久春古丹(クシュンコタン)は、江戸時代から明治初期にかけて用いられた樺太の地名。

概要

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kus-un-kotan使

歴史

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16797 - 

16852 - 

17155 - 

21752

1772

61778

21790



18063 - 1806-1807[1][2]

18074
181310

西

18085
[3][4][5]()()



18214 - 

18463 - 西  

18536 - 

18547
 

518 - 48



18547
612

18552 - [6]

18563 - 58調

34(185657)41

1860
4

1862 2
西5

18633 - 3



18673
225調[7]48

6 - 1258

18684
412 - (424)

6 - ()8



18692 - 使

18703213 - 使使

1871487 - 使使

18725
()

89923

12218721231

18736 - 

1875(8)
213


運上屋

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21790

89

121800

1809(6) - ()[8]()500 2




脚注

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  1. ^ 前田孝和、「旧樺太時代の神社について -併せて北方領土の神社について-」『年報 非文字資料研究』 2015年 11号 p.1-36, 神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
  2. ^ 前田孝和「樺太の神社の終戦顛末」『非文字資料研究』 2012年 27号 p.10-15, 神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
  3. ^ 稚内史 第三章 松田伝十郎と間宮林蔵の樺太踏査
  4. ^ 池添博彦、「北蝦夷地紀行の食文化考 北夷分界余話について」『帯広大谷短期大学紀要』 1993 年 30 巻 p. A51-A60, doi:10.20682/oojc.30.0_A51
  5. ^ 松浦美由紀, 池添博彦、「北蝦夷地紀行の食文化考 東韃地方紀行および北蝦夷餘誌について」『帯広大谷短期大学紀要』 1994年 31巻 p.1-12, doi:10.20682/oojc.31.0_1
  6. ^ 榎森進、「「日露和親条約」がカラフト島を両国の雑居地としたとする説は正しいか」『東北文化研究所紀』2013年 l45号 p.1-22, NCID AN00167466, NAID 120005732776, 東北学院大学東北文化研究所
  7. ^ 秋月俊幸、「明治初年の樺太 日露雑居をめぐる諸問題」『スラヴ研究』 1993年 40巻 p.1-21, 北海道大学スラブ研究センター, NAID 110000189426
  8. ^ 田島佳也、「近世期~明治初期、北海道・樺太・千島の海で操業した紀州漁民・商人」『知多半島の歴史と現在(16) 』 2015年 19巻, ISSN 0915-4833,日本福祉大学知多半島総合研究所, NAID 120005724562

外部リンク

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関連項目

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