一円破顔
一円破顔(いちえんはがん、1952年〈昭和27年〉10月14日 - 2020年〈令和2年〉9月12日)は日本の画家、書家、彫刻家。本名は山田順久。東京都生まれ。
一円破顔 | |
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![]() 自画像 | |
本名 | 山田順久 |
誕生日 | 1952年10月14日 |
出生地 | 東京都文京区 |
死没年 | 2020年9月12日 |
死没地 | 兵庫県加古郡稲美町 |
墓地 | 東京都文京区西信寺 |
国籍 | 🇯🇵日本国 |
芸術分野 | 画家、書家、彫刻家 |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7a/%E8%A1%97%E8%B7%AF%E6%A8%B9.jpg/220px-%E8%A1%97%E8%B7%AF%E6%A8%B9.jpg)
13歳のとき、ゴッホの作品に芸術的感銘を受け、画家を志す。各種の表現様式を独学で遍歴し、19歳で﹁絵画の究極的本質は、丸ひとつでも、その表現が可能である﹂という直感を得る。以降、仏教にも造詣を深め、絵と書を、表現方法の両輪として創作活動を展開。自身の体験を通して辿り着いた﹁芸術は人間の霊性の表現である﹂という哲学的信条のもと、62才まで画家、書家として専心する。その後、雅号を﹁爪弾菴無才︵そうだんあんむさい︶﹂と改め、模写職人を自称して西洋名画の肉筆模写を仕事とする傍ら、書を通して﹁人間の霊性﹂を世に問い続ける︵“思想”欄を参照︶。2020年︵令和2年︶9月12日、アトリエ兼、書画教室﹁爪弾菴﹂にて生涯を閉じる。享年67歳。死因は大動脈解離。
生涯
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1952年︵昭和27年︶父・山田英幸、母・澄江のもと、東京都にて出生。
1956年︵昭和31年︶4歳にして、人の顔の特徴を記憶して絵に描くなど、特異な才能を発揮。
1962年︵昭和37年︶小学校5年の頃より、﹁死﹂に対する疑問を感じ始め、無常感を抱くようになる。すでに構図、形、色彩を思い通りに表現できる技術を体得するが、同時に﹁絵は何のために描くものなのか﹂という疑問にも突き当たる。
1966年︵昭和41年︶14歳のとき、ロダン展で見た﹁パンセ﹂に感銘を受け、真の芸術の在り方に目覚める。
1971年︵昭和46年︶表現対象を前に、その感動を直接タッチのリズムに還元する表現方法によって、完全に形からの解放が可能となる﹁分解派﹂を自ら創案。
1972年︵昭和47年︶表現の限界に直面し、制作意図や技術的方法論もないまま作品が出来上がる﹁空絶境﹂に至る。その後、形に対するこだわりが取れ、人間生活を愛おしむ心境から﹁アパート風景シリーズ﹂の制作へ。一方で、絵画的効果の究極表現としての﹁円﹂を描くようになる。
1973年︵昭和48年︶﹁大化仏立像図﹂を完成。白隠禅師の﹁円相﹂に出会い、宗教世界における先人の遺業に、一般芸術の及び難い世界があることを知る。良寛、仙厓、慈雲、円空などの作品にも触れ、その墨跡 ︵禅僧の書︶の影響のもと、作品制作において書と絵が同等の重きをなすようになる。﹁円相﹂の書写が行となり始める。
油彩﹁トタン壁のアパート﹂
この頃より、一円破顔と号する。﹁一円﹂は一円相に由来するが、また敬愛する一休、一遍、円空などの字を選び取って名付けたもの。﹁破顔﹂は愛犬の死に際して、それ迄の死への深い疑念から、﹁生死是夢﹂﹁生如死﹂︵生きていること自体、死んでいるようなもの︶と了悟した結果、喜びがあふれ出る心境に至り、その﹁破顔一笑﹂の境地より命名する。
1976年︵昭和51年︶結婚を機に﹁一円平語法語集﹂を発行。
1979年︵昭和54年︶置き字作品﹁百非百語﹂シリーズの制作開始。
1983年︵昭和58年︶﹁一円破顔作品展図録﹂を発行。
1984年︵昭和59年︶﹁良寛図シリーズ﹂の制作を開始。仏教雑誌﹁大法輪﹂に﹁良寛かく恋慕﹂を連載。翌年、長野県に移住。
1986年︵昭和61年︶絵葉書﹁良寛﹂発行。春秋社発行﹁春秋﹂7月号より﹁円相毒讃﹂を連載。9月より仏教雑誌﹁大法輪﹂に﹁心師一語﹂を連載。
墨筆﹁円相﹂
1987年︵昭和62年︶﹁如来図シリーズ﹂の制作を開始。翌年、兵庫県に移住。
1988年︵昭和63年︶書道誌﹁永和﹂︵中村山雨主宰︶に﹁書と絵の交わる所﹂を連載。書道誌﹁書芸﹂︵坂田聖峯主宰︶に﹁創作秘要﹂を連載。
1989年︵平成元年︶小冊子﹁見えない心を見つめれば﹂を発行。
1990年︵平成2年︶ コスモリング︵三重円相︶を感得。以後これを花押として使用。ゴッホの没年︵37歳︶に達したことを記念し、﹁一円破顔自画像集 〜実写の呻︵うめ︶きをみつめて〜﹂を発行。
1992年︵平成4年︶﹁一円破顔風景画集﹂︵絵葉書︶を発行。
油彩﹁五重塔﹂
1998年︵平成10年︶﹁不生の心性とは何か﹂を発行。
1999年︵平成11年︶﹁玄峰禅師坐像﹂ ︵彫塑︶を制作。
2001年︵平成13年︶ 玄峰禅師語録﹁性根玉の禅﹂シリーズを制作。
2002年︵平成14年︶ 樋口一葉シリーズ﹁一葉紙芝居日記﹂﹁一葉百葉﹂を制作。
2003年︵平成15年︶﹁編笠独語シリーズ﹂の制作を開始。
2006年︵平成18年︶﹁ヴィンセント︵・ヴァン・ゴッホ︶との対話﹂︵創作対話集︶を発行。
2007年︵平成19年︶﹁アッラ・プリマ法による“表情”のある石膏デッサン﹂︵デッサン技法書︶を発行。
﹁一葉紙芝居日記﹂
2008年︵平成20年︶本郷法真寺一葉会館にて、樋口一葉ファンの有志により﹁一葉日記絵展﹂を開催。横浜ザイムにて﹁ゴッホとの対話展﹂を開催。
2012年︵平成24年︶﹁画業60年展﹂を開催。
2015年︵平成27年︶置き字作品集﹁死んでも仏にはなれません﹂を発行。雅号を﹁一円破顔︵いちえんはがん︶﹂から﹁爪弾菴無才︵そうだんあんむさい︶﹂に改名。
2017年︵平成29年︶﹁山本玄峰禅師遺墨集〜悟りの力・心の光〜﹂を発行。
模写﹁ポーリーヌ・V・オノの肖像﹂︵ミレー︶
2019年︵令和元年︶江戸時代の傑僧、盤珪禅師の説法を揮毫︵きごう︶し、解説した﹁不生の哲学~念に仕替えねば仏なり~﹂を発行。
2020年︵令和2年︶アトリエ兼、絵画教室﹁爪弾菴﹂にて死没。享年67歳。死因は大動脈解離。
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画論(“一円破顔作品展図録”より要約)
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芸術の極意は、“フォルム︵形︶を﹁命のバランス﹂で抑え込む” ことである。そのためには、まず﹁自分の命のリズム﹂を体得しなければならない。自分の﹁命のリズム﹂とは、生来人間に備わっている、大自然の働きの純然たる鼓動、呼吸感に基づくもの。この﹁命のリズム﹂を自覚し、それを一つの行為の完結過程︵起承転結︶の中で把握すると、﹁命のリズム﹂の均衡、調和が浮かび上がる。これを﹁命のバランス﹂と名付ける。生命は動いて止まぬもの、一方のフォルムは静止し固定化したもの。この動と静の交わる所に﹁自在﹂が生じ、その現出には、“フォルムを﹁命のバランス﹂で抑え込む” ことが極意となる。自己の﹁命のバランス﹂を把握しなければ、“フォルムを抑え込む”ことは当然出来ず、逆に自己の﹁命のバランス﹂を磨き出しさえすれば、才能など無くとも、誰でも真の芸術を生み出すことが可能。それを実現している作品の特徴として、画面に一つのエネルギーの中心があり、そこに画面全体の力が凝縮され、こんどはその中心から無限大にエネルギーが拡がっていく、という反復運動を繰り返す︵画面を鏡像、または裏返しの状態で見ると、エネルギーの反復運動が破綻することにも注目︶。モネの﹁印象・日の出﹂や、ピサロの﹁村の入り口﹂、ゴッホの﹁自画像︵サン=レミ時代︶﹂︵ギャラリー欄を参照︶などがその法則を現じている。
思想(“不生の哲学”より要約)
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江戸期の傑僧・盤珪禅師の説く﹁不生不滅﹂の﹁不生﹂とは、﹁命の場﹂と﹁今の場﹂が直につながっている状態を示す語で、それは﹁生じたり、滅したりするものではない﹂ことを言い表している︵﹁〇〇の場﹂とは、﹁今﹂や﹁命﹂が、エネルギー的、質量的対象ではなく、宇宙に遍満する﹁場﹂の性質を持つことを意味する︶。ところで﹁生命体﹂とは、外から時間的変化を受ける﹁体という容れ物﹂であると同時に、内から能動的変化する﹁命の場﹂でもある、という二重性を持つ。つまりは、宇宙にあまねく﹁今の場﹂を﹁体という容れ物﹂で囲ったものが﹁生命体﹂である、ととらえることが可能。この﹁体という容れ物﹂の内側における﹁命の場﹂と、宇宙に行き渡る﹁今の場﹂の同一性を自覚するとき、﹁命の場﹂は﹁不生なるもの﹂となり、﹁霊性︵れいせい︶﹂となって現われ働くのである。﹁霊性﹂は人間に元来備わっている本質的な感性で、それを自覚し使うことで、いくらでも豊かに深めることができる。仏教ではこの﹁霊性﹂を﹁仏性︵ぶっしょう︶﹂と呼ぶ。万物の霊長たる人間が、この﹁命の場﹂の霊妙な働きに気付かないのは宝の持ち腐れであろう。釈尊は、明けの明星︵金星︶の光を見て悟りを開いたといわれる。金星の光の﹁今﹂と、自分の命の﹁今﹂が融け合って﹁今の場﹂=﹁命の場﹂の霊妙なる絶対性を体感したのだ。盤珪禅師は、梅の香を嗅いだ瞬間、悟りの境地に至り、それを﹁不生にして霊妙なるもの﹂と表わしたのである︵書画に還元するなら、書画の命は、線や形が﹁今の場﹂をとらえているか否かにかかっている、といえる︶。