加藤の乱

2000年に日本の自由民主党内で発生した一連の倒閣運動

加藤の乱(かとうのらん)は、2000年11月第2次森内閣打倒を目指して、与党自由民主党加藤紘一山崎拓らが起こした、一連の倒閣運動

中心人物の加藤紘一(1985年)
中心人物の山崎拓(2005年)

概要

編集

2000121120調

48027231451964



3YKK

遠因

編集

19992

2YKK

YKK

20011998


加藤の戦略

編集

22 NHK72000117



使[1][2]

2000[1]

加藤の発言

編集





119[3][2]

[4]











100%

17




ハプニング解散

編集


周辺の発言や行動

編集

橋本龍太郎

編集

11月11日夜、東京・紀尾井町赤坂プリンスホテルで開かれた主流5派閥の会合にて「加藤は熱いフライパンの上でネコ踊りさせておけばいい」と発言した。 この発言以前にも、各有力者が加藤を批判するコメントを出していたが、エスカレートして橋本がこの発言を行った。加藤を応援する側の世論から格好の批判対象となり、主流派の中からもこのコメントに対して下品だと批判が出た。

小泉純一郎

編集

!?YKK



TBSYKK

YKKYKKYKK

野中広務

編集

姿

19961999

退

宮澤喜一

編集






古賀誠

編集

加藤の側近であり、また野中とも親しかった古賀誠は一転して加藤派の大半を反加藤でまとめた。これにより、論功行賞で野中より幹事長ポストを譲られることとなった。

菅義偉

編集

加藤派の一員であった菅義偉は乱の後、「しらーって感じですよ。首相の首を取るというから、命懸けでやったのに」とぼやいて加藤と距離を置き、後に派閥を離脱した[5]

岸田文雄

編集

4[6][7]

20202020212

民主党・自由党

編集

1117

1120[3]

加藤派・山崎派の現役閣僚の動き

編集

2[4]

1253

執行部の切り崩し工作

編集

調[8]

20001117[8]

調調[8]

便

顛末

編集

党内の国会議員に同調者が広がらず、ベテラン議員の中に保守本流を自認する自派が党を割ることや野党の不信任案に同調するという禁じ手への不満・不安がある中で、野中を中心とする執行部が除名を強硬に主張して切り崩された結果、加藤の腹心でもある小里貞利総務会長の説得を受け入れ欠席戦術に切り替えた。これを加藤は涙ながらに「名誉ある撤退」と呼んだ。

「大将なんだから」

編集



9302!!![9]





[10]421[11]

派閥の分裂

編集









1990退













2008
  • また、上記どちらのグループにも属さず、一時無所属、あるいは現在も無所属を通している議員も存在する。

加藤派

編集



26[12]2002



220012

山崎派

編集

一方、山崎派の離脱者は、現役閣僚のために身動きが取れなかった保岡興治を除けば実質1人(稲葉大和)に留まり、派閥の結束を党内に知らしめた。乱に参加したこと自体には党内から批判を浴びたものの、小所帯ながらも、かつて鉄の団結を誇った田中派を彷彿とさせる結束に党内から感嘆の声が上がった。

しかしながら結束は保ったとは言え、加藤の乱以後は内閣改造で保岡が閣僚離任をして山崎派の閣僚が1人もいなくなり、党内での影響力は更に落ち込み窮していた。この間、加藤派との合流や民主党への合流が噂されたが、小泉総裁誕生後は山崎が幹事長、その後副総裁に就任し、主流派となるなど、山崎と山崎派は党内で影響力を維持することに成功した。

橋本派

編集

主流派・執行部側として乱の沈静化にあたった野中を中心とする橋本派は面目躍如となった。しかし、決議案投票に若手数人が棄権した。鉄の団結を誇るとされた橋本派の足元が最初に揺らいだ場面となった。それまでにも分裂等を経験していた橋本派であったが、それまでの分裂・離脱は派内有力者に引っ張られるケースであった。今回の離脱は、若手自らの意思によるもので派閥の影響力にほころびが見えてきた例となった。

以前からの森の不適切発言が連続し支持率が急落していたため橋本派内では森擁護の意欲が薄れていた。加藤の乱自体は徹底して沈静化したものの、乱沈静化前後で「乱そのものは徹底的に鎮圧するが、決して森内閣を今後も支援していくわけではない」といったニュアンスの発言が橋本派幹部から多々出ており、既に橋本派内で森政権維持を断念・拒否したとすら見られる動きが出ていた。乱後は森政権から距離を置き始め、ポスト森を模索するようになった。これに小泉が激怒して当初は勝ち目のないと言われた総裁選出馬へ向かう事になる。

森喜朗

編集



20012005

20079調

8200869

不信任決議案における投票行動

編集

賛成(190人)

編集

反対(237人)

編集

欠席(51人)

編集

この「欠席」は棄権と同義。

退場(1人)

編集

本会議に欠席した自民党議員

編集

宏池会(加藤派)

編集

近未来政治研究会(山崎派)

編集

平成研究会(橋本派)

編集

無派閥

編集

備考

編集

マスコミの反応

編集

マスコミやマスコミの言うところの国民にとって、最も「分り辛い」点として、現内閣への内閣不信任案に同調しながらも、離党は絶対にしないという理論が乱中に何度も取り上げられ、加藤本人への突っ込みでも何度も使われた。加藤本人は、「過去に自民党を改革しようとして離党した人たちが度々いたが、一時の盛り上がりだけで、毎度いずれエネルギーを失ってしまっている。結局、改革に繋がらない行動になっている。だから、私たちは中でやる。」という主張を度々繰りかえしたが、マスコミには「それでも分り辛い」と評されていた。

本会議場でのコップ水事件

編集



寿[13][14]

稿退25

早坂茂三

編集

加藤の意思表明の会合に出席していた早坂茂三は、翌2001年正月に放送された「平成日本のよふけ」スペシャルの中で加藤の乱について触れ、『自作自演のうちにあっという間に鎮圧された』『加藤は度胸ゼロ、東大法学部出身の悪い例』などと加藤を酷評している。

勘違い?

編集

2007年6月29日、衆議院に安倍内閣不信任決議案が提出された際、加藤は賛成を意味する白票を持って壇上に上がった。「加藤の乱」の再発かと一時危惧されたが、加藤は白票を渡す直前にあわてて自分の席に戻り反対を意味する青票に持ち替えた。

本人曰く、与党議員は法案の採決でよく白票を使うために起きた単なる勘違いであったとのことだが、「本音は賛成だったのではないか」という周りの声もある。安倍は旧森派に属していた。

脚注

編集

注釈

編集


(一)^ 

(二)^ 

(三)^ 1993

(四)^ 19932

出典

編集


(一)^   2011610244-248ISBN 978-4167802028

(二)^   2011610248ISBN 978-4167802028

(三)^ 2, pp. 140141.

(四)^    2017105263-264ISBN 978-4022503381

(五)^  . . (2020918). https://www.asahi.com/articles/ASN9K7J0VN9GUTFK04C.html?iref=comtop_8_05 

(六)^  4. FNN. 2020919

(七)^ 調. . (2020915) 

(八)^ abc -- ︿2006525135-136ISBN 4121018451

(九)^ ︿ .  (2016911). 2016912

(十)^ INC, SANKEI DIGITAL (2019129). 727. . 20231221

(11)^  YKK 2016719202-204ISBN 978-4-06-220212-1

(12)^  2 /  /  NPO.  NPO. 2021119

(13)^  . . (2019121). https://www.sankei.com/article/20190129-GOACPKANZ5K3LO6NNY7S2AOHPE/?outputType=theme_portrait 202333 

(14)^ .  . 202333

参考文献

編集
  • 後藤謙次『ドキュメント 平成政治史 2 小泉劇場の時代』岩波書店、2014年6月6日。ISBN 978-4000281683 

関連項目

編集
  • レッツ・ゴー!永田町(この加藤の乱を基にした話がある。だが、こちらでは自ら一人で不信任案に賛成、その後除名処分となった。)

外部リンク

編集