タルボ (自動車メーカー)
タルボ(Talbot、タルボットとも )は、かつて存在したイギリスの自動車ブランドである。
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本社所在地 |
イギリス ロンドン |
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設立 | 1903年 |
業種 | 輸送用機器 |
所有者 | ステランティス |
関係する人物 | チャールズ・ヘンリー・ジョン・チェットウィンド=タルボット |
歴史
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1903年にフランスのクレメント・バイヤードを輸入販売する企業として、サー・チャールズ・タルボットの出資により設立された。1905年にはフランスから完成車を輸入してクレメント-タルボブランドで販売するとともに、部品を輸入してロンドンのノースケンジントンの工場で組み立てタルボブランドで売り始めた。1906年から1910年にかけて50〜60台/月の生産を行った。
第一次世界大戦中には救急車の製造を行った。フランス・メジエールの工場とロンドンの工場は別々に生産および販売を行っていたが、1919年にイギリス資本でパリに本拠を置くダラック︵Darracq ︶によって買収され、ダラックが製造した自動車を﹁タルボ-ダラック﹂ブランドで販売した。後年、ダラックはSTDモーターズ[1]︵STD Motors ︶コングロマリットに再編された。
1916年にスイス生まれのエンジニアであるジョルジュ・ローシュが設計主任になり、1920年代前半には14/45hpやタルボ105といった傑作が生み出され、1930年代にはローシュが設計したレーサーがレースで活躍した。
ルーツ傘下
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1935年にSTDモーターズが破綻、ルーツ・グループがクレメント-タルボを買収した。ルーツにとっては﹁技術よりも利益が重要﹂ということで、既存のモデルはシンプルにリバッジされた。フランスの工場はアンソニー・ラーゴ︵Anthony Lago ︶が買い取り、後に﹁タルボ-ラーゴ﹂ブランドをつけた。
イギリスでは、1938年にサンビームとタルボを統合して﹁サンビーム-タルボ﹂ブランドが生まれた。その生産は第二次世界大戦中は中止されたが、1946年に再開された。1955年にはタルボブランドはなくなり、サンビームだけが1967年のクライスラーによるルーツの買収まで存続する。
なお、タルボ-ラーゴブランドは、1958年にフランスの自動車会社シムカに買収され、1960年まで存続した。
クライスラー傘下
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1967年にクライスラーがルーツ・グループとシムカの両方を買収し統合して、クライスラー・ヨーロッパを構成する。この時代はタルボブランドは使われず、クライスラーのペンタスター︵五芒星︶のロゴマークとルーツグループ時代のブランドネームが1970年代にわたって使用された。
クライスラーはシムカの技術でシムカ・オリゾン︵Simca Horizon ︶/クライスラー・ホライズン︵Chrysler Horizon ︶を開発、後のタルボ・ホライズンとしてフィンランドのウーシカウプンキ工場で生産した。他のクライスラーベースのタルボ・1510、英国名アルパイン︵Alpine ︶、タルボ・ソラーラ︵Solara ︶などもそこで作られた。最上級グレードはソラーラVIP。
シトロエン傘下
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1978年にクライスラー・ヨーロッパ社はフランスのシトロエン︵PSA・プジョーシトロエン︶に売却され、それまでのルーツとシムカブランドの製品にリバッジするためにタルボブランドが復活、イギリスでは1979年8月1日にクライスラーブランドの製品に一斉にタルボブランドがつけられた。
ルーツで開発され最後まで販売された製品はクライスラー・アヴェンジャー︵Chrysler Avenger ︶で、1981年末まで生産された。1981年には小型ハッチバック車、タルボ・サンビームの生産も終了した。
タルボ・タゴーラ
1981年にPSAはフォード・グラナダのライバルとしてタルボ・タゴーラ︵Tagora ︶の生産を開始するが、イギリスでもフランスでも人気が出ず、1983年に生産を終了する。
タルボ・サンバ・カブリオレは、日本に輸入された唯一のタルボだっ た。
1982年にタルボのエントリーレベルを担う3ドアハッチバック﹁タルボ・サンバ﹂︵Samba ︶が登場するが、これはプジョー・104のアレンジ版だった。
1984年の末にアルパイン・ハッチバックとソラーラ・サルーンは﹁ミンクス﹂と︵Minx ︶﹁レイピア﹂︵Rapier ︶にリバッジされた。それらの名前はルーツ時代のヒルマン・ミンクスとサンビーム・レイピアから採った。これらは1986年まで生産された。
タルボ・エクスプレス
1985年末にプジョーはタルボ・ホライズンをプジョー・309に代替した。プジョーは初めこの車を﹁タルボ・アリゾナ﹂として売り出す計画であったが、タルボブランドをフェードアウトすることを決めた。ホライズンはスペインとフィンランドの工場で1987年まで生産された。
1986年中にすべての乗用車が生産終了になったが、パネルバンの商用車であるタルボ・エクスプレスだけは1992年まで生産され、ここでタルボブランドは終焉を迎えた。
2008年にPSAは、ルノーがダチア・ロガンを導入したような低価格市場向けのブランドネームとして、タルボブランドの復活を考えている。
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/40/K749WDV_Talbot_EXpress.jpg/220px-K749WDV_Talbot_EXpress.jpg)
タルボ車の一例
編集モータースポーツ
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1950年のル・マン24時間レースでタルボ・ラーゴ・T26GSを操縦するルイ・ロジェ/ジャン=ルイス・ロジェが優勝した。これはル・マンの歴史上唯一、親子での優勝だった。
タルボ=リジェ・JS17(1981年)
1981年から1982年まで、タルボはF1チームのリジェを支援していた。エンジンは子会社のマトラが開発したマトラ・スポール・V12エンジンが供給された。エントリー名も(エキップ・タルボ・ジタン)に改名された。リジェは1979年、1980年まで使用していたコスワースDFVエンジンから1978年以来、マトラV12エンジンに再び切り替えた。1981年はジャック・ラフィットが2勝し、ランキング4位で入賞したが、翌年の1982年、新車リジェ・JS19の斬新なグラウンド・エフェクト構造が失敗に終わり、ラスベガスグランプリでの3位表彰台だけにとどまり、ランキング8位に終わっている。この年を最後にリジェはタルボとの契約を解除、最後にマトラV12エンジンを使用した年となった。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/92/Laffite_en_Reutemann_tijdens_de_Grand_Prix_Formule_1_van_Nederland_1981.jpg/220px-Laffite_en_Reutemann_tijdens_de_Grand_Prix_Formule_1_van_Nederland_1981.jpg)