冊封国
冊封国(さくほうこく)とは、前近代の東アジアで中国王朝を中心とした冊封体制の下で、中国王朝を宗主国とした従属国のこと。藩邦・藩属国・服属国なども言う。
概要
編集日本
編集朝鮮半島
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朝鮮では紀元前3世紀頃、前漢初期に衛氏朝鮮が冊封されて以来、1895年に日清戦争で日本が清を破り、下関条約によって朝鮮を独立国と認めさせるまで、ほぼ一貫して中国の冊封国であった。高麗では国王が亡くなると、中国︵宋︶から冊封使が来て承認が得られるまで﹁権知国事﹂というつなぎの称号まであった。琉球など他の冊封国では国王が亡くなれば新たな国王がすぐに継ぎ、中国からの﹁事後承認﹂を得る形であったが、朝鮮だけは﹁事前承認﹂を得る形を取っており、﹁中国の許し﹂を重視していたといわれる[3]。高麗王位を簒奪して高麗王を称した太祖李成桂は、即位するとすぐに権知高麗国事と称して明に使節を送り、権知高麗国事としての地位を認められた。明より王朝交代に伴う国号変更の要請をうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、洪武帝が﹁国号はどう改めるのか、すみやかに知らせよ﹂といってきたので、高麗のほうでは﹁朝鮮﹂と﹁和寧﹂の二つの候補を準備して洪武帝に選んでもらった。和寧は北元の本拠地カラコルムの別名であったので、洪武帝は、むかし前漢の武帝にほろぼされた王国の名前である﹁朝鮮﹂を選んだ、そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより朝鮮を国号とした。和寧と言うのは李成桂の出身地の名であり、現在では国号の本命ではなかったとの意見が多い。清代には、黄金100両、白銀1000両の他、牛3000頭、馬3000頭など20項目余りの物品を献上したが毎年朝貢した記録や[4][5]、閔妃が自身の子︵純宗︶を王世子︵世継ぎ︶とさせるため、側近を清へ派遣して自身の子を嫡子として承認︵冊封︶してもらっていた記録が残っている[6]。
ベトナム
編集関連項目
編集参考文献
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(一)^ 原田環﹁東アジアの国際関係とその近代化-朝鮮と越南-﹂︵PDF︶﹃日韓歴史共同研究委員会 第一期 第3分科報告書﹄、日韓文化交流基金、2005年3月、73―102頁。
(二)^
北岡伸一﹁近代日中関係の発端﹂︵PDF︶﹃第1期﹁日中歴史共同研究﹂報告書﹄、外務省、2010年1月。
(三)^ 井沢元彦﹃やっかいな隣人 韓国の正体﹄
(四)^ ﹃仁祖実録﹄34卷15年 正月28日 (戊辰)
崇德二年正月二十八日。歲幣以黃金一百兩、白銀一千兩、水牛角弓面二百副、豹皮一百張、鹿皮一百張、茶千包、水㺚皮四百張、靑皮三百張、胡椒十斗、好腰刀二十六把、蘇木二百斤、好大紙一千卷、順刀十把、好小紙一千五百卷、五爪龍席四領、各樣花席四十領、白苧布二百匹、各色綿紬二千匹、各色細麻布四百匹、各色細布一萬匹、布一千四百匹、米一萬包爲定式。
同、3月
(五)^ 仁祖46卷, 23年(1645 乙酉 / (順治) 2年) 閏6月5日(乙酉)
○淸人減歲幣細麻布一百匹、諸色紬七百匹、諸色木綿布四千一百匹、蘇木二百斤、茶一千包、佩刀二十把。
(六)^ ﹃韓国 堕落の2000年史﹄ 崔基鎬