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経歴

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  • 御田(みた)作る 青人草(あおひとぐさ)は あし原の みずほの国の 本つ御民ぞ

幽冥界への関心

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寺澤立敬との邂逅

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杉山山人の御肖像図掛け軸

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仙境異聞の中で篤胤が質疑した高山寅吉の話によると、彼を幽冥より指導されたる師の名「…杉山々人高根命と称す神に坐ましければ、其の神の御肖像を画きて掛軸に表装し拝み祭らまほしとて遥かに神にも願まほせしかは、御免の兆も見えにしままに文政6年巳の歳寅吉十六歳にて彼神の御姿拝奉りて覚えし儘を物語るを、御形として門下の芦澤洞栄翁七十三歳にて正眼に拝みし事なく寅吉か語るまにまに画きたるに、奇しきまでに御姿の儘肖像は出来にける」この尊図の副図を絵師でもある芦澤翁の弟子の一人に画かせて弟子がこの真図を秘蔵していたらしいが、富める商人のその弟子は、しばらくして何故か身を持ち崩し、挙句の果ては金子に困り果てて某書肆にこの真図も一緒に処分したらしい。

天保7年神無月に下総から平田塾に往く旅の途中に、宮負がたまたまこの書肆に立ち寄ったら、その店に、杉山山人の軸が掛っており大事なものであるが故に、購って平田宗家篤胤の元に持参した。

平田はこの尊図の経緯をよく知っており「其の売りたるは昨日今日の事なるべし、然るに此の広き大江戸の幾千万の人の中に人こそ無かれ汝下総の宮負定雄か手に渡りて吾家に持ち帰りしは実に神の御心にて汝に授け給へるならん、家に持往き守り神と斎き祭れ」と語った。これ以後、定雄は師の言葉通りに嘉永7年迄の19年間持ち伝えていた。

その年の春、ある知人の一人から、神仙に遣われて幽界に往来する紀州若山の島田幸安の存在を聞かされる事となる。その童子の話によると、「大江戸の平田宗家に伝わる杉山山人の肖像図は、現界に留め置く事は叶わず即刻処分すべきものである」とのこと。この話を知人より聞かされた宮負は感じ入る事もあったようだが、それからしばらくして宮負の手元にあった掛軸は紛失してしまう事になる。実に不可思議に感じた宮負はその真偽を確かめるために、紀州若山の島田幸安の元に訪問する決心を固めたと言われている。

(旭市史第2巻 神界物語後序845頁より一部抜粋す)

宗家の鐵胤と島田幸安の弟子参澤との間の確執や軋轢については、それとなく耳にしていたが、定雄は熟慮の末に意を決して若山に出立する事にした。 長旅の末にようやく紀州西瓦町の島田幸安の自宅を探り当てる事が出来たが、時既に遅く幸安は所在不明となっていた。

落胆したが、桃乃舎塾主催者の参澤と邂逅し百年の知己を得た思いを抱く。 此処で幸安口授の神界物語第1巻と第2巻を筆写する。

参澤の人柄も平田門下で噂されるものとは随分と違っており、早速参澤に依頼して入門の誓詞を託し、この日を境に互いに信頼し尊敬し合って交流を続けることとなる。

神界物語の口述筆記された残りの18冊も、参澤から何度かに分けて送り届けられて、そのお礼に定雄は最終巻の後序文を認めた。

下総の宮負家には、当時参澤から秘かに伝授を受けた五岳真形図や清浄利仙君真筆の神品、仙界秘図や秘伝書類参澤の著述や蔵書の一部他数多の資料が末孫の手によって保管されていると聞く。

冥界に関する著作など

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脚注

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注釈

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出典

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参考文献

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  • 賀川隆行『集英社版日本の歴史14 崩れゆく鎖国』集英社、1992年7月。ISBN 4-08-195014-8 

外部リンク

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