(: J̌asaγ/Засаг,: )/ (J̌asa/J̌asaq)/ (Yasa/Yasaq)  یاسا (yāsā)(zhásā)
()[1]

 (Yeke J̌asa)

「ヤサ」の用法

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 به یاسا رسانیدان (ba-yāsā rasānīdan)J̌asaq-iyar yabu'ul=u=n[2][3][4]



()() [][5]

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[7]

研究史

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1819



21西/[8][9]

大ヤサ

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モンゴル帝国時代の諸史料にはしばしば「大ヤサ[書]」という単語が記され、通説ではこの「大ヤサ」こそが「チンギス・カンの制定した成文法典である」と考えられてきた。しかし「ヤサ」の具体的内容について記した史書が少ないため、「大ヤサ」の成立過程やその実態については諸説ある。

1206年(1203年)成立説

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1206(1203)1206

599(1203)[] 

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12061206121812251206

1218年成立説

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121812031203()1218

 

1203[11]

12181218[12]

1225年成立説

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12251225

622(1225-1226)[] 

1206西1225[13]

「大ヤサ」否定説

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「大ヤサ」という成文法典は存在しなかったとする学説で、モーガンやチョクトらが唱えている。モーガンは各種史料の「ヤサ」の用法を比較検討して「ヤサ」という単語が必ずしも「法令」として用いられているわけではなくむしろ「命令・軍令」として用いられている例が多いことを指摘し、「成文化し首尾一貫して実施された法典としての大ヤサ」は存在しなかったと述べている。

また、チョクトは更に「ヤサ」「大ヤサ」「大ヤサ書」といった用語を厳密に比較検討し、「大ヤサ書」という用語が同時代のモンゴル語史料には全く見られず、主としてペルシア語史料のみに見られることから、「大ヤサ書」とはイラン人の「ヤサ」に対する概念理解のもとに作られた書名であると結論づけた。その上で、イラン人たちが「大ヤサ書」であると考えた書物は「ヤサの性格を持つ=罰則を伴う」ヨスンが記された、「ココ・デプテル (köke debter) =青冊」ではないかと推測している[14]

ビリク

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 (bilig) 11/

()

 (qūtātughū bīlig-i jīnkīz khān)/ [15]

ヨスン

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 (yosun) 

 (yāsā wa yūsūn) (rasm/ʿdāt/ādāb)[][]

 (köke debter) [] [16]

脚注

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  1. ^ 筆記用具が見当たらないため、誓文/盟書を持つビチクチでないと分かる(宮2016,443頁)
  2. ^ 杉山2004,236-237頁
  3. ^ 高橋2017,205-206頁
  4. ^ 宮2016,360頁
  5. ^ 訳文は宮2016,445頁より引用
  6. ^ 『大元通制』や『至正條格』といった書籍が「祖宗制誥」「條格」「断例」の三部構成になっているのは、このような「大典」を踏襲したためと考えられている(宮2016,443頁)
  7. ^ 高橋2017,146-157頁
  8. ^ チョクト2010,3-12頁
  9. ^ チョクト2010,148-154頁
  10. ^ 宇野2002,149-150頁
  11. ^ 宇野2002,150-151頁
  12. ^ 宇野2002,151頁
  13. ^ 宇野2002,151-153頁
  14. ^ チョクト2010,118-130頁
  15. ^ チョクト2010,68-87頁
  16. ^ チョクト2010,88-147頁

参考資料

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  • 宇野伸浩「チンギス・カンの大ヤサ再考」『中国史学』12号、2002年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 高橋文治ほか『「元典章」が語ること 元代法令集の諸相』大阪大学出版会、2017年
  • 宮紀子「『元典章』が語るフレグ・ウルスの重大事変」『東方学報』91冊、2016年
  • チョクト『チンギス・カンの法』山川出版社、2010年