小畑実 (サッカー選手)
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名前 | ||||||
カタカナ | オバタ ミノル | |||||
ラテン文字 | OBATA Minoru | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1918年6月7日 | |||||
出身地 | 広島県 | |||||
没年月日 | 1986年5月1日(67歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
広島第一中学 | ||||||
慶應義塾大 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1949-???? | 東洋工業 | |||||
監督歴 | ||||||
1951-63 | 東洋工業監督 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
来歴
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1936年︵昭和11年︶、広島一中(現広島国泰寺高校)が全国中等学校蹴球選手権大会︵現全国高校サッカー選手権︶で初優勝を果たした時の左インナー(FW)[1]。1937年︵昭和12年︶卒業。同年度卒に、久保道正︵第一産業創業者︶、藤田一暁︵フジタ社長︶、頼實正弘︵広島大学学長︶などがいる。
二宮洋一、津田幸男らとともに、戦前の慶應義塾大学体育会ソッカー部黄金時代の左インサイドとして活躍した[2][3]。また、日本代表として1939年︵昭和14年︶9月3日、日満華交歓大会対満州国戦で先発出場した(Cキャップ)。1940年︵昭和15年︶大学を卒業[4]。
戦中、戦後の経歴は不明だが、太平洋戦争では俳優の長門勇と戦友だったという[5]。
1949年︵昭和24年︶、東洋工業(現マツダ)へ入社[6] し、東洋工業蹴球部では山崎芳樹監督下で中心選手として活躍した[7]。同年には、実業団チームとして初の日本選手権︵現在の天皇杯︶に出場した。
1951年︵昭和26年︶には全広島の一員としてスウェーデンのプロチーム・ヘルシンボリIFと対戦した。この全広島は渡部英麿・福原黎三・下村幸男に銭村健次ら東洋工業の選手も参加した強力チームだった。
同年、山崎の後を受け監督に就任、早いダイレクトパスの交換という慶應のサッカースタイルを東洋工業に植えつけた[3]。選手兼任監督として下村・銭村・樽谷恵三・重松良典らを擁し、1954年︵昭和29年︶には実業団チームとして初めて天皇杯決勝に進出する。母校の慶大BRBとの決勝は、第4延長までもつれ意識不明の選手が出るという日本サッカー史に残る死闘を演じるも敗れた(3-5)[4]。翌1955年︵昭和30年︶には全日本実業団でも初の決勝進出。田辺製薬に0-2と敗れ準優勝に終わったが、翌1956年︵昭和31年︶には田辺製薬の7連覇を阻み初優勝、チームに初の全国タイトルをもたらした。1962年︵昭和37年︶には国体でも初優勝を飾った。
同年9月から10月まで、長沼健や水野隆とともに、ドイツに留学しデュースブルクにあるスポーツシューレで指導者の資格をとった[8]。
1964年︵昭和39年︶、監督が下村に変わると、総監督︵ゼネラル・マネージャー︶に就任する。翌1965年︵昭和40年︶、日本サッカーリーグ(JSL)が始まると、初年度より1968年︵昭和43年︶まで不滅のリーグ4連覇の金字塔を樹立し、JSL27回の歴史で最多の5回の優勝を飾り東洋工業黄金時代を築いた[3]。
1986年︵昭和61年︶5月1日に亡くなった[9]。
脚注
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(一)^ ﹃運動年鑑. 昭和12年度﹄朝日新聞社、1937年。2014年8月9日閲覧。
(二)^ “第44回 二宮洋一︵3︶プレーメーカーでストライカー。37歳で天皇杯決勝、延長4回3時間試合”. 賀川サッカーライブラリー. 2012年11月25日閲覧。
(三)^ abc“攻守兼備のMF努力の人 小城得達︵下︶”. 賀川サッカーライブラリー. 2012年11月25日閲覧。
(四)^ ab“第34回天皇杯獲得”. 慶應義塾大学体育会ソッカ-部 K.B.F. 2012年11月25日閲覧。
(五)^ 早川文司﹃サンフレッチェ広島 奇跡のイレブン﹄イーストプレス、1994年、189-190頁
(六)^ ﹃月刊サッカーマガジン﹄1966年06月01日号。
(七)^ “日本サッカーリーグの創世記をリードした東洋工業”. 賀川サッカーライブラリー. 2012年11月25日閲覧。
(八)^ “クラマー取材ノートから(18)”. viva!soccer.net. 2012年11月25日閲覧。
(九)^ ﹃月刊サッカーマガジン﹄1986年08月01日号、JSL1部チーム情報。