モザンビーク内戦
モザンビーク内戦︵モザンビークないせん、ポルトガル語: Guerra Civil Moçambicana︶は、1977年から1992年にモザンビーク包括和平協定が制定されるまで、ポルトガルから独立したモザンビーク人民共和国で起こっていた内戦。政権を握っていたFRELIMOと、ローデシアおよび南アフリカによって設立されたRENAMO︵当初はMNR︶による内戦が勃発した。
モザンビーク内戦 | |||||||||
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衝突した勢力 | |||||||||
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指揮官 | |||||||||
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戦力 | |||||||||
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死亡者数:100万人以上の軍人・民間人が戦闘、飢饉などが原因で死亡している。 |
紛争勃発
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1974年、イアン・スミス政権下のローデシア︵ザンビアとジンバブエを合わせた地域の名称︶の諜報機関によってMNRは支援・設立され[1]、1975年のモザンビーク独立戦争終了後もMNRが攻撃を続けて﹁共産主義者対反共主義者﹂という黒人同士の紛争状態[2]が勃発した。
独立戦争時からポルトガルに協力していたンダウ人など以外に白人のための傀儡という事情からMNRに参加する黒人たちは少なかったため、MNRは青少年たちを誘拐して兵士を増やすなど、不十分な大義のまま暴力によって黒人たちを屈服させる勢力となっていた[1]。また、ローデシアがジンバブエとなり独立した後は隣国に共産主義国家が誕生することを恐れた南アフリカ共和国がMNRを支援するようになる[3]。この頃からMNRはRENAMOと名前を変えてマラウイに拠点を持ち、政府に反発する市民の支持を得て拡大していった。
国際的な動き
編集FRELIMO側は南アフリカのアフリカ民族会議やソ連およびキューバから、RENAMO側は南アフリカ政府から武器を手に入れていた(どちらもAK47など共産圏製の銃器や兵器だったと言われている)。1984年にモザンビークと南アフリカの間でンコマチ協定にて不可侵条約が締結されてからは南アフリカ政府およびANC両方からの支援は打ち切られたと思われていたが、実際はどちらもそれぞれの勢力への支援を続けていた。
停戦
編集難民問題
編集この内戦によって国民の3分の1が難民になり、隣国に避難した[5]と言われている。
地雷問題
編集モザンビークはこのような内戦で多数の地雷が埋設され、現在最も地雷汚染の深刻な国だと言われている[6]。
脚注
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(一)^ ab舩田クラーセン(2008:658)
(二)^ 舩田クラーセンさやか﹁紛争後モザンビーク社会の課題──村に戻らない人々﹂﹃朝倉世界地理講座──アフリカII﹄池谷和信、武内進一、佐藤廉也編、朝倉書店、2008年4月。
(三)^ 舩田クラーセン(2008:659)
(四)^ “モザンビークの政府と野党、歴史的な和平協定に調印”. AFPBB News. フランス通信社. (2019年8月2日) 2022年3月9日閲覧。
(五)^ なつかしの故郷へ︵PDF文書︶ - UNHCR Japan
(六)^ モザンビーク、2014年までの地雷撤去目標 ﹇世界短信﹈ - BIG ISSUE ONLINE