルビアは25日に総動員したが、破壊分子の運動の抑圧のための帝国政府の一機関との協力の受け入れを要求した第五条と、暗殺事件の調査にオーストリア代表をセルビアに招き入れるという第6条除いて最後通牒の要求を受諾した[50]。
その後、オーストリアはセルビアとの外交関係を断絶、翌日に一部動員を命じた。そして、1914年7月28日、オーストリア=ハンガリーはセルビアに宣戦布告した。
7月29日、ロシアはセルビアを支持してオーストリア=ハンガリーに対する一部動員を行ったが[25]、翌30日には総動員に切り替えた。ヴィルヘルム2世はいとこにあたるロシア皇帝ニコライ2世にロシアの総動員を取りやめるよう求め、ドイツ首相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークは31日まで回答を待った。ロシアがヴィルヘルム2世の要請を断ると、ドイツはロシアに最後通牒を発し、動員を停止することと、セルビアを支援しない確約を要求した。またフランスにも最後通牒を発して、セルビアの守備に関連する場合、ロシアを支持しないよう要求した。8月1日、ロシアが回答した後、ドイツは動員してロシアに宣戦布告した。これにより、オーストリア=ハンガリーでも8月4日に総動員が行われた。
シュリーフェン・プランによるドイツ軍の進行路
ドイツがフランスに中立に留まるよう要求したのは、兵力展開の計画を選ばなければならなかったためであった。当時、ドイツでは戦争計画がいくつか立てられており、どれを選んだとしても兵力の展開中に計画を変更することは困難だった。1905年に立案され、後に修正されたドイツのシュリーフェン・プランでは軍の8割を西に配置するアウフマーシュ・II・ヴェスト (Aufmarsch II West) と軍の6割を西に、4割を東に配置するアウフマーシュ・I・オスト (Aufmarsch I Ost) とアウフマーシュ・II・オスト (Aufmarsch II Ost) があった。東に配置する軍が最大でも4割留まりだったのは、東プロイセンの鉄道の輸送率の上限であったからだった。フランスは回答しなかったが、自軍を国境から10km後退させて偶発的衝突を防ぎつつ予備軍を動員するという、立場が不明瞭な行動をした。ドイツはその対処として予備軍を動員、アウフマーシュ・II・ヴェストを実施すると決定した。
8月1日、ヴィルヘルム2世はフランスが攻撃されない限りイギリスが中立に留まるという誤報を受けて、小モルトケに﹁全軍を東に進めよ﹂と命じた。小モルトケは兵士100万人の再配置は不可能であり、しかもフランスにドイツを﹁背後から﹂攻撃する機会を与えるのは災難的な結果を引き起こす可能性があるとヴィルヘルム2世を説得した。しかしヴィルヘルム2世はドイツ軍がルクセンブルクに進軍しないことを堅持、いとこのイギリス国王ジョージ5世からの電報で先の情報が誤報であることを判明してようやく小モルトケに﹁今やあなたは何をしてもいい﹂と述べた[51][52]。ドイツは8月2日にルクセンブルクを攻撃、3日にフランスに宣戦布告した。4日、ベルギーがドイツ軍に対し、フランスへ進軍するためにベルギーを通過することを拒否すると、ドイツはベルギーにも宣戦布告した[54]。イギリスはドイツに最後通牒を発し、ベルギーは必ず中立に留まらなければならないと要求したが、﹁不十分な回答﹂を得た後、8月4日の午後7時にドイツに宣戦布告した︵午後11時に発効︶[56]。
中央同盟国では、緒戦の戦略に関する齟齬が発生していた。ドイツはオーストリア=ハンガリーのセルビア侵攻を支援すると確約していた。今まで使われた兵力展開の計画は1914年初に変更されたが、新しい計画は実戦で使われたことがなかった。
オーストリア=ハンガリーはドイツが北側でロシア軍の対処にあたると考えたが、ドイツはオーストリア=ハンガリーが軍の大半を対ロシア戦に動員し、ドイツ軍はフランス軍の対処にあたると考えた。この混乱によりオーストリア=ハンガリー陸軍(英語版)は対ロシアと対セルビアの両前線で軍を分割せざるを得なかった。
オーストリアは8月12日からセルビアに侵攻。ツェルの戦い︵英語版︶、続いてコルバラの戦い︵英語版︶でセルビア軍と戦った。侵攻開始からの2週間で、オーストリア軍の攻勢は大損害を受け撃退された。これは第一次世界大戦における連合国軍の最初の重要な勝利となり、オーストリア=ハンガリーの迅速な勝利への希望を打ち砕いた。
その結果、オーストリアはセルビア戦線に大軍を維持しなければならず、対ロシア戦役に投入できるオーストリア軍が弱体化することとなった。セルビアがオーストリア=ハンガリーの侵攻を撃退したことは20世紀の戦闘における番狂わせの一つといわれた[59]。
セルビアから脱出した難民、1914年のライプニッツにて。
セルビアにおけるオーストリア=ハンガリーの第一次攻勢はセルビアの一般市民に対する攻撃とともに行われた。民衆数千人が殺害され、集落は略奪、放火された。オーストリア=ハンガリー軍部は一般市民に対する攻撃を暗に認め、﹁系統的でない徴発﹂や﹁無意味な報復﹂などと形容した。セルビア軍は善戦したが、12月までにその力を使い切ったうえセルビアで疫病が流行し、苦しめられることになった[60]。
12月5日から17日、オーストリア=ハンガリー軍はロシア軍のクラクフへの進軍を阻止し、その後は長大な前線にわたって塹壕戦に突入した。また1914年12月から1915年4月にかけてカルパティア山脈の冬季戦役が行われ、中央同盟国軍がロシア軍に対し善戦した[61]。
西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行
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東洋で唯一の大国である日本は、同盟国のイギリスからの後押しもあり、1914年8月15日にドイツに対し最後通牒を行った。直接国益に関与しない第一次世界大戦への参戦には異論も存在したため、一週間の回答期限を設ける異例の対応になったが、結局ドイツはこれに回答せず、日本は8月23日に宣戦布告した。
なお、首相である大隈重信は御前会議を招集せず、議会承認も軍統帥部との折衝も行わないで緊急閣議において要請から36時間後には参戦を決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部との関係悪化を招くことになった。
また、第一次世界大戦でイギリスは本土だけでなく、オーストラリアやインド帝国などイギリス帝国各地から兵を動員した。8月30日、ニュージーランドはドイツ領サモアを占領︵英語版︶した。9月11日、オーストラリア海陸遠征軍︵英語版︶がドイツ領ニューギニアのノイポンメルン島に上陸した。10月28日、ドイツの軽巡洋艦エムデンがペナンの海戦︵英語版︶でロシアの防護巡洋艦ジェムチュクを撃沈した。
ドイツ領南洋諸島を占領するかについては日本国内でも結論が定まっていなかった。参戦を主導した加藤高明外相も、南洋群島占領は近隣のイギリス植民地政府と、同じく近隣に植民地を持つアメリカを刺激するとして消極的であった。ところが、9月に入り巡洋艦ケーニヒスベルグによるアフリカ東岸での英艦ペガサス撃沈、エムデンによる通商破壊などドイツ東洋艦隊の活動が活発化したことで、イギリス植民地政府の対日世論は沈静化した。アメリカにおいても、一時はハースト系のイエロー・ペーパーを中心として目立った対日警戒論も落ち着いてきた。
このような情勢を受け南洋諸島の占領が決定された。10月3日から14日にかけて、第一、第二南遣支隊に属する﹁鞍馬﹂﹁浅間﹂﹁筑波﹂﹁薩摩﹂﹁矢矧﹂﹁香取﹂によって、ドイツ領の南洋諸島のうち赤道以北の島々︵マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島︶が占領された。これら島々の領有権は戦後に決定するという合意があり、当然日本の国民感情的には期待があった。
開戦前に南洋諸島に派遣されていたドイツ東洋艦隊は、先に日露戦争でバルチック艦隊を壊滅させた日本艦隊に恐れをなし逃亡し、パガン島付近で補給艦からの支援を受けた後に、南アメリカ大陸最南端のホーン岬廻り︵ドレーク海峡経由︶で本国へ帰還するため東太平洋へ向かった。
日本をはじめとする連合国軍は数か月内に太平洋におけるドイツ領を全て奪取、単独の通商破壊艦やニューギニアで粘った拠点のいくつかだけが残った。本国帰還を目指したドイツ艦隊はイギリス艦隊の追跡・迎撃を受け、東太平洋におけるコロネル沖海戦︵11月1日︶では辛くも勝利したものの、南大西洋のフォークランド沖海戦︵12月8日 ︶に敗れて壊滅した。
また、ドイツ東洋艦隊がアメリカ西海岸地域に移動する可能性があることから、イギリスが日本海軍による哨戒活動をおこなって欲しいと要請してきたため、これに応じて1914年10月1日に戦艦﹁肥前﹂と巡洋艦﹁浅間﹂、同﹁出雲﹂に、輸送船や工作船などからなる支隊を﹁遣米支隊﹂としてカリフォルニア州南部からメキシコにかけて派遣した。なおまだアメリカは参戦せず、しかし日本とイギリスの連合国と、アメリカとメキシコの4国で了解済みの派遣であった。
日本海軍の遣米支隊のアメリカ沿岸到着後には、イギリス海軍やカナダ海軍、オーストラリア海軍の巡洋艦とともに行動した。また遣米支隊の一部の艦艇はドイツ海軍を追ってガラパゴス諸島にも展開した。また、﹁出雲﹂はその後第二特務艦隊の増援部隊として地中海のマルタ島に派遣された。
北欧諸国は大戦中一貫して中立を貫いた。12月18日にスウェーデン国王グスタフ5世は、デンマーク・ノルウェーの両国王をマルメに招いて三国国王会議を開き、北欧諸国の中立維持を発表した。これらの国はどちらの陣営に対しても強い利害関係が存在しなかった。
スウェーデンにおいては親ドイツの雰囲気を持っていたが、これも伝統的政策に則って中立を宣言した。ただしロシア革命後のフィンランド内戦において、スウェーデン政府はフィンランドへの義勇軍派遣を黙認している[99][100]。
12月24日から26日にかけて、西部戦線の一部でクリスマス休戦と呼ばれる非公式な休戦が行われた。この休戦に参加したイギリスとドイツ将兵は合計で10万人以上とされる[101]。
東部戦線において、ドイツ軍は新しく到着したドイツ第10軍︵英語版︶の助力で2月7日から22日までの第二次マズーリ湖攻勢に勝利、ロシア軍をようやく東プロイセンから撤退させた[107]。
ロシア軍との前線、1915年5月時点︵青線︶と9月時点︵青破線︶。
1914年11月にパウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリッヒ・フォン・ルーデンドルフが東部戦線のドイツ軍総指揮官に任命された以降、2人は東部戦線の決着を目指した。ドイツの目的はロシアを弱らせることによって、連合国の同盟の解体を準備しようとした。当時の東部戦線はロシアがガリツィア全体を占領している状態であり、単独講和できる状態にないため、軍事上の圧力をかけることによってロシアへの圧力を増すことと、中立国、特にバルカン諸国に良い印象を与えることができると考えられた[108]。さらに、イタリアが参戦してくる恐れがあったためオーストリア=ハンガリーは戦略的危機に陥っていた。
ロシア軍はカルパティア山脈の冬季戦役を有利に進めており、イタリアが参戦するとオーストリア=ハンガリー軍はイゾンツォ川とカルパティア山脈の間で挟み撃ちにされる形になり、オーストリア=ハンガリー帝国の終焉を意味するほどの危機となる。そこで考えられるのが、西ガリツィアからサン川方面へ突破して、ロシア軍にカルパティア山脈からの撤退を迫る︵撤退しなければドイツとオーストリア=ハンガリーの挟み撃ちを受ける︶ことだった。この戦略を実行に移すため、1915年春にアウグスト・フォン・マッケンゼン率いるドイツ第11軍︵英語版︶が西部戦線から東部戦線に転配された。5月1日から10日まで、クラクフの東でゴルリッツ=タルヌフ攻勢が行われた。この攻勢において、ドイツとオーストリア=ハンガリー第4軍︵英語版︶は予想外に善戦してロシアの陣地に深く侵入、5月中旬にはサン川までたどり着いた。この戦闘は東部戦線の変わり目だったが、オーストリア=ハンガリーは開戦から1915年3月まで約200万人の損害を出しており、ドイツの援助に段々と依存するようになった[109]。
6月、中央同盟国はゴルリッツ=タルヌフ攻勢に続いてブク攻勢︵ドイツ語版︶を開始した。6月4日にプシェムィシルを、22日にレンベルクを再占領した後、ロシア領ポーランドに突起部︵英語版︶を作ることが可能のように見えた。南と北とで共同して攻撃を仕掛けることで、ロシア軍を包囲するという計画がドイツ最高司令部︵実際に計画を立てたのはルーデンドルフだった︶から示されたが、ファルケンハインとマッケンゼンはマルヌ会戦の惨状を見て、ルーデンドルフの計画を野心的すぎるとしてそれを縮小させた。6月29日から9月30日までのブク攻勢と7月13日から8月24日までのナレフ攻勢︵ドイツ語版︶はロシアの大部隊を包囲するには至らなかったが、ロシア軍にポーランド、リトアニア、そしてクールラントの大半からの大撤退を強いることができた。
大撤退の結果、ロシア軍の前線が1,600kmから1,000kmに短縮された。中央同盟国は9月までにワルシャワ︵8月4日︶、ブレスト=リトフスク、ヴィリニュスなど重要な都市を続々と占領した。ロシア領ポーランドではルブリンを首都とするオーストリアのルブリン総督府︵ドイツ語版︶とワルシャワを首都とするドイツのポーランド総督府︵英語版︶が成立、中でもドイツの東部占領地︵英語版︶では経済的搾取を行う占領政策がとられた。9月末、ルーデンドルフ率いるドイツ第10軍︵英語版︶がミンスクに、オーストリア=ハンガリー軍がリウネに進軍しようとしたが失敗した。損害ではロシア軍の方が上だったが、1915年9月に大撤退が終結した後でも数的優位を維持したため、ドイツ軍の大半を西部戦線に移すという計画は実施できなかった[110]。
西部戦線においては連合国軍がドイツ軍の両翼に圧力をかけてリールとヴェルダンの間にある大きい突起部を切り離し、あわよくば補給用の鉄道を断つという伝統的な戦略をとった。この戦略の一環として、1914年末から1915年3月まで第一次シャンパーニュ会戦︵英語版︶で消耗戦が行われた。すなわち、敵軍の士気低下を目的とする箱型弾幕を放った後、大規模な歩兵攻撃を行ったのであったが、ドイツ軍は反撃で応じ、また塹壕戦では堅固な守備、弾幕と機関銃の使用などで防御側が有利だったため、ドイツ軍は連合国軍の攻撃を撃退した。連合国軍は小さいながら戦略的に脅威であるサン=ミーエル︵英語版︶への攻撃︵イースターの戦い (Osterschlacht) または第一次ヴェーヴル会戦 (Erster Woëvre-Schlacht)︶も試みたが失敗に終わった[111]。
東部戦線のガス攻撃。右側は後続攻撃を準備している歩兵。
第二次イーペル会戦の初日である4月22日に毒ガスが使われたことは﹁戦争の歴史の新しい章﹂﹁現代の大量殺戮兵器の誕生﹂とされている[112]。第一次世界大戦の化学兵器︵英語版︶の使用は連合国軍が催涙剤を使う前例があったが、4月22日に使われたのは致死性のある塩素ガスであり、ハーグ陸戦条約に違反した行動であった[113]。そのため、この行動はプロパガンダに使われた。ドイツの化学者フリッツ・ハーバーが計画した毒ガス作戦は風向に影響されており、ガスボンベは3月にイーペル近くの最前線にある塹壕に設置されたが、西フランドルで東風が吹くことは少ないため、攻撃は数度延期された。4月22日は安定した北風が吹いたため、イーペル近くにある連合国軍の前線の北部でガスが放たれた。効果は予想以上であった。フランスの第87師団と第45アルジェ師団が恐慌を起こして逃亡、連合国軍の前線に長さ6kmの割れ目を開いた。ガス攻撃による死者は当時では5千人と報じられ、現代では死者約1,200人、負傷者約3千人とされている。ドイツ軍はこれほどの効果を予想せず、進軍に必要な予備軍を送り込めなかった。さらに、ドイツ軍もガスの影響を受けた。結局、連合国軍はイギリス軍と新しく到着したカナダ師団で持ちこたえ、第二次イーペル会戦では大した前進にはならなかった。ガスの使用により、第一次世界大戦の塹壕戦︵ドイツ語版︶ではまれである守備側の損害が攻撃側よりも遥かに大きい︵7万対3万5千︶という現象が起こった[114]。
秋季の戦闘で破壊されたアルゴンヌの森
5月9日、英仏は第二次アルトワ会戦︵英語版︶で突破を試みた。会戦の結果は連合国軍が111,000人、ドイツ軍が75,000人の損害を出したが、連合国軍は限定的な成功しかできず、攻勢は6月中旬に中止された。ドイツ側では塹壕戦における守備側の有利をさらに拡大するために戦術を変更した。守備側は伝統的には兵士を見晴らしが最もよく、射界が最も広い最前線に集中して配置したが、連合国軍が物質上で優位にあったため、ドイツ軍は守備を塹壕の2列目に集中した。これにより、連合国軍が塹壕を突破する間にドイツ軍が予備軍を投入することができる一方、連合国軍の砲兵は視界の問題によりドイツの陣地を消滅させられるだけの射撃の正確さを失った[115]。
1915年の西部戦線における最後の戦闘は9月から11月にかけて、連合国軍が仕掛けた第二次シャンパーニュ会戦︵英語版︶と第三次アルトワ会戦︵英語版︶だった。シャンパーニュ会戦とローの戦い︵英語版︶はともに失敗して大損害を出し、大量の物資を費やしながら結果が伴わなかった。﹁連合国の部隊は最小限の前進のために25万人までの損害を受けなければならなかった﹂[116][117]。
ブルガリア王国の参戦、1915年のセルビア戦役
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1915年10月14日にブルガリア王国が中央同盟国側で参戦した。その背景にはブルガリアがバルカン戦争で﹁ブルガリア民族の国﹂を建国するための領土拡張に失敗したことがあった。ブルガリアが第一次バルカン戦争で勝ち得た領土は1913年のブカレスト条約でほぼ全て返還されることとなり、またブルガリアは一連の戦争で弱体化した。1914年8月1日、ブルガリア首相ヴァシル・ラドスラホフ︵英語版︶率いるブルガリア政府は厳正中立を宣言したが、中央同盟国も連合国もどちらもブルガリアに働きかけて各々の陣営に引き込んで参戦させようとした。交渉が開始された時点では中央同盟国の方が有利であった。というのも、ブルガリアの領土要求はセルビア、そして︵連合国側での参戦が予想される︶ルーマニア王国とギリシャ王国の領土を割譲させることによって容易に達成できるからであった。結果的には中央同盟国がブルガリアにマケドニア、ドブロジャ、東トラキアの獲得を約束。また1915年秋には情勢が中央同盟国にやや有利だったため、ブルガリアは中央同盟国に味方した。セルビアを攻撃することで、オスマン帝国と陸路での連絡を成立させたかった中央同盟国に対し、ブルガリアは9月6日に協力に同意した。ブルガリアの参戦は賛否両論だったが、政府が参戦を決意すると、反対派は社会民主主義者の一部を除いて戦争遂行に協力した。10月6日、アウグスト・フォン・マッケンゼン元帥率いるセルビア攻勢︵ドイツ語版︶が始まり、10月14日にはブルガリアがセルビアに宣戦布告した。これにより、セルビアは数的には劣勢になり、連合国がテッサロニキの北で部隊を上陸させた後でも劣勢が覆らなかった。ギリシャは1913年6月1日にセルビアと相互援助条約を締結したが︵ギリシャ・セルビア同盟︵英語版︶︶、連合国軍の支援が不足しているとして参戦を拒否した[127]。ベオグラードが10月9日に、ニシュが11月5日に陥落すると、ラドミル・プトニク率いるセルビア軍︵開戦時には36万人いたが、この時点では15万しか残っていない︶は捕虜約2万人を連れてアルバニア公国やモンテネグロ王国の山岳地帯に撤退した。セルビア軍はケルキラ島で再編された後、マケドニア戦線に投入された。占領されたセルビア︵英語版︶はオーストリア=ハンガリーとブルガリアの間で分割された[128]。
12月にフランス軍の総指揮官に就任したジョゼフ・ジョフルは12月6日から8日まで連合国間のシャンティイ会議︵英語版︶を開催した[注釈6]。中央同盟国の内線︵英語版︶を有利に利用すべく、1916年中に全ての前線で共同して攻勢に出ることが計画された[132]。イギリスではガリポリの戦いの失敗により、ハーバート・ヘンリー・アスキス内閣は5月に改造してそれまで野党であった保守党の入閣に同意せざるを得なかった。このアスキス挙国一致内閣︵英語版︶では1915年春の砲弾危機︵英語版︶に対応するために軍需大臣︵英語版︶が新設された。
10月と11月にはドイツでのグロサリー、配給所やフライバンク︵ドイツ語版︶[注釈7]に対する食料制限の引き締めにより、まず暴動が起き、続いて主に女性によるデモが行われた。11月30日、女性58人が首都ベルリンのウンター・デン・リンデンでデモを行った時に逮捕されたが、この逮捕には報道管制が敷かれた[133]。また1914年11月には既に穀物、パン、バター、ポテトの値段が大幅に上昇し、農民も都市部には供給したくなかった[134]。供給問題の原因は当局が戦争の長期化を予想せず全く準備しなかったこともあったが、戦争により食料品と硝酸塩︵化学肥料の生産に必要︶の輸入が止まり、戦争に馬と兵士が動員され、農業をする人手が足りなくなったことにもよる。1914年末、参議院︵英語版︶がパン、ポテト、砂糖の最高価格を定め、1915年1月には他の基本食料品にも同じ措置がとられたため、ドイツの農民は闇市で取引するようになった。1915年末には﹁インフレが脅威になってきた。より厳しい食料制限が始まり、最近数週間の雰囲気が変わってきた。特に女性の間で﹃食料をくれ!それから、私の夫も!﹄という怒りの叫びをするようになった。﹂という観察もあったという[135]。闇市の隆盛により、ドイツではイギリスの海上封鎖のみが食料不足の原因であるとする政府のプロパガンダを信じる者が減少した。食料供給の政策に失敗した結果、1915年末までに﹁市民は国から疎遠になり、国の﹃非正当化﹄が始まるほど﹂となった[136]。
ドイツ社会民主党の国会議員と党首は11月27日に国会でベートマン・ホルヴェーク宰相に対し、いつ、どのような条件で講和交渉をするかを質疑することを決定した。ベートマン・ホルヴェークは質疑を取り下げさせることに失敗し、12月9日には国会で喚問された。彼はフィリップ・シャイデマンの質問に対し、東部と西部の﹁安全﹂︵併合︶が平和に不可欠であるとしたが、外国では﹁覇権主義の演説﹂として扱われた。その結果、国会では12月21日に社会民主党の代表20名が戦争借款の更新を拒否。ベートマン・ホルヴェークを﹁併合の主導者﹂としてこき下ろした声明を出した[137]。
西部戦線では2月21日、ヴェルダンの戦いが始まった。作戦の発案者ファルケンハインが1920年に出版した著述によると[141]、後世に残った印象と違い、ヴェルダンの戦いは無目的にフランス軍に﹁出血﹂を強いるものではなかったという。彼はその著述で攻撃の失敗を弁護し、﹁血の水車﹂という伝説に反論しようとした。ヴェルダン攻撃を着想したのはドイツ第5軍の指揮官ヴィルヘルム皇太子で、参謀コンスタンティン・シュミット・フォン・クノーベルスドルフ︵英語版︶がその任務を受け持った。ヴェルダンの要塞はフランス国内で最も堅固な要塞だったが、1915年にはその武装が一部解除されており、ドイツ軍部はヴェルダンを攻撃することで西部戦線に活気をもたらそうとした。また、ドイツ軍から見るとヴェルダンは東のサン=ミーエル︵英語版︶と西のヴァレンヌに挟まれたフランス軍の突起部であり、ドイツ軍の前線を側面から脅かしていた[142]。ヴェルダンの占領自体が戦闘の主要な目的ではなく、マース川東岸の台地を占領することで大砲をヴェルダンを見下ろせる位置に配置することができ、ヴェルダンを守備不能にすることが目的だった。ファルケンハインは、フランスが国威を維持するために︵普通ならば受け入れられない損害を出してでも︶ヴェルダンを死守すると考えていた。しかし、ドイツ軍の計画が成功した場合、フランスがヴェルダンを維持するためにはドイツ砲兵の占領した高台を奪回しなければならず、1915年の戦闘の経験からは不可能だと思われた[143]。
ドゥオモン要塞︵英語版︶にある爆発の跡、1916年。
ヴェルダンの戦いの第一段階において、ドイツ軍第5軍の8個師団は大砲1,500門で8時間にわたって箱型弾幕を放った。この砲撃はヴェルダンの北にあるオルヌ︵英語版︶︵現代では消滅集落︶で長さ13kmの前線にわたって行われた。ドイツ軍の予想と違い、フランス軍が激しく抵抗したため当初はほとんど前進できなかった。ドイツ軍は2月25日にドゥオモン要塞︵英語版︶を占領したが、要塞が東向きだったため戦術的にはあまり重要ではなかった[注釈8]。しかし、ドゥオモン要塞を失ったフランスは何としてもヴェルダン要塞を死守しなければならないと決定、ヴェルダンの守備にフィリップ・ペタン将軍を任命した。フランスはバル=ル=デュックとヴェルダンを繋ぐ唯一の道路︵神聖街道︵英語版︶と呼ばれた︶で、兵士を交替させる補給システムを築いた︵このシステムはノリア︵ドイツ語版︶と呼ばれた︶。ヴェルダンの戦いの第一段階はフランス砲兵がマース川西岸の台地から砲撃してドイツ軍の進軍を停止させたことで3月4日に終結した[142]。
第二段階ではファルケンハインがドイツ第5軍からの圧力で、これらの台地への攻撃を許可した。台地のうち、ドイツ軍はル=モルトーム︵英語版︶︵﹁死人﹂の意︶という台地を何度か奪取したが、すぐに奪い返された。ル=モルトームとその隣の304高地はヴェルダンの戦いで残忍な戦闘が起こったため﹁ヴェルダンの地獄﹂(Hölle von Verdun) の象徴とされている[142]。
第三段階ではドイツ軍が再びヴェルダンの占領に集中、6月2日にヴォー要塞︵英語版︶への強襲を開始した。23日には兵士7万8千でヴォー=フルーリー線︵英語版︶への攻撃を開始したが、戦況は膠着した。直後の第四段階ではドゥオモンのすぐ南にあるティオモン堡塁︵フランス語版︶をめぐって激しい戦闘が行われた。そして、ドイツの攻勢はヴェルダンから北東約5kmのスーヴィル要塞︵フランス語版︶で行き詰まった。7月11日、ファルケンハインは攻勢が行き詰まったことと、7月1日に連合国軍が攻勢に出てソンムの戦いが開始したことを理由に攻勢の停止を命じた[142]。
1916年初、ドイツの首脳部は再び対英潜水艦作戦の増強について討議した。セルビアが敗れたことで、ファルケンハインはヴェルダン攻勢のほかにも︵アメリカを敵に回してでも︶イギリスに対しより積極的に行動する時期が来たと考えた。ヘンニング・フォン・ホルツェンドルフ︵英語版︶海軍参謀総長︵英語版︶も1年以内にイギリスを屈服させられることを保証した。ベートマン・ホルヴェークは交渉の末ヴィルヘルム2世に決定を先延ばしにさせることに成功、当面は潜水艦作戦の増強︵警告なしで武装した商船を撃沈することを許可、ただし無制限潜水艦作戦は不可︶を決定した[144]。
3月初、ドイツ帝国海軍省︵英語版︶がマスコミで無制限潜水艦作戦を支持する宣伝攻勢を始め、ヴィルヘルム2世を激怒させたためティルピッツは3月15日に海軍大臣を辞任せざるを得なかった[145]。ドイツ潜水艦による客船サセックス攻撃がアメリカとの間で問題となり、ドイツは5月にサセックスの誓約︵英語版︶を出して潜水艦作戦の増強を取りやめることとなった。
5月31日から6月1日にかけて、両軍艦船合わせて排水量180万トンにもなる﹁世界史上最大の海戦﹂という予想外のユトランド沖海戦が行われ、両軍合計で8,600人が死亡した︵その中には作家のゴルヒ・フォック︵英語版︶もいた︶。ドイツの大洋艦隊は規模で上回るイギリス艦隊に対し幸運にも逃走に成功。またイギリス艦隊の損害はドイツ艦隊のそれを上回ったが、戦略的には何も変わらず、イギリスは北海の制海権を保った[146]。
シャンティイ会議︵英語版︶での決定に基づき、連合国軍は1916年中に3つの攻勢を計画した。すなわち、ソンム会戦、ブルシーロフ攻勢、次のイゾンツォ川の戦いの3つだった。7月1日のソンム会戦は元はフランス主導の作戦だったが、ヴェルダンの戦いによる消耗があったためイギリス軍が大半を占めるに至った。イタリア戦線では2月のヴェルダンの戦いにより連合国はイタリアに要請して3月11日に攻撃を開始︵第五次イゾンツォの戦い︶、オーストリアも5月15日から南チロル攻勢を開始︵6月18日に終結︶したためロシアのブルシーロフ攻勢が6月4日に始まった。その後はイタリアによる第六次イゾンツォの戦いが8月4日に始まった[147]
6月4日、ブルシーロフ攻勢が始まり、この時点の連合国にとって最大の勝利となった。3月にロシア南部軍の総指揮官に就任したアレクセイ・ブルシーロフはそれまでの失敗から戦術を反省した。まず、攻勢が最短距離400kmという長い前線で行われ、敵軍に一点突破を許さなかった。そして、ロシア軍は秘密裏にオーストリア軍の防衛線に忍び寄り、50m程度の距離まで近づいた︵それまでの攻勢では両軍間の無人地帯が1,600mもあったため、大きな損害が出てしまう︶。ブルシーロフの数的優勢は少なかった︵一般的な攻勢に必要な数的優勢に及ばなかった︶が、ロシア第8軍︵英語版︶は6月8日にコーヴェリでオーストリア=ハンガリー第4軍︵英語版︶をほぼ全滅させ、ロシア第9軍︵英語版︶も南部のドニエストル川とカルパティア山脈の間でオーストリア=ハンガリー第7軍︵英語版︶を撃破、チェルニウツィーやコロムィーヤ︵英語版︶など重要な都市︵いずれも現ウクライナ領︶を占領した。オーストリア=ハンガリーの損害は624,000人だった。ブルシーロフはルーマニア国境近くで最も多く前進︵約120km︶、ルーマニア王国が連合国側で参戦する決定的な要因となった。しかし、補給の問題でさらなる進軍ができず、前線のごく一部にあたるピンスク湿原︵英語版︶やバラーナヴィチで試みられた攻撃も交通の要衝コーヴェリ占領の試みも失敗した︵コーヴェリの戦い︵英語版︶︶。﹁それでも、ブルシーロフ攻勢は、わずかな領土でも争われる第一次世界大戦の規模からすれば、エーヌ会戦︵英語版︶で塹壕戦が始まった以降の連合国軍が勝ち取った最大の勝利であった﹂[148]。
ヴェルダンの戦いによりフランス軍の派遣軍が40個師団から11個師団に減ったため、ダグラス・ヘイグ率いるイギリス海外派遣軍が代わってソンムの戦いを主導した。連合国軍は8日間にわたって大砲1500門以上でドイツ軍の陣地を砲撃した後︵合計で砲弾約150万発が発射された︶、1916年7月1日にソンム川沿岸でドイツ軍の陣地を攻撃した。大規模な砲撃の直後にもかかわらず、ドイツ軍の塹壕は無事に残っており、ドイツ兵士は機関銃の砲火でイギリス軍に対抗した。ソンム会戦の初日︵英語版︶だけでイギリス軍は19,240人の死者を出し、うち8千人は攻撃が開始した直後の30分内に死亡した。夥しい損害にもかかわらず、ヘイグは攻勢の継続を命じた。9月15日にはイギリス軍が軍事史上初めて戦車の実戦投入を行った︵マークI戦車︶。11月25日まで続いた戦闘において、連合国軍は長さ30km攻撃線において8から10km前進したが、英仏軍の損害は少なくとも624,000人で、ドイツ軍も42万人の損害を出した。ドイツ軍の損害は文献によって違い、ドイツ側では335,688人としたが、イギリス側では軽傷者の数が多いとして最大で65万人とした[149]。いずれにしても、ソンムの戦いは第一次世界大戦で損害の最も大きい戦闘であった。ソンムの戦いが開始した7月1日はイギリスで記念されており、イギリスの歴史家ジョン・キーガン︵英語版︶は1998年に﹁イギリスにとって、ソンムの戦いは20世紀最大の軍事悲劇であり、その歴史全体においてもそうである。︵中略︶ソンムの戦いは命をなげうって戦うことを楽観的に見る時代の終結を意味した。そして、イギリスはその時代には二度と戻らなかった。﹂と述べた[150]。1916年末にソンムの戦いでの損害が公表されたことで、12月にイギリス首相がハーバート・ヘンリー・アスキスからデイヴィッド・ロイド・ジョージに交代された。
5月から6月、南チロル地域のオーストリア=ハンガリー軍はイタリア軍の陣地に対し攻勢に出たが、成果が限定的だった上に東部戦線でロシアがブルシーロフ攻勢を開始したため、すぐに攻撃を中止した。イタリア軍も3月から11月にかけてイゾンツォ川沿岸で大規模な攻勢をしばしば行い︵第五次、第六次、第七次、第八次、第九次イゾンツォの戦い︶、ゴリツィア市やドベルド・デル・ラーゴを占領したが、それ以上の成果に欠いた。オーストリア=ハンガリーの要請を受け、ドイツは1915年5月から11月にかけてアルペン軍団︵英語版︶ (Alpenkorps) を南チロル戦線の支援に投入した。その後、イタリアは1916年8月28日にドイツに宣戦布告した[151]。南アルプスの山岳戦の最中の12月13日、イタリアとオーストリア=ハンガリー軍数千人が雪崩により死亡する事故が起きた︵白い金曜日︵英語版︶︶。
1916年8月27日、ルーマニア王国がオーストリア=ハンガリーに宣戦布告した︵実際には数日前にルーマニア戦線を開いた︶。ルーマニアは1883年に三国同盟に加入したが、開戦時点では条約の逐語解釈に基づき中立に留まった。国内でも首相イオン・ブラティアヌ︵英語版︶率いる自由派は連合国への接近を主張、保守派の大半は中立に留まろうとした。中央同盟国側で参戦することを主張した政治家の1人は国王カロル1世だった。ロシアは1914年10月1日にルーマニアによるトランシルヴァニアへの請求を認めることで合意していた。ルーマニアが第二次バルカン戦争後のブカレスト条約でブルガリアとオスマン帝国から南ドブロジャを獲得しており、またブルガリアが中央同盟国側で参戦したこともルーマニアが連合国側で参戦する一因となった。ルーマニアがオーストリア領トランシルヴァニアの領土、バナト、ブコビナを獲得する﹁大ルーマニア協定﹂という連合国との対オーストリア=ハンガリー軍事同盟が締結された。連合国はこの協定を完全に履行するつもりはなかったが、ルーマニアは連合国による8月17日のブルシーロフ攻勢の成功もあって正式に連合国に加入した。数的には大きな優勢を有りつつも装備の劣るルーマニア軍はトランシルヴァニアからハンガリーに深く侵入したが、ファルケンハイン率いるドイツ第9軍︵英語版︶は9月26日から29日にかけてのシビウの戦い︵ドイツ語版︶でルーマニア軍を撃破した。ほかにもクロンシュタットにおいて第一次世界大戦では珍しい大規模な市街戦が10月8日まで行われ、オーストリア=ハンガリーがクロンシュタットを占領した。中央同盟国は挟み撃ちでルーマニアに攻撃した。11月23日、ブルガリア、オスマン、ドイツのドナウ軍︵英語版︶が南西からドナウ川を渡河した。そして、ツェッペリン飛行船のLZ81、LZ97、LZ101と攻撃機も加わり、首都ブカレストが12月6日に陥落した︵ブカレストの戦い︶。ルーマニアの参戦に乗じて、中央同盟国は1916年中にプロイェシュティの油田やルーマニアの穀倉地帯を占領することができ、同年に始まったドイツにおける供給の不足を補った。ルーマニアはロシアの助力を借りて北東部を辛うじて保持するだけであり、国王フェルディナンド1世は政府とともにヤシに脱出した[152]。
ファルケンハインの更迭とヒンデンブルクの任命
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1916年夏に連合国軍が全戦線で攻勢に出てドイツ軍が危機に陥ると、ヴィルヘルム2世にエーリッヒ・フォン・ファルケンハインを解任させる圧力が日に日に高まっていった。ルーマニアが8月27日に参戦したことが解任のきっかけになり、29日に新しく就任したパウル・フォン・ヒンデンブルクはエーリヒ・ルーデンドルフとともにヴェルダン攻勢を中止。即座に経済動員を強化して総力戦を準備した。その経済動員の強化とは8月31日にプロイセン戦争省が提出した要求で後にヒンデンブルク綱領︵英語版︶と呼ばれたものであった。しかし、ヒンデンブルクとルーデンドルフの任命は実質的には軍事独裁への転向でもあった。﹁その威光により実質的には解任できないヒンデンブルクとルーデンドルフを任命したことによって、皇帝はさらに目立たなくなっただけでなく、政治的にも最高司令部に動かされるようになった。︵中略︶解任できない2人の将軍には︵中略︶軍事上の権力をはるかに超えて政治に介入、人事任免という帝国の権力中心にも皇帝に圧力をかけることで決定的な影響を及ぼす用意があった﹂[153]。
フランス軍は秋にヴェルダンで反撃に転じた。10月24日、フランス軍はドゥオモン要塞とティオモン要塞を占領した。その後、フランス軍が更に攻勢に出たため、ドイツ軍は12月2日にヴォー要塞から撤退した後にそれを爆破した。結局、ドイツ軍が春に占領した陣地は12月16日までに全てフランス軍に奪回された[154]。
ヴェルダンの戦いにおいて、ドイツ軍は337,000人の損害︵うち死者143,000人︶を出し、フランス軍は377,000人の損害︵うち死者162,000人︶を出した。少なくとも3,600万発の砲弾が約30km x 10kmの戦場で投下された[155]。
フランス軍最高司令官ジョゼフ・ジョフルはドイツ軍がヴェルダンに攻撃した目的の判断を誤り、さらに第二次シャンパーニュ会戦︵英語版︶やソンムの戦いで大損害を出したにもかかわらず全く前進できなかったことで批判を浴び、12月3日にロベール・ニヴェル将軍に最高司令官の座を譲った。ニヴェルはヴェルダンでの反攻を率いて勝利しており、翌年の連合国軍春季攻勢を率いる指揮官として抜擢されたのであった。当時、フィリップ・ペタンもヴェルダンでの守備に成功して﹁ヴェルダンの英雄﹂と呼ばれたが、守備を主導したこともあって受け身すぎると考えられたのだった[156]。
1916年1月よりヴィルヘルム2世を説得していたドイツ最高司令部は1917年1月8日から9日にヴィルヘルム2世の許可を得て、2月1日に無制限潜水艦作戦を再開することを決定した。決定の背景には1916年12月の平和案とその拒否があった。1916年12月18日にアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが連合国に対し秘密裏に仲介を打診していたが︵仲介は後に断られた︶、それが1月12日に明るみに出るとドイツ国内が無制限潜水艦作戦に対する協力ムードになった。ウィルソンは仲介の打診にあたって、連合国に戦争目標の開示を求めた[159]。ベルリーナー・ターゲブラット︵英語版︶の編集長テオドール・ヴォルフ︵英語版︶は1月12日と13日に下記のように記述した‥﹁連合国のウィルソンに対する返答文が公表された。それは連合国の戦争目標を告知していた。ドイツがそれまで征服した領土のドイツからの分離、民族自決に基づくオーストリア=ハンガリーの完全解体、トルコ︵オスマン帝国︶をヨーロッパから追い出すなど。影響は巨大であった。汎ゲルマン連盟︵英語版︶などの連中が大喜びした。連合国が絶滅戦争︵ドイツ語版︶を欲しくなく、交渉に前向きとは誰も言えなくなった。︵中略︶連合国の返答により、皇帝は人民に訴えた。誰もが無制限潜水艦作戦を準備した。﹂[160]。中央同盟国はウィルソンが提案した国民投票を拒否。2月3日にはドイツの無制限潜水艦作戦再開によりアメリカがドイツと断交した[161]。
ウィルソンはアメリカ合衆国議会で﹁平和を愛する﹂民主主義者の世界中の﹁軍事侵略的な﹂独裁主義者に対する十字軍に参加するよう呼びかけた。その4日後の1917年4月6日、アメリカがドイツに宣戦布告した。両院とも圧倒的多数で参戦を決議した[162]。参戦の裏には様々な理由があった。アメリカとドイツの戦後に対する構想はお互い相容れないものであり、ドイツが大陸ヨーロッパの覇権を握ろうとしたことと全世界においても野心を前面に出したことでアメリカの利益に適うことができなくなった。戦争以前でもアルフレート・フォン・ティルピッツのティルピッツ計画︵英語版︶が長期的にはモンロー主義におけるアメリカの利益に反すると信じられており、また20世紀初頭のアメリカの政治家や学者はドイツの文化が優越しているとの主張やドイツ人の国という思想に不信感を持っていた。開戦以降、アメリカと連合国の経済関係が緊密になり、ブライス委員会︵英語版︶などでドイツの陰謀が報告され、さらにルシタニア号が撃沈されると反独感情が高まった。しかし、第一次世界大戦の開戦後にアメリカが軍備拡張を行ったのは参戦のためではなく、終戦後に起こりそうな対独戦争に備えるためだった。1916年アメリカ合衆国大統領選挙︵11月7日︶の選挙運動においても、ウィルソンはアメリカの中立を強調したが、彼が当選した後もドイツの態度が強硬のままだったことは参戦を煽動するのに有利だった。そして、決定的となったのはウィルソンの講和仲介に対するドイツの返答だった。極秘で行われたドイツの講和条件についての返答は実質的には仲介を拒否する返事であり、ドイツの無制限潜水艦作戦再開宣言とほぼ同時になされた。これを聞いたウィルソンははじめはそれを信じられず、その後は深く失望した。ロバート・ランシングやエドワード・M・ハウスなどウィルソンの顧問は参戦を推進したが、ウィルソンは2月3日にドイツと断交しただけに留まり、ドイツの脅しが現実になるかを見極めようとした。3月1日、﹃ニューヨーク・タイムズ﹄がツィンメルマン電報を公表した。電報の内容はドイツがメキシコに資金援助を与えて、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナの領土を約束する代償としてメキシコがドイツと同盟を結ぶ、という提案だった。電報が公表されると、アメリカが戦争に参戦することに疑義を挟む人はいなくなり、また3月にはドイツの潜水艦攻撃で再びアメリカ人が死亡した。アメリカはドイツに宣戦布告した後、12月にはオーストリア=ハンガリーにも宣戦布告した[163]。
このようにドイツ海軍による無制限潜水艦作戦を再開すると、イギリスをはじめとする連合国から日本に対して、護衛作戦に参加するよう再三の要請が行われた。
1917年1月から3月にかけて日本とイギリス、フランス、ロシア政府は、日本がヨーロッパ戦線に参戦することを条件に、山東半島および赤道以北のドイツ領南洋諸島におけるドイツ権益を日本が引き継ぐことを承認する秘密条約を結んだ。
これを受けて大日本帝国海軍は、インド洋に第一特務艦隊を派遣し、イギリスやフランスのアジアやオセアニアにおける植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の護衛を受け持った。1917年2月に、巡洋艦﹁明石﹂および樺型駆逐艦計8隻からなる第二特務艦隊をインド洋経由で地中海に派遣した。さらに桃型駆逐艦などを増派し、地中海に派遣された日本海軍艦隊は合計18隻となった。
第二特務艦隊は、派遣した艦艇数こそ他の連合国諸国に比べて少なかったものの、他の国に比べて高い稼働率を見せて、1917年後半から開始したアレクサンドリアからマルセイユへ艦船により兵員を輸送する﹁大輸送作戦﹂の護衛任務を成功させ、連合国軍の兵員70万人を輸送するとともに、ドイツ海軍のUボートの攻撃を受けた連合国の艦船から7000人以上を救出[164]した。
その結果、連合国側の西部戦線での劣勢を覆すことに大きく貢献し、連合国側の輸送船が大きな被害を受けていたインド洋と地中海で連合国側商船787隻、計350回の護衛と救助活動を行い、司令官以下27人はイギリス国王ジョージ5世から勲章を受けた。連合国諸国から高い評価を受けた。一方、合計35回のUボートとの戦闘が発生し、多くの犠牲者も出した[164]。
また、日本は欧州の戦場から遠く造船能力に余裕があり、造船能力も高かったことから、1917年にはフランスが発注した樺型駆逐艦12隻を急速建造して、日本側要員によってポートサイドまで回航された上でフランス海軍に輸出している︵アラブ級駆逐艦︶。
ドイツでは1916年から1917年にかけての冬、天候による不作などが原因となってカブラの冬が起きた。最高価格の定められた状況ではポテトや穀物をそのまま売るより、飼料として使ったり、蒸留所に売ったりした方が利益が出たため、状況はさらに悪化した。2月、毎日の食料配給が1,000kcal分まで下がり︵成人が必要な生理的熱量は平均で毎日2,410kcal︶、食料不足がさらに厳しくなった。カブラの冬により、ドイツの社会が団結していない状況︵生産者と消費者の対立︶、そして国が食料を提供する能力の不足が浮き彫りになった[165][166]。
3月、ドイツ軍は西部戦線でアルベリッヒ作戦を発動して、16日から19日にかけてソンム川からヒンデンブルク線︵英語版︶に撤退した。1916年のヴェルダンとソンム会戦でドイツ軍が疲弊したことが撤退の理由だった。撤退はループレヒト・フォン・バイエルン王太子軍集団︵英語版︶が発案、ルーデンドルフの反対を押し切って実施した。ヒンデンブルク線の建築は第一次世界大戦最大の建築工事であり、主に捕虜と強制労働に駆り出された労働者によって行われた。ドイツ軍は焦土作戦を行って撤退直前に陣地を系統的に破壊して、住民を追放。一部地域では地雷やブービートラップも設置した。バポーム︵英語版︶などの地域が完全に破壊され、サン=カンタンの住民4万人など合計15万人が追放された。作戦自体はドイツ軍の前線を縮めて、守備の整ったヒンデンブルク線に撤退したことで一定の成功を収め、連合国軍が1917年春に計画した攻撃は無駄に終わった。しかし、作戦の﹁影響を受けた地域の民衆の生活を完全に破壊、歴史的な風景を荒れ地に変えた﹂ことで、国外の世論がドイツに不利になった[175]。
フランス軍大本営があるシャンティイで行われた連合国の第二次会議︵1916年11月︶では再び合同攻勢が決定された。ソンム会戦で敗れた連合国軍は1915年の戦術に立ち返り、リールとヴェルダンの間にあるドイツの突起部を両側から攻撃して他のドイツ部隊からの切断を図る、という戦術を再び採用した。攻勢の最高指揮官ロベール・ニヴェルはフランス北部のアラスを攻撃の始点に選び、イギリス軍︵カナダとニュージーランド部隊含む︶が4月9日に攻撃を開始した︵アラスの戦い︵英語版︶︶。直後にはフランス軍もエーヌ川とシャンパーニュで攻勢に出て︵第二次エーヌ会戦︵英語版︶と第三次シャンパーニュ会戦︵英語版︶︶、シェマン・ド・ダーム︵英語版︶の占領を狙った。ルートヴィヒ・フォン・ファルケンハウゼン︵英語版︶将軍︵後に罷免された︶の部隊はアラスでの攻撃で奇襲を受け、兵士2万4千が出撃しなかったままとなったため、ドイツ軍は兵士への再教育を行った[176][177]。連合国軍の攻勢に使われた物資は前年のソンム会戦よりも多かった。カナダ師団はヴィミ・リッジの戦い︵英語版︶に勝利して戦略要地であるヴィミ・リッジを占領したが、その後は進軍できず、戦線が膠着した。フランス軍はヴィミ・リッジから130km南のところで攻撃を仕掛け、前線を押し出したがシェマン・ド・ダームの占領には失敗した。結局、連合国軍は大損害を出して5月には攻勢を中止した。フリッツ・フォン・ロスベルク︵英語版︶が縦深防御戦術を編み出した後、ドイツ軍の防御の配置がより深く複雑になった。英仏軍の戦車︵合計170台︶は技術上の問題があり、しかも数が足りなかったため戦局に大きな影響を及ぼさなかった。また両軍とも毒ガスを使用した[178]。
シェマン・ド・ダームへの攻勢が失敗した結果、フランス軍の68個師団で反乱がおきた︵フランス軍200万のうち約4万が反乱︶。イギリスがアラスの戦いで勝利したことで期待が高くなったことも一因であった。反乱に最も影響された5個師団はソワソンとランスの間、シェマン・ド・ダームへの攻勢が行われた地域の南に配置されており、同地に配置されたロシア海外派遣軍︵英語版︶も同じような問題に遭った。反乱は前線では起きず、後方で休息をとっていて前線に戻る予定の兵士の間でおきた。兵士の要求は休暇を増やすこと、栄養状態を改善すること、兵士の家族の待遇を改善すること、﹁殺戮﹂の中止︵戦略への反対を意味する︶、そして﹁不正義﹂︵戦争における正義︵ドイツ語版︶に関して︶の中止、﹁平和﹂だった。﹁反乱した兵士の大半は戦争自体に異議を唱えたのではなく、無用の犠牲になることに反対しただけだった﹂[179]。4月29日、ニヴェルは更迭され、ヴェルダンの守備を指揮したフィリップ・ペタン将軍が後任になった。攻勢から守備に切り替えることで、ペタンはフランス軍の不安を和らげた。ペタンはドイツ軍の縦深防御と似たような戦術を編み出した。8月のヴェルダンの戦い︵フランス語版︶と10月のラ・マルメゾンの戦い︵英語版︶で限定的ながら成功を収めた︵ドイツ軍がエレット川︵英語版︶の後ろまで押された︶ほか、フランス軍は1917年6月から1918年7月までの間、攻勢に出なかった。ペタンは更に兵士の給食と休暇を改善した。反乱兵士の約1割が起訴され、うち3,427人が有罪判決を受けた。軍法会議により554人が死刑判決を受け、うち49人の死刑が執行された。兵士の反乱が頂点となった5月から6月にかけて、連合国軍に大きな動きがなかったが、ドイツ軍はその連合国軍が不活発な理由が分からなかったことと、他の前線に手間取っていることから、大きな動きに出なかった[180]。
イーペルの塹壕でイギリス軍兵士が発行していた定期刊行物﹃ワイパーズ・タイムズ﹄。
5月21日から6月7日までのメッシーヌの戦い︵英語版︶において、イギリス軍はイーペルの南にある戦略的に重要な尾根を占領した。イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドは1年半をかけてドイツ軍の陣地の下に巨大な地雷21個を敷設して爆破。戦争史における核爆発以外の大爆発で﹁最も効果を上げた﹂結果となった︵死者10,000人︶。尾根を占領したことで連合国軍は右翼が安定し、イギリス軍が主導する第三次イーペル会戦︵7月31日 - 11月6日︶での攻勢に出ることができた。攻勢の目標はドイツの潜水艦基地オーステンデとゼーブルッヘ︵英語版︶だった。しかし、いくらかの成功を収めた後、攻勢は10月9日にランゲマルク=プールカペレ︵英語版︶で膠着に陥り、戦力要地であるヘルフェルト高原 (Geluveld) への攻撃も失敗した。第二次パッシェンデールの戦い︵英語版︶でカナダ部隊が11月6日に廃墟と化していたパッシェンデールを占領した後、戦闘は自然と停止した。パッシェンデールでドイツ軍を押し返した連合国軍は前線を最大で8km前進したが、両軍の損害は合計で約585,000人だった[181]。
11月20日から12月6日までのカンブレーの戦いで初めての大規模な機甲戦が行われた[182]。短期間の予備砲撃の後、王立戦車連隊︵英語版︶の戦車約320両は飛行機400機、6個歩兵師団、3個騎兵師団の援護を受けて、ヒンデンブルク線︵英語版︶上のアヴランクール︵英語版︶地域で15kmにわたる前線を突破、7km前進した。それまでは塹壕戦によりまず長期間の砲撃が行われることが予想されたため、連合国軍の攻勢は奇襲となったが、鉄道の中心地であったカンブレーまでの突破は失敗。戦車の3分の1が破壊された。さらに、ドイツ軍は11月30日に反攻に転じて、占領された地域の大半を奪還した。防衛の成功によりドイツ軍の首脳部は機甲部隊の重要性を誤認し、その整備を後回してしまうというミスを犯した[183]。
イギリス海軍の要請により巡洋戦艦﹁伊吹﹂がANZAC軍団の欧州派遣を護衛することになった。伊吹はフリーマントルを経てウェリントンに寄港しニュージーランドの兵員輸送船10隻を連れ出発し、オーストラリアでさらに28隻が加わり、英巡洋艦﹁ミノトーア﹂、オーストラリア巡洋艦﹁シドニー﹂、﹁メルボルン﹂と共にアデンに向かった。航海途上で﹁エムデン﹂によるココス島砲撃が伝えられた。付近を航行していた艦隊から﹁シドニー﹂が分離され﹁エムデン﹂を撃沈した。
この際、護衛艦隊中で最大の艦であった﹁伊吹﹂も﹁エムデン﹂追跡を求めたが、結局は武勲を﹁シドニー﹂に譲った。このエピソードは﹁伊吹の武士道的行為﹂として賞賛されたとする記録がある一方で、伊吹艦長の加藤寛治は、エムデン発見の一報が伊吹にのみ伝えられず、シドニーによって抜け駆けされたと抗議している。
以後の太平洋とインド洋における輸送船護衛はほぼ日本海軍が引き受けていた。ところが1917年11月30日に、オーストラリア西岸フリーマントルに入港する﹁矢矧﹂に対して、陸上砲台から沿岸砲一発が発射され、矢矧の煙突をかすめて右舷300mの海上に落下する事件が発生した。このような非礼を超えたオーストラリア軍の態度に大日本帝国海軍は激怒し、オーストラリア軍部隊の責任者は、﹁矢矧に乗り込んだ水先案内人が適切な信号を発しなかったため﹃注意喚起のため﹄実弾を発射した﹂と弁明したが、結果的に事件はオーストラリア総督とオーストラリア海軍司令官の謝罪により一応は決着した。
オーストラリアの日本人への人種差別を基にした、人命にさえ係わる差別的姿勢は戦争を通じて和らぐことがなく、また日英通商航海条約への加入拒否、赤道以北の南洋諸島の日本領有への反対など、一切妥協しないANZACの人種差別的態度は、アジア太平洋地域のみならず、第一次世界大戦全体を通じて日本の協力を必須なものと認識しているイギリス本国をも手こずらせた。
4月7日、ヴィルヘルム2世はイースター勅語︵ドイツ語版︶で、戦後に民主化改革を行うと曖昧な約束をした。11日、ロシア二月革命とドイツの四月ストライキ︵ドイツ語版︶によりドイツ社会民主党が城内平和政策を引き締めたため、ゴータでドイツ独立社会民主党が社会民主党から分裂した。1週間後の4月19日、社会民主党︵ドイツ多数派社会民主党︵英語版︶と呼ばれるようになった︶は平等な公民権利、議院内閣制への移行を要求。ペトログラード・ソビエトが3月末に宣言した﹁無併合、無賠償、民族自決﹂の要求を支持した。宰相ベートマン・ホルヴェークはそれまで戦争目的の見直しと政治改革に無関心な態度をとったが、多数派社会民主党の要求により最高司令部は彼が﹁社会民主党を支配下に置くことができなくなった﹂と考えた。ヒンデンブルクとルーデンドルフはヴィルヘルム2世にベートマン・ホルヴェークの解任を要求したが、ヴィルヘルム2世は拒否した。4月23日、ベートマン・ホルヴェークはクロイツナハ会議︵ドイツ語版︶で軍部に押されて議事録に署名した。ゲオルク・アレクサンダー・フォン・ミュラー︵英語版︶によると、その議事録は併合について﹁まったく貪欲な﹂文書であったという[189]
1917年初頭からオーストリアでも、カール1世がフランスとの単独講和交渉を極秘裏に行っていたが、これは失敗に終わっている(シクストゥス事件)。1917年春にもロシアとの講和交渉が試みられたが、ロシアがドイツの要求を受け入れられないとして、それをはねつけた[191]。
7月6日、中央党のマティアス・エルツベルガーが国会で演説を行った[192]。エルツベルガーは保守派の政治家であり、﹁勝利の平和﹂を支持したが、軍部が潜水艦作戦の有効性を偽ったとして、領土併合を諦める平和交渉を主張した。同日、多数派社会民主党、中央党、自由派の進歩人民党が多党派委員会︵ドイツ語版︶で主要会派の調整を行うことに同意した。これはドイツの議会化の第一歩とされ、保守派からは﹁革命の始まり﹂とされた[193]。エルツベルガーの演説の後、ヒンデンブルクとルーデンドルフはヴィルヘルム2世に宰相の更迭を迫ったが、再び拒否された。ベートマン・ホルヴェークは7月10日にヴィルヘルム2世に謁見、戦後にプロイセンで普通選挙を行う保証を受けた︵プロイセンではそれまで選挙が3等級︵英語版︶に分けられて行われた︶。この保証は12日に公表されたが、同日の夜にはヒンデンブルクとルーデンドルフが再びヴィルヘルム2世に迫り、宰相を解任しなければ2人が辞任すると脅した。ヴィルヘルム2世は要求を受け入れ、ベートマン・ホルヴェークは翌朝にそれを知ると自ら辞表を提出した。後任の宰相は無名なゲオルク・ミヒャエリスだった[194]。
7月19日、ライヒスターク平和議案︵英語版︶が議会を通過したが、外交には大きな影響はなかった。しかし、内政では9月2日に併合主義、民族主義のドイツ祖国党が結成されるなどの影響があった[195]。8月1日、ローマ教皇ベネディクトゥス15世はド・ル・デビュー︵ドイツ語版︶という使徒的勧告︵英語版︶を出して、無併合無賠償の講和、公海の自由通航、国際法に基づく紛争解決を訴えた。この時は効果がなかったが、この勧告、カトリック教会の人道主義活動︵負傷捕虜交換の提案、行方不明者の捜索事業など︶、そして戦争を﹁無用な流血﹂だとして繰り返し批判したことは教皇の現代外交政策の始まりとなった[196]。
ゲオルク・ミヒャエリスが軍部の言いなりなのは明らかだったため、議会の多数派は10月末より彼の追い落としに成功した。後任は11月1日に就任したゲオルク・フォン・ヘルトリングだった[197]。
12月3日、ロシアと中央同盟国の単独講和交渉が開始。6日にはフィンランドがロシアからの独立を宣言した[198]。
戦争の結果、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン、ロシアの4帝国が崩壊し、ホーエンツォレルン家、ハプスブルク家、オスマン家 、ロマノフ家がそれぞれ君主の座を追われた。4つの帝国が滅亡解体された結果、9つの国が建国された。1914年の開戦時にはフランス、ポルトガル、スイス、サンマリノの4か国しかなかったヨーロッパの共和制国家が、ドイツ、オーストリア、チェコスロバキア、フィンランド、ポーランド、リトアニア、ラトビア、エストニア、アルバニアと増加した︵加えてオスマン帝国が廃されトルコ共和国が建国された︶。またロシアは1917年のロシア革命によって帝政が打倒され、1922年に史上初の社会主義国家、ソビエト社会主義共和国連邦が建国されることになる。戦場となったベルギーとフランスは多大な損害を受けたほか、フランスでは死者だけで140万人もいた[233]。ドイツとロシアも同程度の損害を受けた[234]。
戦争状態は正式には休戦協定が締結された後も7か月続き、ドイツが1919年6月28日にヴェルサイユ条約に署名するまで続いた。大衆が支持したにもかかわらず、アメリカ合衆国上院は条約を批准せず[235][236]、1921年7月2日にウォレン・ハーディング大統領がノックス=ポーター決議︵英語版︶に署名したことで、アメリカはようやく戦争から手を引いた[237]。イギリスとその植民地については1918年の戦争終結定義法︵英語版︶の条項に基づき、1920年1月10日にドイツとの戦争状態を[238]、7月16日にオーストリアとの戦争状態を[239]、8月9日にブルガリアとの戦争状態を[240]、1921年7月26日にハンガリーとの戦争状態を[241]、1924年8月6日にトルコとの戦争状態を[242]終結させた。
ヴェルサイユ条約が締結された後、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国との講和条約が締結された。しかし、オスマン帝国との講和交渉をめぐって紛争が起き、1923年7月24日のローザンヌ条約でようやく終結を見た。
戦争祈念施設の一部は、終戦の日をヴェルサイユ条約が締結された日と定めた。この日は外国に派遣された多くの兵士がようやく本国に復員した日であったが、多くの戦争記念施設は終戦の日を休戦協定が締結された1918年11月11日とした。法的な戦争状態は最後の講和条約であるローザンヌ条約が締結されるまで続いた。同条約に基づき、連合国軍は1923年8月23日にコンスタンティノープルから撤退した。
戦争は兵士の健康に大きく影響した。1914年から1918年まで動員されたヨーロッパ諸国の将兵6千万人のうち、800万人が戦死、700万人が永久的な身体障害者になり、1,500万人が重傷を負った。ドイツは男性労働人口の15.1%を、オーストリア=ハンガリーは17.1%、フランスは10.5%を失った。ドイツでは、一般市民の死亡者が平時よりも474,000人多かったが、主に食料の不足と栄養失調による餓死や病死が原因である[274]。レバノンでは終戦までに飢饉により約10万人が死亡した。
1921年ロシア飢饉により500万から1,000万人が死亡した[276]。ロシアでは第一次世界大戦、ロシア内戦、そして飢饉により、1922年までに450万から700万人の子供が孤児になった。反ソ連のロシア人︵白系ロシア人︶の多くがロシアから逃亡、1930年代の満洲国ハルビン市では10万人のロシア人が住んでいたという[278]。ほかにも数千人単位でフランス、イギリス、日本、アメリカに逃亡している。
戦乱によって、さまざまな疫病も流行した。寄生虫による発疹チフスで、1914年のセルビアだけでも20万人の死者︵うち兵士は7万人︶が出た。1918年から1922年まで、ロシアでは2,500万人が発疹チフスに感染、300万人が死亡した。1923年にはロシアで1,300万人がマラリアに感染、戦前よりはるかに大きい感染者数となった[281]。さらに、1918年にはスペインかぜ︵インフルエンザ︶が大流行、ヨーロッパでは少なくとも2,000万人が死亡した[283]。﹁スペインかぜ﹂の俗称は各国が戦時下で情報統制していた中で中立国のスペインから早期に感染情報がもたらされた事に由来する[284]。これにより徴兵対象となる成人男性の死者が急増し、補充兵力がなくなりかけたことが、同年の休戦の一因ともいわれている[285]。
ハイム・ヴァイツマンによるロビー活動もあって、ユダヤ系アメリカ人がアメリカにドイツ支援を促すことにイギリスが恐れた結果、イギリス政府は1917年にバルフォア宣言を発してパレスチナにおけるユダヤ人国家︵英語版︶の建国を支持した[286]。第一次世界大戦に参戦したユダヤ人兵士は合計1,172,000人以上であり、うち275,000人がオーストリア=ハンガリー軍、450,000人がロシア帝国軍に従軍した[287]。
第一次世界大戦は空前の戦死傷率を記録して、社会に大きな傷跡を残した。第一次世界大戦が残した傷跡はしばしば議論される。ベル・エポックの楽天主義は崩れ去り、戦争に参加した世代は﹁失われた世代﹂と呼ばれた。戦後長年にわたり、21世紀に至っても人々は死者、行方不明者を哀悼し続け、障害を負った者を悲しみ続けた。
多くの兵士はシェルショック(現在の戦闘ストレス反応)︵神経衰弱とも。心的外傷後ストレス障害の関連疾患︶などの精神的外傷を負った。大半の兵士はそのような障害もなく故郷に戻ることができたが、戦争について語ろうともせず、結果的には﹁兵士の大半が精神的外傷を負った﹂という伝説が広まることになった。
実際には多くの兵士は戦闘に参加せず、または軍務をポジティブにとらえたが、苦しみとトラウマというイメージは根強く残った。歴史家のダン・トッドマン (Dan Todman)、ポール・フュッセル︵英語版︶、サミュエル・ヘインズ (Samuel Heyns) は1990年代以降、著作を出版してこのような見方が誤りであると指摘した。
第一次世界大戦後のナチズムとファシズムの広まりには、民族主義の復活と戦後の変革︵民主化︶に対する拒絶が含まれている。同じように、背後の一突き伝説が支持を得た背景には、敗戦国たるドイツの心理状態、および戦争責任の拒絶があった。この陰謀論は広く受け入れられ、ドイツ国民は自身を被害者とみなした。また、同じ理由により、ヴァイマル共和政はその正統性が揺らいで政局は常に不安定化し、左右両翼の勃興を許した。
ヨーロッパの共産主義とファシズム運動はこの陰謀論を利用して人気を得、特に戦争の影響を深く受けた地域で顕著だった。ナチス党首アドルフ・ヒトラーは、ヴェルサイユ条約に対するドイツの不満を利用して人気を博した[291]。そのため、第二次世界大戦は第一次世界大戦で解決されなかった権力闘争の継続という一面がある。さらに、1930年代のドイツは、第一次世界大戦の戦勝国に不公平に扱われたことを理由として、侵略を正当化した[292][293]。
アメリカの歴史家ウィリアム・ルービンスタイン︵英語版︶は、﹁﹃全体主義の時代﹄は現代史上の悪名高いジェノサイドを全て含み、ユダヤ人に対するホロコーストがその筆頭であったが、共産主義諸国による大量殺人と追放、ドイツのナチ党とその同盟者によるほかの大量殺戮、そして1915年のアルメニア人虐殺も含む。ここで主張するのは、これらの殺戮の起因は全て同じであり、その起因とは第一次世界大戦によりエリート層の構造と中央、東、南ヨーロッパの政府の常態が崩壊したことであった。それがなければ、共産主義もファシズムも無名の扇動者や変わり者の頭の中にしか存在しないものとなっていたであろう。﹂と述べた[294]。
第一次世界大戦の最も劇的な影響の一つは、イギリス、フランス、アメリカ、そしてイギリス帝国の自治領政府がその権力と義務を拡大させたことだった。戦争努力︵英語版︶を支援する新しい税が徴収され、法律が制定された。その一部は現代まで続いた。また、オーストリア=ハンガリーやドイツなどの大きく官僚的な政府はその能力を限界まで駆使した。
国内総生産は連合国のうち4か国︵イギリス、イタリア、日本、アメリカ︶では上昇したが、フランスとロシアでは下がり、ほかには中立国のオランダと主要な中央同盟国3か国︵ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国︶でも下がった。中でも、オーストリア=ハンガリー、ロシア、フランス、オスマン帝国では30から40パーセントの下がり幅だった。例えば、オーストリアでは豚の大半が屠殺されたため、終戦のときには食肉がほとんどなかった。
国内総生産のうち、政府が占める比率は全ての国で上昇、ドイツとフランスでは50%を越え、イギリスでも50%に近い比率だった。アメリカからの物資購入代金を工面すべく、イギリスはそれまでのアメリカ鉄道に対する投資を現金化︵売却︶、続いてウォール街で大量に借り入れた。1916年末には米大統領ウィルソンが融資の打ち切りを決定する瀬戸際まできていたが、結局アメリカ政府から連合国への融資を大幅に増やした。1919年以降、アメリカが融資の償還を要求すると、連合国はドイツからの賠償金で資金の一部を賄ったが、ドイツからの賠償金はアメリカからドイツへの融資だった。このシステムは1931年に崩壊、融資の一部は償還されなかった。1934年時点のイギリスは、第一次世界大戦に関するアメリカからの債務を44億ドルも残しており、全ての償還が終わったのは2015年だった[295]。
第一次世界大戦はマクロ経済にもミクロ経済にも影響を与えた。家族レベルでは男性の多くが従軍・戦死したため稼ぎ手を失い、多数の女性が働くことを余儀なくされた。工場でも多くの労働者が従軍で失われ、サフラジェット運動︵女性参政権︶に弾みがついた[296]。
工場で弾薬を作る労働者。総力戦の体制では女性や子供も戦争に動員された。
オーストラリア首相ビリー・ヒューズは、イギリス首相デビッド・ロイド・ジョージに手紙を書き、﹁あなたはこれ以上良い条約を勝ち取ることができないと私たちに保証した。しかし、私たちは今でも、イギリス帝国とその同盟者が払った多大な犠牲と釣り合う賠償を確保する何らかの方法が見つかると信じている。﹂と述べた。オーストラリアは5,571,720ポンドの戦時賠償を受け取ったが、戦争の直接支出だけでも376,993,052ポンドに上り、1930年代中期までに賠償年金、戦争の給与金、利子と減債積立金の合計が831,280,947ポンドと賠償金の100倍以上に上った。参戦したオーストラリア軍416,000人のうち、約6万人が戦死、152,000人が負傷した[298]。
第一次世界大戦は﹁余剰女性︵英語版︶﹂の問題を悪化させた。イギリスでは100万人近くの男性が戦死したことで余剰女性︵女性と男性の人数差︶が67万人から170万人に上昇した。そのため、仕事に就こうとした未婚女性の人数が大幅に上昇した。その上、兵士の復員と戦後の不況により失業率がうなぎ登りになった。戦争は確かに女性の社会進出を促進したが、兵士が復員したことと戦時工場が休業したことにより、却って多くの人が失業した。
イギリスでは1918年初頭にようやく配給制度が導入されたが、肉、砂糖、脂肪︵バターとマーガリン︶に限られ、パンは制限されなかった。また、労働組合の参加者数は1914年に400万を少し超えた程度だったのが、1918年には倍になり、800万人を超えるまでになった。
平時の輸入源から戦争物資を輸入することに困難が生じたため、イギリスは植民地に目を向けた。アルバート・アーネスト・キットソン︵英語版︶などの地質学者は、アフリカの植民地で貴金属の鉱層を見つけることを依頼された。キットソンは英領ゴールド・コーストで弾薬製造に必要なマンガンの鉱層を発見した。
ヴェルサイユ条約の第231条︵英語版︶︵いわゆる﹁戦争責任﹂条項︶において、ドイツは﹁連合国、その政府と国民が﹂ドイツとその同盟国の侵略に﹁強いられた戦争の結果としての損失﹂の責任を負わなければならなかった[300]。この条項は第一次世界大戦の賠償の法的根拠として定められ、オーストリアとハンガリーとの講和条約でも同様の条項があったが、3国いずれもそれを戦争責任を認める条項とはみなさなかった。1921年、賠償の総額が1,320億金マルクに定められたが、連合国の専門家にはそれがドイツにとって到底払える額ではないことは最初から分かっていた。賠償金は3部分に分けられ、うち第3の部分は﹁空中の楼閣﹂とするつもりのもので、主な目的は世論を誘導して﹁最終的には全額支払われる﹂と信じ込ませることだった。そのため実際には500億金マルク︵125億米ドル︶が﹁連合国が考えるドイツが実際に支払える金額﹂であり、実際に支払われるべき﹁ドイツの賠償金の総額﹂であった。
賠償金は現金でも現物︵石炭、木材、化学染料など︶でも支払えた。また、ヴェルサイユ条約により失われた領土の一部が賠償金の一部償還に充てられ、ルーヴェンの図書館の修復なども算入された。1929年、世界恐慌が起き、世界中の政治を混乱させた[304]。1932年には国際社会により賠償金の支払いが一時停止されたが、その時点ではドイツはまだ205.98億金マルクしか支払っていなかった。アドルフ・ヒトラーが権力を奪取すると、1920年代と1930年代初期に発行された債券は取り消された。しかし、デヴィッド・A・アンデルマン︵英語版︶は﹁支払い拒否は合意を無効にしない。債券や合意はまだ存在する﹂と述べた。そのため、第二次世界大戦後の1953年、ロンドン会議︵英語版︶において、ドイツは支払いの再開に同意した。ドイツが賠償金の支払いを完全に終えたのは、2010年10月3日であった[306][307][308][309]。
ハーバー・ボッシュ法を考案した一人であるフリッツ・ハーバーは、賠償金の足しにするため1920年から海水から金を回収する計画を始めたが、採算が合わないことが分かり1924年に中止した。
戦後のドイツでは深刻な住宅不足に直面しており、賃貸集合住宅の数を増やすため、1920年代に様々な公営住宅計画が立てられた。この住宅は労働者階級にも家賃が払えるようにコストを重視した結果、室内の広さやデザインを限定することにした。この際に台所の設計として採用された能率重視のフランクフルト・キッチンは、現代のシステムキッチンの先駆けとされている。
軍の資金援助で無線機器の改良が進んだため、戦後にはフランスやイギリス、日本やアメリカのみならず、敗戦国のドイツでもラジオが流行し、新たなメディアとして広まった[310]。
また、手で操作しなければならない懐中時計に代わり、当時は主に女性用アクセサリーとされていた腕時計が日用品の座を得た[310]。
第一次世界大戦下では、大戦を題材とした戦争文学が広く読まれ、これらの作品の多くは作家自身の従軍経験をもとに戦場を描いたものだった。従軍中に詩作したことで﹁戦場詩人﹂と呼ばれ、休戦直前に戦死したイギリスのウィルフレッド・オーウェンはその代表的な作家である。フランスの権威ある文学賞のゴンクール賞も、大戦中の受賞作は全て戦争文学作品となった。受賞作のなかでも、特にアンリ・バルビュス﹃砲火︵英語版︶﹄︵1916年︶は、20万部の売上を記録し、以後の﹁戦争小説のモデル﹂となったとされる。フランス文学研究者の久保昭博によれば、﹃砲火﹄は兵士の死体や過酷な塹壕生活を口語・俗語文体を用いて描くことで、迫真的な大戦描写に成功したのである。
ドイツでも、自然主義や表現主義の戦争文学に続いて、戦間期にはハンス・カロッサ﹃ルーマニア日記﹄︵1924年︶や、エーリヒ・マリア・レマルク﹃西部戦線異状なし﹄︵1929年︶に代表される新即物主義の戦争文学が登場した。これらの新即物主義の作品も、報告体を用いてより写実的に第一次世界大戦の戦場を描写したものだった。特に﹃西部戦線異状なし﹄は、刊行からほどなく25ヶ国語に翻訳され、計350万部の売上を記録した。
アメリカでは第一次世界大戦の影響の下、いわゆる﹁失われた世代﹂の作家たちが登場した。1926年、その代表的な作家であるアーネスト・ヘミングウェイと ウィリアム・フォークナーは、それぞれ初の長編作品を出版したが、両者の作品とも第一次世界大戦を背景としたものだった︵ヘミングウェイ﹃日はまた昇る﹄、フォークナー﹃兵士の報酬︵英語版︶﹄︶。
美術の分野でも、第一次世界大戦に多くの芸術家が従軍画家として参加し、プロパガンダのための戦争画を描いた。また、こうした伝統的な従軍画家だけでなく、装備のカモフラージュを行うためにキュビズムやヴォーティシズムの画家が動員された。さらに、徴兵されてあるいは志願して前線で兵士として戦う芸術家もいた。西洋近現代美術史研究者の河本真理によれば、戦場を体験した画家たちは、戦争の理念的側面を抽象的な様式で表現しようとする者と、戦場の人々の身体などを写実的な様式で表現しようとする者の二つの系統に分かれていった。大戦による西洋社会の動揺は、一方では、前衛的な芸術から古典的な芸術へという﹁秩序への回帰﹂につながる。しかし、その一方で、第一次世界大戦を近代合理主義の限界であるとみなし、これまでの芸術の在り方を否定する﹁反芸術﹂のダダイスムも登場することとなった。
また、第一次世界大戦では、これまでの戦争と異なり、ポスター、写真、映画といった新しい手段によっても戦争が描かれた。フランスをはじめとする参戦国政府は、写真部・映画部のような組織を設置し、プロパガンダの手段として写真・映画を活用しようとした。特に、1916年公開の無声記録映画﹃ソンムの戦い︵英語版︶﹄は、イギリスの戦争プロパガンダ局長チャールズ・マスターマン︵英語版︶の主導で作られ、当時の国内映画の最多観客動員数記録を更新するほどの人気を博したという。
第一次世界大戦による災厄の巨大さを目の当たりにしたことで、国際社会では厭戦感が広がることとなった。戦後の国際関係においては平和協調が図られ、1919年に米大統領ウィルソンの提唱により、人類史上初の国際平和機構である国際連盟が設立され、1925年にはロカルノ条約、1928年には主要国間で不戦条約︵ケロッグ=ブリアン協定︶が締結された。このほかにも主要列強間においてワシントン海軍軍縮条約︵1922年︶、ロンドン海軍軍縮条約︵1930年︶といった軍縮条約が締結された。
しかし、これら国際平和のための様々な努力も空しく、第一次世界大戦の原因と結果を巡る多くの戦後処理の失敗、戦後好景気の反動としての世界恐慌の発生とブロック経済化、社会主義の勢力拡大などで、それらに対抗する形でのイタリア王国のムッソリーニ率いるファシスト党、ドイツのヒトラー率いるナチスと、ファシズムが台頭していった。
戦勝国の日本でも、日本のシベリア出兵や中華民国での排日とそれに対する日本軍の出兵拡大。また日英同盟の破棄やアメリカでの日本人移民の差別などが行われた末のナショナリズム台頭といった混乱が起きた。さらに1931年には関東軍主導により満洲事変が起こされ、数度にわたり軍事クーデターが起きたことで、第一次世界大戦後に日本に根付くかと思われた民主主義︵大正デモクラシー、普通選挙︶がわずか15年程度で途絶え、軍国主義が進むこととなった。
国際連盟は提唱国であるアメリカをはじめとした大国の不参加や脱退が相次いで十分な役目を果たせず、戦間期に発生した係争への介入を行うことがほとんどできなかった。ヴェルサイユ条約成立後、フランスのフェルディナン・フォッシュ陸軍元帥は、﹁これは講和ではない。20年間の休戦にすぎない﹂と予言していた。イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、﹁ドイツ人など貧困にあえいでいればよいなどという考え方では、いつの日か必ず復讐されることになる﹂と条約を批判。アメリカのある上院議員も﹁この条約は先の大戦より悲惨な戦争を呼ぶものであると確信した﹂と述べた。そして彼らの予言通り、条約調印のほぼ20年後の1939年に、再び全世界規模の戦争となる第二次世界大戦が勃発することとなる。
この戦争における砲撃の数量は凄まじく、西部戦線の主戦場となったフランスの内務省によれば、国内で約14億発の砲弾が使用され、そのうち約1割が不発弾となったという。内務省の爆発物処理隊隊員が加盟している研究会では、その全ての不発弾を処理するためにかかる時間を約700年と試算している[320]。
西部戦線の戦跡では、不発弾のほか廃棄された毒ガスを含む砲弾による土壌汚染が深刻なために、立ち入りが禁止されている土地が残っており、無害化のための調査・処理が続いている[321]。また、戦地に放置・埋葬された戦死者の遺骨もいまだ多く残されており、その収集とDNA型鑑定などによる遺族捜し、納骨が21世紀以降も続けられている
[322]。
従軍した軍人のうち、最後まで存命だった元イギリス海軍水兵クロード・チョールズが2011年5月5日、110歳で死去した[323]。
現代にも大きな影響を与えており、2018年11月11日にパリで行われた終戦100年記念式典には、フランス、日本、イギリス、イタリア、アメリカなどの戦勝国や、ドイツなど敗戦国を含めて60カ国以上の首脳級要人[324]約70人が参加した[325]。
第一次世界大戦では約800万人が降伏して捕虜収容所に収容された。全参戦国がハーグ陸戦条約に基づき捕虜を公正に処置すると公約した結果、捕虜の生存率が前線で戦った兵士の生存率よりも高くなった。最も危険なのは降伏の瞬間であり、降伏の意を示した兵士が射殺されることもあった。単独で降伏した者は少なく、大部隊が一度に降伏することが多かった。一方、収容所にたどり着いた捕虜の状況は赤十字社や中立国の監察もあってそれなりに良く、第二次世界大戦での状況よりもはるかに良かった。
例としては、ガリツィアの戦い︵英語版︶でロシア軍がオーストリア=ハンガリー軍10万から12万人を捕虜にし、ブルシーロフ攻勢でドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍約325,000-417,000人がロシア軍に降伏、タンネンベルクの戦いでロシア軍9万2千が降伏した。1915年2月から3月のプシャスニシュの戦い︵ドイツ語版︶でドイツ軍1万4千がロシア軍に降伏、同年8月にカウナス駐留軍が降伏すると、ロシア軍約2万が捕虜になった。また第一次マルヌ会戦ではドイツ軍約1万2千が連合国軍に降伏した。ロシアの損害︵戦死、負傷、捕虜︶のうち、25から31%が捕虜であり、オーストリア=ハンガリーは32%、イタリアは26%、フランスは12%、ドイツは9%、イギリスは7%だった。ロシア軍の捕虜250-350万を除く連合国軍の捕虜は約140万人で、中央同盟国の損害は約330万人︵その大半がロシア軍への降伏だった︶。ドイツ軍は250万人の捕虜を、ロシア軍は220万から290万人の捕虜を、英仏軍は約72万人の捕虜を捕らえた。その大半は1918年の停戦直前に捕らえた捕虜だった。日本軍は約5,000人、アメリカ軍は4万8千人の捕虜を捕らえた。
日本は戦時下においては陸海軍とも国際法を遵守し、捕らえたドイツ帝国軍とオーストリア=ハンガリー帝国軍の捕虜は丁重に扱った。青島と南洋諸島で捕獲した捕虜約4700名は、徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所、広島県の似島検疫所俘虜収容所など各地の収容所に送られたが、特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、近隣では﹁ドイツさん﹂と呼んで親しまれた。このときにドイツ料理やビール、オーケストラをはじめ、収容所から広まった数多くのドイツ文化が日本に伝えられた。スペイン風邪の世界的流行の中、死亡者はわずか9人のみであった。またドイツでは食糧不足があったものの死亡した捕虜は5%に過ぎなかった。
1917年の第一次ガザ会戦︵英語版︶の後、オスマン軍の捕虜になったイギリス兵士。
反面ロシアでの状況は悪く、捕虜も非戦闘員も飢餓が多かった。ロシアでは囚われていた捕虜の15から20%が死亡、中央同盟国に囚われたロシア兵の8%が死亡した[356]。またオスマン帝国では国際法の教育が全く行われておらず、捕虜をひどく扱うことが多かった。これはオスマン帝国がムスリム国家︵キリスト教国ではない︶であるゆえと西欧中心主義的視点から言われることがあるが社会学的な正確性が欠けた偏見である。1916年4月のクート包囲戦の後、イギリス兵士約11,800人︵主に英領インドの兵士︶が捕虜になったが、そのうち4,250人が捕虜のまま死亡した[358]。捕虜になった時点で健康状態が悪い者が多かったが、オスマン軍は彼らに1,100km行進してアナトリア半島まで行くよう命じた。生還者の一人は﹁獣のように扱われた。脱落することは死に等しかった﹂と述べた[359]。その後、生還した捕虜はトロス山脈を通る鉄道の建設に駆り出された。
第一次世界大戦が停戦した後、敗戦した中央同盟国に囚われた捕虜はすぐに送還されたが、日本を除く連合国とロシアに囚われた捕虜は同様の扱いを受けられず、多くが強制労働に駆り出された。例えば、フランスでの捕虜は1920年まで強制労働を強いられた。捕虜の釈放は赤十字が連合国軍総司令部に何度もかけあった後にようやく行われた[360]。ロシアでのドイツ人捕虜の釈放はさらに遅く、1924年時点でもまだロシアに囚われていた捕虜もいた[361]。これは第二次世界大戦のソ連と同様であった。
開戦直後には多くの社会主義者や労働組合が政府を支持したが、ボリシェヴィキ、アメリカ社会党、イタリア社会党、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルクなどの例外もあった。
開戦から3か月も満たない1914年9月にローマ教皇に就任したベネディクトゥス15世は第一次世界大戦とその影響を在位期間の初期の焦点とした。前任のピウス10世と違い[375]、彼は選出から5日後に平和のために手を尽くすと宣言した。彼の初の回勅で1914年11月1日に公布されたアド・ベアティッシミ・アポストロルム︵英語版︶も第一次世界大戦に関するものだった。しかし、ベネディクトゥス15世は教皇の立場から平和の使者として振舞ったものの参戦各国に無視された。1915年にイタリアと三国協商の間で締結されたロンドン条約でも教皇による平和への動きを無視する条項が盛り込まれ、またベネディクトゥス15世が1917年に提案した平和案もオーストリア=ハンガリーを除いて無視された[376]。
脱走者、1916年。ヨーロッパ5か国の兵士がイエス・キリストを銃殺刑に処するシーンを描いている。
1914年、イギリスのパブリックスクールの将校訓練課程︵英語版︶の年度キャンプがソールズベリー平原︵英語版︶近くのティッドワース・ペンニングス (Tidworth Pennings) で行われた。陸軍総司令官ホレイショ・ハーバート・キッチナーが士官候補生を閲兵する予定だったが開戦により出席できなくなったため代わりにホレス・スミス=ドリアン︵英語版︶が派遣された。バミューダ諸島出身の士官候補生ドナルド・クリストファー・スミス (Donald Christopher Smith) の述懐によると、スミス=ドリアンのスピーチは出席した下士官候補生2,000-3,000名を驚かした。
彼は戦争は何としても避けなければならない、戦争は何も解決しない、全ヨーロッパや多くの地域が廃墟に化する、人命の損失が大きすぎて全人類の人口が絶滅する、などと述べた。そのような憂鬱で愛国的でない感情を述べるイギリスの将軍に、私、そして私達の多くが、無知なことに彼を恥じた。しかし、その後の4年間にわたり、私達のうち大虐殺を生き残った者︵おそらく4分の1を越えないだろう︶は将軍の予想の正しさを知り、彼がそれを述べるのにどれだけの勇気が要るかを知った[377]。
兵士1人が処刑される場面。処刑の時期は、1917年にフランス軍で反乱が起こった時にヴェルダンで行われたとする説と、1914年/1915年にスパイが処刑されたとする説がある。
多くの国は戦争に反対した者を投獄した。例としてはアメリカのユージン・V・デブスとイギリスのバートランド・ラッセルがいる。アメリカでは1917年スパイ活動法と1918年扇動罪法︵英語版︶により募兵反対や﹁愛国的ではない﹂主張が犯罪であると定められた。政府を批判する出版物は郵便での検閲により流通できないようにされ、多くの人々が愛国的でない主張をした廉で長期間投獄された。
民族主義者の一部は、特にその民族主義者が敵対した国において戦争への介入に反対した。アイルランド人の大半は1914年と1915年時点では参戦に同意したが、少数のアイルランド民族主義者は参戦に反対した[379]。1912年にアイルランド自治危機︵英語版︶が再び浮上した後、世界大戦が勃発した1914年7月にはアイルランドがあたかも内戦前夜のようになっていた。アイルランド民族主義者とマルクス主義者はアイルランド独立を求め、1916年にイースター蜂起を決行した。ドイツはイギリスを不安定にすべくライフル2万丁をアイルランドに送った。イギリスはアイルランドの戒厳を発令したが、革命の脅威が去ると、イギリスはアイルランド民族主義者に譲歩した[381]。しかし、アイルランドでの反戦世論が高じた結果、1918年徴兵危機︵英語版︶が起こった。
ほかにも良心的兵役拒否者︵社会主義者や信仰を理由に兵役を拒否する者︶が戦闘への参加を拒否した。イギリスでは1万6千人が良心的兵役拒否者として扱われることを申請した。スティーヴン・ホブハウス︵英語版︶など一部の平和活動家は兵役と代替役の両方を拒否した[383]。
徴兵は当時ヨーロッパ諸国で行われたが、英語圏では賛否両論だった。特にアイルランドのカトリック信者など少数派の間では不人気だった[387]。
カナダでは徴兵問題が1917年徴兵危機︵英語版︶という大きな政治危機に発展、カナダの英語話者とフランス語話者が仲違いするきっかけとなった。というのも、フランス系カナダ人がイギリス帝国ではなくカナダという国を愛したのに対し、多数派である英語話者はルーツがイギリス人だったため戦争を義務として扱ったという違いがあった[388]。
オーストラリアでは首相ビリー・ヒューズが徴兵支持運動を組織した結果、オーストラリア労働党の分裂を招き、ヒューズは1917年に民族主義党︵英語版︶を結成して運動を継続した。しかし、農民、労働運動、カトリック教会、アイルランド系カトリックが一斉に反対した結果、1917年オーストラリア徴兵に関する国民投票︵英語版︶は否決された[389]。
イギリスでは兵役に適する男子1千万人のうち600万人が招集され、そのうち75万人が戦争で命を落とした。死者の多くが若い未婚者だったが、16万人が妻帯者であり、子女がいる者も多く子供30万人が父を失った。第一次世界大戦中の徴兵は1916年兵役法︵英語版︶で始まった。兵役法では聖職者、子供のいる未亡人を除き、18歳から40歳までの独身男性の徴兵を定めた。兵役裁判所︵英語版︶という、健康、良心的兵役拒否などを理由とした兵役免除申請を審査する制度もあった。1月に成立した兵役法では既婚男性を除外したが、6月にはその条項が撤廃された。年齢の上限も後に51歳に引き上げられた。兵役裁判所の審査も徐々に厳しくなり、1918年には聖職者の徴兵も一定の支持を受けるようになった[391]。徴兵は1919年中まで続いた。また、アイルランドでは政情不安により徴兵が施行されることはなく、徴兵はイングランド、スコットランド、ウェールズでのみ行われた。
アメリカでは参戦から6週間の間、募兵者の人数が7万3千人と目標の100万人を大きく下回ったため、政府は徴兵を決定した[392]。アメリカの徴兵は1917年に開始され、一部の農村部を除いて受け入れられた[393]。
オーストリア=ハンガリーでは大陸ヨーロッパ諸国と同じく、一般兵士を徴兵したが、士官については募兵で招集した。その結果、一般兵士では4分の1以上がスラヴ人だったが士官では4分の3以上がドイツ人だった。スラヴ人兵士は不平を抱き、結果的にはオーストリア=ハンガリー軍の戦場における実績が災難的になった[394]。
参戦諸国の外交とプロパガンダは自国の主張への支持を築き、敵国への支持を弱めるよう設計された。戦時外交の目的は5つあった。戦争の目的を定義することと︵戦況の悪化につき︶再定義すること、中立国に敵国の領土を与えることで中立国︵イタリア、オスマン帝国、ブルガリア、ルーマニア︶を味方に引き入れること、そして連合国が中央同盟国国内の少数民族︵チェコ人、ポーランド人、アラブ人︶運動を支援することだった。また中立国、参戦国いずれも平和案を提示したことがあったが、結実することはなかった[395][396][397]。
同じ主題に関するプロパガンダでも、時と場合によってその指向が異なった。例えば、ドイツ軍が初めて毒ガスを使用したとき、連合国はアメリカを味方に引き入れるためにドイツ軍が﹁ハーグ陸戦条約に違反して残忍で非人道な武器を導入した﹂と宣伝した。しかし、英仏軍が毒ガスの報復攻撃を行うと、宣伝の内容が﹁ドイツ軍が先に毒ガスを使用したことは報復攻撃を正当化し、連合国はやむなく似たような武器を使用した﹂に変わった。さらに1917年春、夏には連合国が毒ガスに関するプロパガンダを一切行わず情報をシャットアウトしたが、これは米軍が必要以上に毒ガスを恐れないようにするためだった。そして、米軍が参戦した後は情報を全て公開して﹁連合国の技術が進み、正義が邪悪に打ち勝った﹂と宣伝した。
開戦直後から、ドイツ、イギリス、ロシア、フランスといった交戦国の政府は、自国の正当性を主張するためのプロパガンダの一環として、外交資料集を編纂・発表した。こうした流れは、終戦後、大戦開戦の責任はどの国家にあるのかという戦争責任論争につながり、第一次世界大戦の研究の焦点は、まず、開戦直前の外交政策に当てられることとなった。また、1922年以降、交戦国では軍事関係者の手による公式の戦史の刊行も始まった。
1920年代後半には、より長期的なスパンで大戦の原因を探るべきだとする大戦起源論研究が主流となった。大戦起源論研究は、単なる外交史研究にとどまらず、帝国主義政策や軍備拡張競争といった面にも着目したものだった。こうした研究を通して、1930年代後半までに﹁第一次世界大戦の戦争責任は特定の国家にはない﹂という定説が形成されるに至った。
しかし、第二次世界大戦後、西ドイツの歴史学者フリッツ・フィッシャーは、ドイツ政府関係史料に拠る実証研究をもとに、大戦開戦の責任はドイツにあるとし、再びドイツ単独責任論を唱えた。この説は西ドイツ内の歴史学者からの激しい批判を受けた︵フィッシャー論争︵ドイツ語版︶︶が、最終的には国内を含め欧米の歴史学界で広く支持されるようになった。
1960年代になると、経済史研究や人口統計学のような数量化による研究も行われるようになった。そして、第一次世界大戦研究は、大戦の原因をめぐる論争ではなく、大戦期の革命運動や各国の国内事情を主な対象とするようになっていった。アメリカの歴史学者ジェラルド・フェルドマン︵英語版︶は、大戦中の国内の権力構造の変化を論じ、ドイツの歴史学者ユルゲン・コッカ︵英語版︶は、マックス・ウェーバーの理論を応用して大戦研究を行った。
こうした研究は、軍の指導者ではなく兵士の動向や銃後の社会に焦点を当てる﹁下からの﹂歴史研究につながっていく︵社会史︶。さらに90年代以降は、イギリスの歴史学者エリック・ホブズボームの提唱した﹁短い20世紀﹂のように、第一次世界大戦を現代の起点であるとし、その意義を強調する議論も盛んとなった。
一方、ドイツ近現代史研究者の木村靖二によれば、こうした歴史学者による第一次世界大戦の政治史・社会史研究と、軍事史家による伝統的な戦史研究は、いずれも相互の研究成果を十分に取り入れておらず、分断された状況にあり、第一次世界大戦史の総合的な研究を難しくしているという。
(一)^ イギリス帝国の合計
(二)^ 植民地との合算
(三)^ ただし日本語訳の通り、﹁第一次世界戦争﹂(First World War) ではなく﹁初の世界戦争﹂(first world war) という意味である。
(四)^ Uボート (U-Boot) はドイツ語で﹁潜水艦﹂(Unterseeboot) の略語である。
(五)^ 4月24日は後にアルメニア人虐殺記念日︵英語版︶として祝日となっている。
(六)^ フランス軍参謀本部︵英語版︶は1914年10月以降、シャンティイを大本営としていた。
(七)^ ドイツの安売り肉店。品質が下級であるが食用に適する肉を販売する。
(八)^ 訳注‥ドゥオモン要塞がヴェルダンの東北にあるため、要塞の東は既にドイツ軍に占領されている。ドゥオモン要塞の位置については画像:Fort Douaumont location map 300px.jpgの地図を参照。
(九)^ 女性の農民がこのようなデモ行進に参加したのはロシアでは初めてのことで、この事件を記念して3月8日が国際女性デーになっている。
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(九)^ abcWillmott 2003, p. 15
(十)^ 牧野雅彦, 2009 & 凡例。.
(11)^ 大戦終結100年の2018年11月11日、ベルギーのアールスコートに平和を祈るカリヨンが設けられた。これに組み込まれた鐘は51個で、参戦国や戦争に巻き込まれた国・地域の数を表している。第1次大戦終結から100年/平和を願う ベルギー﹁平和の鐘﹂﹃東京新聞﹄夕刊2018年11月21日︵7面︶掲載の共同通信配信記事
(12)^ もとより、第二次世界大戦が勃発する前も、当然ながら、﹁最初﹂の世界大戦 (First World War) という観念はあり︵本文のエルンスト・ヘッケルの用例︶、また、﹁次の世界大戦﹂の勃発することを想定し、﹁第一次世界大戦﹂という言い方をすることもあった︵例‥石丸藤太﹁共産ロシア抹殺論﹂、1938年、142頁、131頁︶。
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(99)^ ﹃北欧の外交﹄、pp.27-35。少数のスウェーデン士官のフィンランド白軍への参加を黙認している。
(100)^ ﹃北欧史﹄、pp.310-313。大戦中、様々な妨害を受けつつも、中立は維持された。1917年にもクリスチャニアで再び中立の維持を確認した。
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(122)^ Hirschfeld u. a. (Hrsg.): Enzyklopädie Erster Weltkrieg. 2014, p.100, 331 ff., 442 ff., 589 ff.; Keegan: Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie. 2001, p.322 ff.; Piekałkiewicz: Der Erste Weltkrieg. 1988, p.249 ff.
(123)^ Wolfgang Gust (Hrsg.): Der Völkermord an den Armeniern 1915/16. Dokumente aus dem Politischen Archiv des deutschen Auswärtigen Amtes. Zu Klampen Verlag, Springe, 2005, ISBN 3-934920-59-4, p.170 f. (online: Bericht von Botschafter Wangenheim an Reichskanzler Bethmann Hollweg vom 17. Juni 1915).
(124)^ Wolfgang Gust (Hrsg.): Der Völkermord an den Armeniern 1915/16. Dokumente aus dem Politischen Archiv des deutschen Auswärtigen Amtes. Zu Klampen Verlag, Springe, 2005, ISBN 3-934920-59-4, p.219; (online: Bericht von Vizekonsul Scheubner-Richter an Botschafter Wangenheim vom 28. Juli 1915).
(125)^ Wolfgang Gust (Hrsg.): Der Völkermord an den Armeniern 1915/16. Dokumente aus dem Politischen Archiv des deutschen Auswärtigen Amtes. Zu Klampen Verlag, Springe, 2005, ISBN 3-934920-59-4, p.395 (online: Bericht von Botschafter Metternich an Reichskanzler Bethmann Hollweg).
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(128)^ Hirschfeld u. a. (Hrsg.): Enzyklopädie Erster Weltkrieg. 2014, p.399 f., 535 f., 834 ff.; Keegan: Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie. 2001, p.351 ff.; Strachan: Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte. 2006, p.193 ff.; Piekałkiewicz: Der Erste Weltkrieg. 1988, p.236 ff.
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(130)^ Hirschfeld u. a. (Hrsg.): Enzyklopädie Erster Weltkrieg. 2014, p.768 f.; Keegan: Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie. 2001, p.312 f.
(131)^ Hirschfeld u. a. (Hrsg.): Enzyklopädie Erster Weltkrieg. 2014, p.709; Keegan: Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie. 2001, p.418 f.; Strachan: Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte. 2006, p.158 f.; Piekałkiewicz: Der Erste Weltkrieg. 1988, p.324 f.
(132)^ Hirschfeld u. a. (Hrsg.): Enzyklopädie Erster Weltkrieg. 2014, p.624 f.; François Cochet: 6-8 décembre 1915, Chantilly : la Grande Guerre change de rythme. In: Revue historique des armées. Nr. 242, 2006 (online)
(133)^ Theodor Wolff: Tagebücher 1914-1919. Der Erste Weltkrieg und die Entstehung der Weimarer Republik in Tagebüchern, Leitartikeln und Briefen des Chefredakteurs am „Berliner Tageblatt“ und Mitbegründer der „Deutschen Demokratischen Partei“. Erster Teil, hrsg. von Bernd Sösemann. Boppard am Rhein 1984, ISBN 3-7646-1835-3, p.315.
(134)^ Alexander Mayer: Fürth 1911-1914. Krieg der Illusionen - die lokale Sicht. Fürth 2000, ISBN 3-927347-44-2, p.94 f., 99.
(135)^ Theodor Wolff: Tagebücher 1914-1919. Der Erste Weltkrieg und die Entstehung der Weimarer Republik in Tagebüchern, Leitartikeln und Briefen des Chefredakteurs am „Berliner Tageblatt“ und Mitbegründer der „Deutschen Demokratischen Partei“. Erster Teil, hrsg. von Bernd Sösemann. Boppard am Rhein 1984, ISBN 3-7646-1835-3, p.299, 315.
(136)^ Becker, Krumeich: Der große Krieg. Deutschland und Frankreich 1914-1918. 2010, p.117 ff. (Zitat: p.121.); Strachan: Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte. 2006, p.267 ff.
(137)^ Theodor Wolff: Tagebücher 1914-1919. Der Erste Weltkrieg und die Entstehung der Weimarer Republik in Tagebüchern, Leitartikeln und Briefen des Chefredakteurs am „Berliner Tageblatt“ und Mitbegründer der „Deutschen Demokratischen Partei“. Zwei Teile. Boppard am Rhein 1984, ISBN 3-7646-1835-3, p.314 f., 318 f., 323; Susanne Miller, Heinrich Potthoff: Kleine Geschichte der SPD. Darstellung und Dokumentation 1848-1990. Verlag J.H.W. Dietz Nachfolger, Bonn 1991, ISBN 3-87831-350-0, p.76; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): Enzyklopädie Erster Weltkrieg. 2014, p.856.
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(141)^ Erich von Falkenhayn: Die Oberste Heeresleitung 1914-1916 in ihren wichtigsten Entscheidungen. Berlin 1920, pp.176-184 (Reprint z. B. von Kessinger Publishing, Whitefish 2010, ISBN 978-1-160-86957-7).
(142)^ abcdBecker, Krumeich: Der große Krieg. Deutschland und Frankreich 1914-1918. 2010, p.225 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): Enzyklopädie Erster Weltkrieg. 2014, p.445 f., 942 ff., 959; Kurt Fischer, Stephan Klink: Spurensuche bei Verdun. Ein Führer über die Schlachtfelder. Bernard & Graefe Verlag, ISBN 3-7637-6203-5, p.20 ff.; Keegan: Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie. 2001, p.390 ff.; Holger Afflerbach: Falkenhayn. Politisches Denken und Handeln im Kaiserreich. Oldenbourg, München 1996, ISBN 3-486-56184-7, p.360 ff., 543 ff.
(143)^ Holger Afflerbach: Falkenhayn. Politisches Denken und Handeln im Kaiserreich. Oldenbourg, München 1996, ISBN 3-486-56184-7, p.363.
(144)^ Vgl. Bernd Stegemann: Die Deutsche Marinepolitik, 1916-1918 (= Historische Forschungen. Band 4). Duncker & Humblot, Berlin 1970, p.32 ff. sowie M. Raffael Scheck: Alfred von Tirpitz and German Right-Wing Politics, 1914-1930 (= Studies in Central European Histories;11). Humanities Press, Boston 1998, ISBN 0-391-04043-X, p.29 ff.
(145)^ Karl Dietrich Erdmann (Hrsg.): Kurt Riezler. Tagebücher-Aufsätze-Dokumente. Eingeleitet und herausgegeben von Karl Dietrich Erdmann. Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen 1972, ISBN 3-525-35817-2, p.342, p.338 f. Fn. 11.
(146)^ Michael Epkenhans, Jörg Hillmann, Frank Nägler (Hrsg.): Skagerrakschlacht - Vorgeschichte - Ereignis - Verarbeitung. Oldenbourg, München 2011, ISBN 978-3-486-70270-5, p.139 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): Enzyklopädie Erster Weltkrieg. 2014, p.50, 839 ff.; Jürgen Mirow: Der Seekrieg 1914-1918 in Umrissen. Göttingen 1976, ISBN 3-7881-1682-X, p.82 ff.; Michalka: Der Erste Weltkrieg. Wirkung - Wahrnehmung - Analyse. 1997, p.341 ff.; Keegan: Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie. 2001, p.379 ff.; Piekałkiewicz: Der Erste Weltkrieg. 1988, p.403 ff.
(147)^ Hirschfeld u. a. (Hrsg.): Enzyklopädie Erster Weltkrieg. 2014, p.276, 624 f.
(148)^ Keegan: Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie. 2001, p.400 ff. (Zitat: p.425); Hirschfeld u. a. (Hrsg.): Enzyklopädie Erster Weltkrieg. 2014, p.393 ff.; Piekałkiewicz: Der Erste Weltkrieg. 1988, p.378 ff.
(149)^ Gerhard Hirschfeld, Gerd Krumeich, Irina Renz (Hrsg.): Die Deutschen an der Somme 1914-1918. Krieg, Besatzung, Verbrannte Erde. Klartext Verlag, Essen 2006, ISBN 3-89861-567-7, p.87; Strachan: Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte. 2006, p.240 f.
(150)^ Keegan: Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie. 2001, p.400 ff. (Zitat: p.417); Gerhard Hirschfeld, Gerd Krumeich und Irina Renz (Hrsg.): Die Deutschen an der Somme 1914-1918. Krieg, Besatzung, Verbrannte Erde. Klartext Verlag, Essen 2006, ISBN 3-89861-567-7, p.79 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): Enzyklopädie Erster Weltkrieg. 2014, p.851 ff.
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