助六

歌舞伎の演目の一つの通称
助六曲輪菊から転送)

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18324
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背景と題材

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 (1897) 

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18


出端の唄

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『助六』の成立と変遷

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『助六』の成立とその変遷の背景には、歴代の市川團十郎が密接に関わっている。『助六』が歌舞伎十八番では常に第一にあげられ、上演回数では群を抜いて最多、その上演時間も最も長いという、特別なものとなっているのもただの偶然ではない。

成立期

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3 (1713)







  

6 (1716)







  

18 (1733)





使 使70

  

4 (1739) 





使

   

3 (1746)





  

2 (1749)





6133

  

11 (1761)





使使

  

5 (1785)





  
  • 上演:文化2年 (1806)、河原崎座
  • 助六:初代市川男女蔵
  • 詞章:河東節(十寸見河東)
  • 備考:助六を市村羽左衛門と市川團十郎以外の役者が演じた舞台で河東節「所縁江戸櫻」が使われた唯一の例。六代目市川團十郎七回忌追善興行の演目として上演されたため。

醸成期

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8 (1811)







宿  

2 (1819)





 

宿禿 

2 (1819)





使

  

5 (1822)





  

3 (1832)





使

  

4 (1857)





 使

  

5 (1858)



  3

  
  • 上演:明治6年 (1873)、市村座
  • 助六:河原崎三升(九代目團十郎)
  • 詞章:河東節(十寸見河東)
  • 備考:九代目は明治6年から7年にかけて、養家の河原崎家から生家の堀越家に戻る際、ひとつの過渡期として「河原崎三升(かわらざき さんしょう)という名跡を10ヵ月間だけ名乗っていた。そこに歌舞伎十八番の代表格である『助六』をぶつけたのは、この直後に襲名することになっていた「九代目市川團十郎」に対する彼の意気込みの現れとみることができる。なお「江戸櫻」を「八重櫻」に替えたのは、遷都後日も浅い東京に腰を据えた新政府をはばかって「江戸」の二字を避けたもの。

今日の助六

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「助六」児島玉鳳画『歌絵百番』昭和初期

寿寿[2]








通称 外題 出端の唄 助六を務める役者
すけろく
助六
すけろく ゆかりの えどざくら
助六所縁江戸櫻
河東節 成田屋市川團十郎 及び 市川海老蔵
すけろく くるわの えどざくら
助六曲輪江戸櫻
長唄 高麗屋松本幸四郎
すけろく くるわの ももよぐさ
助六曲輪菊
清元節 音羽屋尾上菊五郎
すけろく くるわの はつざくら
助六曲輪初花櫻
長唄 松嶋屋片岡仁左衛門
すけろく さくらの ふたえおび
助六櫻二重帯
常磐津節 大和屋坂東三津五郎
すけろく くるわの いえざくら
助六曲輪澤瀉櫻
長唄 澤瀉屋市川猿之助

あらすじ

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23

 姿 






口上

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姿

並び傾城の出

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かつては両花道より金棒引きが登場し、河東節に乗って調子をとったが、大正時代を最後にして取り除かれた。そのため両花道は作らずに通常の花道だけになっている。ここで天保年間から昭和初期まで外郎売の言い立てがあったが、これも取り除かれて久しい。くわんぺら門兵衛・白玉と、白玉と白酒売のやりとりも取り除かれている(この場面で白酒売は白酒を売り歩き、これで客はこの男が白酒売であることがわかるわけだが、それが取り除かれているのである)。現在は、並び傾城が登場し、割り台詞を言った後に揚巻の出となる。

揚巻の出

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三浦屋揚巻
成駒屋四代目中村福助


満江からの手紙

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意休の出

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髭の意休
四代目中村芝翫

調


助六の出

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花川戸助六
九代目市川團十郎
 
十一代目市川團十郎演じる助六(1966年)

20

助六が本舞台へ

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 鹿姿

くわんぺら門兵衛と福山のかつぎ

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使使

朝顔仙平と頭への下駄乗せ

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 殿



   


白酒売の出

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股くぐり

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満江の出

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揚巻助六の痴話喧嘩

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意休再登場

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姿禿 禿

水入り

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217

助六の塚

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7代目市川團十郎は助六の百六十年忌法要を文化9年(1812年)に日照山易行院不退寺(易行院)で営んだ(当時は浅草にあり関東大震災後に足立区東伊興に移転)[2]。易行院に建立された「助六の塚」の裏面には成田屋の屋号が刻まれており、足立区登録有形文化財になっている(1983年12月16日登録)[2]

助六寿司

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助六寿司

寿寿寿寿

1921

脚注

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注釈

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(一)^ 

(二)^ ()

出典

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  1. ^ 添田唖蝉坊浅草底流記』近代生活社、1930年 p.295
  2. ^ a b 助六の塚”. 足立区. 2022年8月22日閲覧。

外部サイト

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