工楽松右衛門
日本の江戸時代における発明家、実業家 (1743-1812)
年譜
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●1743年︵寛保3年︶ - 播州高砂︵現在の兵庫県高砂市高砂町東宮町︶の漁師の長男として生まれる[2]。
●1758年︵宝暦8年︶ - この頃兵庫に出て、佐比絵町にある﹁御影屋﹂という船主のもとで船乗りになる[2]。その後、兵庫の廻船問屋北風荘右衛門に知己を得て、その斡旋で佐比絵町に店を構え、船持ち船頭として独立。
●1785年(天明5年︶ - 木綿を使った厚手で大幅な新型帆布の織り上げに成功[2]。﹁松右衛門帆﹂として全国に普及。
●1790年︵寛政2年︶ - 江戸幕府より択捉島に船着場を建設することを命じられ着手する[2]。
●1791年︵寛政3年︶ - この年の夏、択捉島の埠頭が竣工。
●1802年︵享和2年︶ - 幕府から功績を賞され、﹁工楽﹂の姓を与えられる[2]。
●1804年︵文化元年︶ - 箱館にドックを築造。その後、択捉開発や蝦夷地交易に使った函館の地所を、高田屋嘉兵衛に譲る[2]。
●1812年︵文化9年︶ - 死去。墓所は高砂市高砂町の十輪寺にある。神戸市兵庫区の八王寺に顕彰碑があるが、なぜか苦楽松右衛門と彫られている。
生涯
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松右衛門は幼い頃から家業の漁労に従事していた。幼少から創意工夫が得意であったと伝えられる[3]。若くして帆船の操縦などを習得し、多くの航海経験を重ねた。
船乗りとして一人前になった松右衛門は、当時の帆の帆布が丈夫でなかった︵むしろで作ったものや、綿布を2枚から3枚重ねてつなぎ縫いをしたものが主流だった[4]︶ことに不満を感じ、帆布改良の研究に着手する。やがて、播州の特産である太い木綿糸を用いて、厚く巨大な平織りの丈夫な帆布の開発に成功した。42歳︵数え43歳︶のときであった[3][5]。﹁松右衛門帆﹂と名付けられた新型帆布はすぐに全国に普及し、北前船をはじめとする大型和船の航海術は飛躍的に向上した。
1812年刊の造船技術書﹁今西氏家舶縄墨記 坤﹂によれば﹁松右衛門帆と言うは、太糸を縦横二た筋づつに織りたる帆なり﹂と紹介されており、縦横2本引き揃えた独特の織組織であることが解る。
1790年︵寛政2年︶2月、松右衛門は、幕府より択捉島での埠頭建設の命令を受け、同年5月に準備を整え出航する。ロシア帝国の南下政策から領土保全をはかる目的であった。厳寒での危険な作業を経て、1791年︵寛政3年︶10月に埠頭建設が竣工した[3]。高田屋嘉兵衛の航路の寄港地となる。
松右衛門は上記の業績から、1802年︵享和2年︶に幕府より﹁工事を楽しむ﹂﹁工夫を楽しむ﹂という意味の﹁工楽﹂の姓をたまわった[3]。
65歳のころ、故郷の高砂に戻る。箱館でのドック建設、石鈴船・石救捲き上げ装置の発明、防波堤工事などを手がける[3]。1812年︵文化9年︶に、70歳で死去。高砂神社の境内に顕彰のための銅像が建つ[2]。この銅像は1880年︵明治13年︶に、明治天皇が神戸巡行の際、松右衛門の功績を称えられ、1915年︵大正4年︶の大正天皇の即位の礼の時に従五位に叙せられたため、それを記念して同年に建立されたが、大東亜戦争で供出して姿を消してしまった。戦後、帆布業界などの浄財により1966年︵昭和41年︶に元の位置に復元された。
エピソード
編集- 松右衛門は自らの信念を次のように言い残したとされる(大蔵永常『農具便利論』に紹介されている)。
- 「人として天下の益ならん事を計らず、碌碌(ろくろく)として一生を過ごさんは禽獣(きんじゅう)にも劣るべし」(=人として世の中の役立つことをせずに、ただ一生を漠然と送るのは鳥や獣に劣る)
脚注
編集関連項目
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●江戸時代の人物一覧
●帆神 北前船を馳せた男・工楽松右衛門 - 玉岡かおるの小説。2022年に新田次郎文学賞受賞。
●高田屋嘉兵衛
●菜の花の沖 - 司馬遼太郎の小説。高田屋嘉兵衛が主人公。NHKで連続ドラマ化もされ、工楽松右衛門︵御影屋松右衛門︶は竜雷太が演じた。
●高砂堀川湊及び工楽松右衛門旧宅 - 兵庫県指定史跡