ホーム
おまかせ表示
付近
ログイン
設定
寄付
ウィキペディアについて
免責事項
検索
将軍継嗣問題
言語
ウォッチリストに追加
編集
この記事は
検証可能
な
参考文献や出典
が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加
して記事の信頼性向上にご協力ください。
(
このテンプレートの使い方
)
出典検索
?
:
"将軍継嗣問題"
–
ニュース
·
書籍
·
スカラー
·
CiNii
·
J-STAGE
·
NDL
·
dlib.jp
·
ジャパンサーチ
·
TWL
(
2018年8月
)
将
軍
継
嗣
問
題
︵
し
ょ
う
ぐ
ん
け
い
し
も
ん
だ
い
︶
は
、
江
戸
幕
府
13
代
将
軍
・
徳
川
家
定
の
後
継
を
巡
っ
て
生
じ
た
政
争
で
あ
る
。
概
要
編
集
江
戸
幕
府
12
代
将
軍
徳
川
家
慶
の
嫡
男
・
家
祥
︵
後
の
家
定
︶
は
病
弱
で
言
動
も
定
か
で
は
な
か
っ
た
︵
脳
性
麻
痺
と
も
言
わ
れ
て
い
る
︶
。
そ
こ
で
、
家
慶
は
水
戸
藩
主
徳
川
斉
昭
の
子
で
一
橋
家
を
継
い
で
い
た
徳
川
慶
喜
︵
一
橋
慶
喜
︶
を
養
子
と
す
る
こ
と
を
考
え
た
が
、
老
中
阿
部
正
弘
の
反
対
で
思
い
と
ど
ま
り
、
家
定
に
不
測
の
事
態
が
起
き
た
際
に
慶
喜
を
後
継
と
す
る
こ
と
と
し
た
︵
た
だ
し
公
式
に
確
定
さ
れ
て
は
い
な
か
っ
た
︶
。
黒
船
が
来
航
の
直
後
、
家
慶
が
死
去
し
た
混
乱
の
中
、
日
本
は
日
米
和
親
条
約
締
結
を
余
儀
な
く
さ
れ
る
。
し
か
し
、
家
慶
の
後
を
継
い
だ
家
定
は
将
軍
就
任
後
、
さ
ら
に
病
状
を
悪
化
さ
せ
て
時
に
は
廃
人
に
近
い
状
態
と
な
り
、
政
務
が
満
足
に
行
え
な
か
っ
た
。
し
か
も
子
は
な
く
、
そ
の
後
継
者
問
題
が
急
浮
上
し
た
。
こ
れ
を
憂
慮
し
た
島
津
斉
彬
・
松
平
慶
永
・
徳
川
斉
昭
ら
有
力
な
大
名
は
、
大
事
に
対
応
で
き
る
将
軍
を
擁
立
す
べ
き
で
あ
る
と
考
え
て
、
斉
昭
の
実
子
で
あ
る
一
橋
慶
喜
擁
立
に
動
き
、
老
中
阿
部
正
弘
も
こ
れ
に
加
担
し
た
。
こ
れ
に
対
し
て
保
守
的
な
譜
代
大
名
や
大
奥
は
、
家
定
に
血
筋
が
近
い
従
弟
の
紀
州
藩
主
徳
川
慶
福
︵
後
の
徳
川
家
茂
︶
を
擁
立
し
よ
う
と
し
た
。
前
者
を
一
橋
派
、
後
者
を
南
紀
派
と
呼
ん
だ
。
と
こ
ろ
が
阿
部
正
弘
が
急
死
す
る
と
、
阿
部
に
よ
る
安
政
の
改
革
に
反
発
す
る
譜
代
大
名
の
巻
き
返
し
が
始
ま
り
、
﹁
大
奥
の
粛
正
﹂
を
唱
え
る
斉
昭
に
反
発
す
る
大
奥
も
こ
れ
に
加
担
す
る
。
さ
ら
に
条
約
勅
許
問
題
を
巡
る
開
国
派
と
攘
夷
派
の
対
立
も
加
わ
っ
て
事
態
は
複
雑
と
な
っ
た
︵
一
橋
派
で
は
島
津
斉
彬
は
開
国
派
、
徳
川
斉
昭
は
攘
夷
派
に
属
し
、
互
い
に
自
己
の
外
交
路
線
実
現
の
た
め
に
一
橋
慶
喜
擁
立
を
目
指
し
た
。
こ
れ
は
南
紀
派
も
同
様
で
あ
っ
た
︶
。
だ
が
安
政
5
年
︵
1
8
5
8
年
︶
、
家
定
が
重
態
と
な
る
と
、
南
紀
派
の
譜
代
大
名
は
彦
根
藩
主
井
伊
直
弼
を
大
老
に
据
え
て
、
6
月
に
家
定
の
名
で
後
継
者
を
慶
福
と
す
る
こ
と
が
発
表
さ
れ
た
。
こ
れ
に
つ
い
て
は
南
紀
派
に
よ
る
画
策
で
あ
る
と
言
わ
れ
て
い
る
が
、
家
定
自
身
も
廃
人
も
し
く
は
そ
れ
に
近
い
重
態
で
は
あ
っ
た
も
の
の
、
完
全
に
意
思
能
力
が
失
わ
れ
て
い
た
わ
け
で
は
な
い
た
め
、
本
人
の
意
向
で
自
分
の
対
抗
馬
で
あ
る
慶
喜
を
嫌
っ
て
個
人
的
に
気
に
か
け
て
い
た
慶
福
を
指
名
し
た
と
す
る
見
方
も
あ
る
。
家
定
の
側
小
姓
で
後
に
勘
定
奉
行
な
ど
を
歴
任
し
た
朝
比
奈
閑
水
の
回
想
の
記
録
に
は
、
家
定
は
﹁
自
分
よ
り
慶
喜
の
方
が
美
形
で
慶
喜
が
登
城
す
る
と
大
奥
が
騒
ぐ
﹂
と
い
う
理
由
で
慶
喜
に
反
感
を
抱
い
て
い
た
と
記
さ
れ
て
い
る
。
久
住
真
也
﹁
幕
末
の
将
軍
﹂
︵
講
談
社
︶
に
よ
れ
ば
、
一
橋
派
の
言
い
分
自
体
が
家
定
を
﹁
暗
愚
、
愚
昧
、
病
弱
﹂
扱
い
す
る
に
等
し
い
も
の
で
﹁
ま
だ
若
く
世
子
誕
生
の
見
込
み
も
あ
る
﹂
と
認
識
し
て
い
た
家
定
は
一
橋
派
を
憎
悪
し
て
い
た
と
い
う
。
い
ず
れ
に
し
て
も
南
紀
派
の
勝
利
に
終
わ
っ
た
事
実
は
間
違
い
な
く
、
7
月
に
家
定
が
没
す
る
と
、
慶
福
は
﹁
家
茂
﹂
と
改
名
し
て
新
し
い
将
軍
と
な
っ
た
。
同
年
6
月
、
一
橋
派
に
よ
る
京
都
工
作
が
功
を
奏
し
、
朝
廷
よ
り
﹁
英
明
・
年
長
﹂
を
兼
ね
備
え
た
者
を
将
軍
継
嗣
と
す
べ
き
、
と
す
る
勅
書
が
幕
府
に
下
っ
た
が
、
江
戸
城
内
に
お
い
て
志
賀
某
が
こ
れ
を
10
日
間
以
上
に
わ
た
り
隠
匿
し
続
け
、
結
果
勅
書
の
指
示
が
反
映
さ
れ
な
い
形
で
家
茂
が
後
継
者
に
な
っ
た
、
と
す
る
風
説
が
当
時
流
れ
た
が
、
勅
書
が
下
っ
て
か
ら
の
経
緯
に
つ
い
て
は
、
ど
こ
ま
で
が
真
実
な
の
か
、
詳
ら
か
で
は
な
い
。
た
だ
し
、
志
賀
は
同
年
6
月
に
自
殺
し
て
お
り
、
直
弼
の
意
向
を
忖
度
し
て
の
行
動
で
あ
っ
た
が
、
結
果
朝
廷
の
意
向
を
無
視
し
た
責
任
を
取
ら
さ
れ
る
こ
と
に
な
っ
た
、
と
考
え
ら
れ
る
。
家
茂
を
将
軍
と
し
た
井
伊
直
弼
は
、
徳
川
慶
頼
︵
田
安
家
当
主
︶
を
形
だ
け
の
将
軍
後
見
職
に
立
て
て
、
一
橋
派
を
初
め
と
す
る
反
対
派
の
粛
清
︵
安
政
の
大
獄
︶
に
乗
り
出
す
。
だ
が
、
井
伊
は
桜
田
門
外
の
変
で
暗
殺
さ
れ
、
斉
彬
の
弟
島
津
久
光
の
率
兵
上
京
に
よ
る
文
久
の
改
革
で
一
橋
派
は
復
権
す
る
。
こ
の
と
き
徳
川
斉
昭
は
既
に
鬼
籍
の
人
と
な
っ
て
い
た
が
、
一
橋
慶
喜
が
将
軍
後
見
職
に
、
松
平
慶
永
が
政
事
総
裁
職
に
就
任
、
慶
喜
は
家
茂
の
死
後
に
15
代
将
軍
に
就
任
す
る
。
関連項目
編集
一橋派
南紀派
安政の大獄
文久の改革
尊融入道親王こと
久邇宮朝彦親王
は、
公武合体
派の立場で、将軍継嗣問題では一橋慶喜を支持したことから、安政の大獄で「隠居永蟄居」を命じられることとなった。
この項目は、
日本の歴史
に関連した
書きかけの項目
です。
この項目を加筆・訂正
などしてくださる
協力者を求めています
(
P:日本
/
P:歴史
/
P:歴史学
/
PJ日本史
)。
表示
編集