小幡景憲
1572-1662, 安土桃山時代~江戸時代初期の武将、兵学者。幼名は熊千代、別名を孫七郎、勘兵衛。法名は道牛。﹃甲陽軍鑑﹄補
生涯
編集
1572年︵元亀3年︶、甲斐武田氏の家臣で足軽大将・小幡昌盛の3男として誕生。
﹃甲陽軍鑑﹄によれば、父・昌盛は信濃海津城主・春日虎綱を補佐して在城し、後に武田信玄の旗本に転じ、海津在番の後任は叔父の小幡光盛が務めたという。父の昌盛は1582年︵天正10年︶3月の織田信長による武田征伐の際、武田勝頼の滅亡のわずか5日前に病死し、叔父の光盛も武田氏滅亡後は越後上杉氏に臣従している。景憲は他の武田遺臣とともに武田遺領を確保した徳川氏に仕えたが、1595年︵文禄4年︶に突如として徳川秀忠のもとを出奔して諸国を流浪したという。
1600年︵慶長5年︶の関ヶ原の戦いでは、徳川氏の家臣・井伊直政に属して戦功を挙げたといわれ、1614年︵慶長19年︶の大坂の陣では豊臣氏に与したが、内実は徳川氏に内通しており、江戸幕府京都所司代の板倉勝重に連絡していたという。戦後は再び徳川氏に仕えて1500石を領した。のち、横田尹松の末子縄松︵つなとし︶を養子とした。
景憲は甲州流軍学の創始者として名高く、幾多の武士に教授したとされる。特に北条氏長・近藤正純・富永勝由・梶定良は小幡の高弟として名高く﹁小幡門四哲同学﹂などと呼ばれている。剣術にも優れて小野忠明から皆伝を受けている。
江戸時代に成立した軍学書﹃甲陽軍鑑﹄は、春日虎綱の甥・春日惣次郎が書き残した口述を小幡光盛の子孫と考えられる小幡下野守が入手し原本が成立したと考えられているが、景憲は小幡家伝来の原本を入手し成立に携わったという。
1663年︵寛文3年︶、死去。