大橋熊雄
大橋 熊雄︵おおはし くまお、1894年︵明治27年︶11月20日 - 1944年︵昭和19年︶4月14日︶は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。駐蒙軍政治参謀。愛知大学の森久男は、蒙古連合自治政府の成立にあたって大橋が、﹁陸軍省との渉外事項を担当して、蒙疆地域の政治的統合に決定的役割を果たした﹂と指摘している[1]。
生誕 |
1894年11月20日![]() |
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死没 |
1944年4月14日![]() |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
最終階級 |
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出身校 | 陸軍大学校卒業 |
経歴
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新潟県出身。
1914年︵大正3年︶、新潟県立長岡中学校を卒業︵第19回︶[2]し︵三井銀行副社長、三井不動産会長を歴任した御手洗修氏、慈恵医大教授樋口助弘氏と旧制長岡中学で同期︶、1917年︵大正6年︶、陸軍士官学校︵第29期︶を卒業[3]。1927年︵昭和2年︶、陸軍大学校を卒業︵第39期︶する。
1936年︵昭和11年︶二・二六事件の軍事裁判官を務める。関東軍参謀に就任。1938年︵昭和13年︶に駐蒙兵団参謀に転任となる。駐蒙軍高級参謀として、蒙古連合自治政府の成立に関与する[1]。
1940年︵昭和15年︶、歩兵第11連隊長に就任、翌年︵1941年︵昭和16年︶︶に第51師団参謀長に就任、1942年︵昭和17年︶、山東省特務機関長に就任する。
1943年6月10日、北支那方面軍特務部長に昇進し、北支那方面軍特別警備隊を組織し9月20日から駐屯した。北京市と天津市の2つの特別市で、中国共産党の秘密組織とその活動の調査に着手する[4]。
1944年1月下旬、中国共産党北部局の北京情報機関を捜索し47人を逮捕する。3月には北京や天津などにある蔣介石の秘密組織を摘発する[5]。4月14日、北京陸軍病院で急性肺炎のため戦病死。なお、中国の資料︵抗日戦争記念網・中国側資料︶には、中国共産党地下党員によって暗殺されたと記載されている[6]。
死後、戦功により陸軍中将[7]。
脚注
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(一)^ ab森久男﹁金井章次の民族協和論﹂﹃愛知大学国際問題研究所紀要﹄第159号、愛知大学国際問題研究所、2022年2月、53-76頁、CRID 1050573947568271744、ISSN 05157781。
(二)^ ﹃新潟県立長岡高校同窓会 同窓会員名簿﹄株式会社旭出版、2010年、84頁。
(三)^ 大蔵省印刷局﹁官報 1917年05月28日 ︵大正6年︶﹂、日本マイクロ写真 (製作)、1917年、doi:10.11501/2953558、NDLJP:2953558、2024年7月5日閲覧“国立国会図書館デジタルコレクション.ログインなしで閲覧可能”
(四)^ “抗日戦争記念網・大橋熊雄参考資料”. 抗日戦争記念網. 2024年4月14日閲覧。
(五)^ “抗日戦争記念網・大橋熊雄参考資料”. 抗日戦争記念網. 2024年4月14日閲覧。
(六)^ “大橋熊雄” (中国語). 大橋熊雄参考資料. 抗日戦争記念網. 2024年4月2日閲覧。
(七)^ “第83号 昭和19年5月6日 陸軍異動通報”. www.jacar.archives.go.jp. 2024年4月6日閲覧。