ユーロネクスト・パリ
フランス・パリの証券取引所
(パリ証券取引所から転送)
沿革
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ジョン・ローのミシシッピ会社が破綻し解体されてゆく途上、1726年パリのホテル・ヌーベル︵Hôtel de Nevers︶に証券取引所が成立した︵Bourse de Paris︶。当初は一銀行が運営していたが、事業の運営母体が変遷を受けながら規模を拡大していった。1808年ナポレオンがパリ2区のパレ・ブロンニャールへ移転した。ランドマークとなっていたコリント式列柱の外観を持つ建物は、イングランド銀行救済のあと1826年に完成したものである。
1869年の統計によれば、当時のパリ証券取引所で取引された有価証券の額は308億6900万フランに達したが、そのうち100億フランが外国証券であったといわれる。オーストリア=ハンガリー帝国成立前から同地域に対する投資が盛んに行われていたほか、ラテン通貨同盟の成立過程では銀本位制が主張されるほど極東との貿易も進展していた。
20世紀初頭に拡張工事が行われた。これにはエピソードが存在する。1905年3月、パリ証券取引所理事長のベルヌイユが日露戦争中に外債交渉のため訪れていた貴族院議員高橋是清に提案した。それは戦後処理に関するものであった。[2]
フランスはロシア公債に巨額の投資をしているので、戦争の行方を憂慮している。もし日本が無賠償で講和するなら、ロシアが応ずるようにフランスは仲介しよう。しかし賠償なしでは日本の財政は苦しいだろうから、戦後5億から7億円の日本公債のためにパリ金融市場を開放する。[2]そして1913年4月ロスチャイルドの引受で2億フランの外債が実際に発行された。この処理は鉄道会計法によった。 1941年6月18日、ヴィシー政権下においてパリ証券取引所はCCDVTを設立し、民間資産を管理した。 1980年代にフランス版金融ビッグバンが実施された。 2000年9月、アムステルダム証券取引所・ブリュッセル証券取引所との経営統合により、ユーロネクストが設立された。パリ証券取引所は同社の運営となって以降、ユーロネクスト・パリの名称で呼ばれるようになった。 2022年11月、時価総額でロンドン証券取引所を抜き、ヨーロッパ最大の証券取引所となった[3]。
相場
編集所在地
編集- 住所:14 place des reflets 92054 Paris la défense cedex
- アクセス
- メトロ1号線 エスプラナード・ド・ラ・デファンス(Esplanade de la Défense)駅
- メトロ1号線 ラ・デファンス=グランダルシュ(La Défense - Grande Arche)駅
- RER A線、 トラム2号線 ラ・デファンス(La Défense)駅
出典
編集- ^ “Euronext Paris s’installe à La Défense” (フランス語). ユーロネクスト (2015年6月19日). 2017年12月1日閲覧。
- ^ a b 有沢広巳監修 『日本証券史 1』 日本経済新聞社 1995年 77頁
- ^ “ロンドン、欧州最大の株式市場の座から陥落-パリが時価総額で首位に”. Bloomberg.com. 2022年11月15日閲覧。
外部リンク
編集- 公式ウェブサイト(フランス語)
- Euronext Paris (@Euronext_Paris) - X(旧Twitter)(フランス語)
- Bourse de Paris TV - YouTubeチャンネル(フランス語)
- パレ・ブロンニャール(旧パリ証券取引所)(英語)(フランス語)