大森貝塚
大森貝塚(おおもりかいづか)は、東京都品川区・大田区にある縄文時代後期から末期の貝塚。発見者のエドワード・S・モースの名を冠してモース貝塚(モースかいづか)とも。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b0/Omori_Shell_Mound%2C_sekihi-3.jpg/300px-Omori_Shell_Mound%2C_sekihi-3.jpg)
歴史
編集-
大森貝塚遺跡庭園展示の貝層
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石器・人骨
東京大学総合研究博物館展示。 -
土器・土製品
東京大学総合研究博物館展示。
2つの貝塚碑
編集現在、大森貝塚に関する石碑は、品川区側の遺跡一帯に整備された大森貝塚遺跡庭園(品川区大井六丁目21)[注釈 1][1]内と、大田区側の大森駅近くのNTTデータ大森山王ビル横の小道を線路側に入り進んだ場所(大田区山王一丁目3)の2ヵ所にある。前者は横書きで右から「大森貝塚」、後者は縦書きで「大森貝墟」と書かれており、貝塚碑は1929年(昭和4年)11月に、貝墟碑は1930年(昭和5年)に相次いで建てられた。貝塚碑は、上部に縄文後期の深鉢をあしらい、碑額には「 The Site of the Omori Mounds discovered by Professor Edward S.Morse 」(エドワード・S・モース教授によって発見された大森貝塚跡)とあり、貝墟碑は、高さ2メートルを超える板碑で、碑面には「我国最初之発見 大森貝墟 理学博士佐々木忠次郎書」とあり、また、「明治十年モース先生の発見に係り門下生生理学博士佐々木忠次郎松浦佐用彦両氏と共に発掘研究せし顕著なる遺跡也昭和五年四月建立」とある。
モースが論文に発掘場所の詳細を記載しなかったこと、貝塚発見の報告文書に所在地が大森村と記述されたことから、当初の発掘地点について長い間、品川区説と大田区説の2つが存在した。しかし、1984年(昭和59年)までの複数の調査により、東京府が大井村字鹿島谷(現在の品川区大井6丁目)の土地所有者に調査の補償金50円を支払った文書が発見されたこと、貝塚碑周辺の再発掘で貝層が確認された一方、貝墟碑周辺では見つからなかったことから、現在では品川区で調査したことが判明した。なお、両者は約300メートルの距離である。
「東京大学法理文学部第六年報」によると、発掘地は「荏原郡大井町」(現在の品川区大井六丁目)である。
モースと小シーボルト
編集時代背景
編集文化財
編集重要文化財(国指定)
編集国の重要文化財「大森貝塚出土品」の明細
- 土器類
- 壺形土器 2箇
- 鉢形土器 5箇
- 浅鉢形土器 2箇
- 埦形土器 4箇
- 台付土器 1箇
- 注口土器 1箇
- 釣手形土器 1箇
- 石器類
- 打製石斧 1箇
- 砥石 2箇
- 土版残欠 5箇
- 土錐形土製品残欠 1箇
- 石棒残欠 3箇
- (附指定)土器破片 一括
- (附指定)人骨・獣骨・鳥骨・貝類等 一括
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台付土器
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深鉢土器
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吊手土器
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浅鉢土器
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注口土器
国の史跡
編集- 大森貝塚 - 1955年(昭和30年)3月24日指定、1986年(昭和61年)8月16日に史跡範囲の追加指定[4]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集関連項目
編集外部リンク
編集座標: 北緯35度35分26.8秒 東経139度43分45.0秒 / 北緯35.590778度 東経139.729167度