新田

新たに開墾された地域


江戸期の人口増加と食糧増産

編集

[1] 17湿180025003000

湿

17810



[2]

新田の分類

編集










調101





















便

畿内

編集

畿内では淀川水系の治水と同時に、大和川付け替えの跡地や大阪湾岸の河口の浅瀬で次々と商人による新田開発が行われた。大阪平野の多くの土地はこの時期に水辺から陸地になった場所が多く、こうした新田の名には開発した商人の名がつけられ、現在でも土地の地名に商人の名に由来するものが多く残っている。(例:鴻池家が開発した鴻池新田など)これら新田には「会所」(かいしょ/かいじょ)と呼ばれる管理事務所があり、小作人からの年貢米徴収・貯蔵や、新田の堤防・水路などの維持管理業務、役人への応対などを行っていた。

中部

編集

享保の改革を受けた商人たちによって、越後国紫雲寺潟(しうんじがた、新田開発の中でも日本最大級のもの)や、濃尾平野木曽川河口部でも、大規模な町人請負新田の開発が行われた。木曽川下流域は多くの水路が引かれ扇状地が水田になったほか、河口の干潟が次々干拓されて水田に変えられていった。もっとも、木曽川はすさまじい水害で知られる川だったため、住民は輪中を築いて対抗することになる。

関東

編集

関東平野では17世紀以降に利根川など大河の流れが、水害防止や水上輸送の便のため大きく付け替えられ(利根川東遷事業)、これに合わせて農民や幕府、藩の手で旧河道や沼地、丘陵地などの新田開発が行われた。代表的なものは、代官や勘定所など幕府官僚による「飯沼」や「見沼」、「椿海」といった巨大な湖沼の干拓・新田化、武蔵野台地では川越藩主の松平信綱による玉川上水野火止用水など新田開発のためのいくつもの用水路建設、同じく川越藩主の柳沢吉保による三富新田開発、小宮山杢進による、下総小金牧周辺の原野新田の開発などが知られる。それまで雑木林や湿地帯などの荒地だった関東平野の多くは、江戸時代以降急速に農地化した。

東北、中国、九州

編集

このほか、東北地方の各地、吉備の穴海児島湾有明海などで河口・沼・干潟の農地化・新田開発が進められ、農地が広がった。特に東北など、それまで辺境だった地域でも米の生産が急上昇して、その経済が潤い文化の発展に繋がった。

新田開発の苦難

編集





19272913[3]42323[4]

脚注

編集
  1. ^ 日本の人口推移/16世紀から17世紀にかけて人口の激増が見られる
  2. ^ 武井弘一 著 中塚武 監修「第三章 文化期の気候と加賀藩農政」『気候変動から読み直す日本史6 近世の列島を俯瞰する』p110-111 2020年11月30日 臨川書店 全国書誌番号:23471480
  3. ^ 目をそむける被災地の惨状『福岡日日新聞』昭和2年9月15日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p166 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  4. ^ 昭和2年高潮被害”. 熊本県ホームページ (2020年10月1日). 2023年6月12日閲覧。

関連項目

編集

外部リンク

編集