別所 (地名解釈)
別所(べっしょ)とは、歴史家菊池山哉によれば大和王権(律令政府)が蝦夷(えみし)を征服した際の戦争捕虜(俘囚)を古郷に3~4戸ずつ配置した集住地域を言う。
学史
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菊池山哉の旧説であり、いまだ歴史学上の完全な定説となってはいない。本村の新田や枝郷とする解釈もある。しかし近年、柴田弘武によって本格的な再検討がなされつつある。柴田は更に約300ヶ所の別所を析出し、菊池の調査分と合わせて計約500ヶ所の別所を検討した結果、﹁菊池の説は動かし難いと思う﹂︵﹃鉄と俘囚の古代史﹄︶と述べている。
菊池山哉は﹁古く音読の地名は、官符に関係あるものに限るようです﹂とし、音読の﹁別所﹂︵ベッショ︶を官符関係のものと推定している。﹃延喜式﹄には﹁俘囚料﹂の﹁計帳﹂があり、811年︵弘仁2︶3月に﹁始めて諸国をして俘囚計帳を進めしむ﹂とある。菊池の説はこの﹁俘囚﹂の移配地を﹁別所﹂と考えるものである。﹁移配﹂は菊池の造語。
菊池山哉のまとめた特徴のいくつか
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※﹃日本の特殊部落﹄︵東京史談会・1961年︶による。ただし、現代の歴史学では否定されている事象を含むので要注意。
(一)全国に200余ヶ所もの同名の地があるので、そこには何か﹁同じ性格﹂があるだろう。蝦夷の奥羽6カ国と、隼人の薩摩国と、﹁他国と異なり﹂と言われた飛騨国には無い。
(二)山間僻地や丘陵に囲まれた地にある。︵山間僻地で円仁︵慈覚大師︶による建立の伝承のあるところ、古い東光寺のあるところ、白山権現を鎮守としているところは別所の可能性がある。︶
(三)武蔵の足立郡・入間郡では﹃和名抄﹄所載の古郷に一ヶ所ずつ存在する。
(四)西日本では国境・群界にある。
(五)草分は2~3軒、多くとも4~5軒であり、名主もなく、明治維新の際に名字をつけた。
(六)石棒を祀るところがあり、縄文時代とのつながりを思わせる。
(七)1郡に1ヶ村位の割であり、勅願寺と伝えられるものや古い社寺があり、平安時代の古像も存在する。
(八)近畿以東の鎮守は白山権現である。
(九)﹁院内村﹂も別所と同じく﹁俘囚﹂の移配地である。