布田保之助

熊本県上益城郡矢部手永の惣庄屋

    112618011231 - 6187343
高藤鎮夫作「布田保之助銅像」

略歴

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1126233032345254611868

退西

1873643西6

調

19165[1]1952

通潤橋

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通潤橋(通潤用水)(2007年6月10日)

71854335196052023

成功の要素

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最近の文献によると[2]、通潤橋の成功は彼一人の功績ではなく、多くの人の協力があった。一つは彼の生涯の仕事の総決算としてなされ、今までの業績で絶大な信用があったこと、彼の立場では藩の予算の会議には出席できず、上役の郡代上妻(こうづま)半衛門とその上役の大奉行真野源之助の絶大な助力があったこと。近代的な工事費の返還システムがあったこと、技術的に石技術集団に九州各地の石橋の見学に行かせたり、藩主も門外不出の熊本城の石組を見学させたことなどがある。

布田保之助・惣庄屋時代の矢部手永会所の業績

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  • 道路 320カ所
    • 新道の間敷 60327間7合(28里)
    • そのうち敷石 21カ所 1440間
    • 貫通 2カ所 38間 石橋 2カ所 溝掘り 1904間
    • 往還の作り替え 23カ所 9066間
    • 村道の作り替え 48729間5合 合計 55里
  • 眼鑑橋 大小 13橋
  • 堤および井出 堤 7カ所 堤水面合計 2町4反18歩 井出延長間数 15181間 3合
  • 石積 大小 35カ所

費用は15億

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基本的には、藩(官)から金を借りる(官銭)ことと地元負担の2種があり、藩(官)のお金の出し方は常に悪いので、矢部手永の会所(役所)は手持ちで3倍の金を用意した。矢部手永の会所は上役の示唆で新田を作る方法と同じ方法を藩に認めさせた。矢部手永の会所は7年前から金子を貯めていたが、現代的な返還システムがなければ不可能であるし、これらは惣庄屋や矢部手永会所だけでは不可能で、上位役所・上役の協力がないとできない。開田の予定を42町とし、実際に開いたのは73町であったのも、自由に使える金を増やしたことになる。米相場で九千俵ほどの米を備蓄したし、まだ借金の返還に通常は銭百匁に四升2合が普通であるが、この場合は3升1合と優遇されている。これらは上役の努力がないとできない。

慶応3年の工事報告書によると総費用は711貫とある。これはおおざっぱにいって藩主細川重賢が最初に参勤交代した時の大坂までの費用(船賃を入れて)の800貫と同等である。1両が10万円とすると711貫は14億7000万ということになる[3]

江戸の公共事業

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肥後藩内では加藤清正以来、土木事業が盛んであるが、藩の財政悪化があり、細川重賢宝暦の改革をして、地方が一定の権限と財源が与えられた。通潤橋のみならず、多くの橋、用水路、新田開発を行っている。江戸の公共事業のシステムについては、3つの要素があった。藩庁の色んな部局に手持ちの資金があり、貨殖(公共ローン)を行っていた。当時の税金の一部を積み立てていた。(官銭)。地方の有力者の献金(寸志)があった。また地方のエリート少年が、役場に入り庄屋の見習いになり、その後幹部役人になれるシステムができていた。[4]

技術

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文献

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  • 石井清喜 「マンパワーによってできた通潤橋」,2008, in『肥後学講座』II 熊日出版 熊本
  • 芝本礼三 『布田保之助』1933, 稲本報徳社
  • 笹原侘介 『布田保之助』1938, 布田翁遺徳顕彰会 東京
  • 『通潤橋架橋 150周年記念誌』(2004-12-7)  矢部町通潤地区土地改良区
  • 土木学会誌 1992年3月号別冊特集 「構造デザイン」
  • 暉峻淑子「布田保之助(歴史のヒーロー・ヒロイン)」『本郷』第62号、吉川弘文館、2006年、25頁。 

脚注

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  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.42
  2. ^ 石井清喜 『マンパワーによってできた通潤橋』2008, in 『肥後学講座 II』 p24 熊本日日新聞社 熊本
  3. ^ 石井清喜 「マンパワーによってできた通潤橋」 ,2008, p28 in 『肥後学講座 II』 熊本日日新聞社 熊本
  4. ^ 吉村豊雄 「宝暦の改革 その今日的意義」,2006, in 『肥後学講座』 熊本日日新聞社、熊本