平定親
経歴
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三条朝初頭の寛弘8年︵1011年︶元服。長和4年︵1015年︶文章生として敦良親王︵後の後朱雀天皇︶の読書始の尚復︵侍読の補佐︶を務め[1]、翌長和5年︵1016年︶蔵人所雑色に補せられる。
後一条朝に入ると、寛仁3年︵1019年︶秀才の労により六位蔵人に補任され、まもなく式部丞を兼ねる。のち、巡爵により従五位下・伯耆守に叙任されて地方官に遷った。長元5年︵1032年︶右少弁に抜擢されて京官に復し、翌長元6年︵1033年︶東宮・敦良親王の東宮学士を兼ねると、長元7年︵1034年︶正五位下、長元8年︵1035年︶左少弁と昇進する。
後朱雀朝に入ると、長暦2年︵1038年︶五位蔵人と左衛門権佐︵検非違使佐︶を兼ねて三事兼帯となる。その後も、長暦3年︵1039年︶右中弁、長久元年︵1040年︶前東宮学士の功労により二階昇進して従四位上、長久3年︵1042年︶権左中弁、長久4年︵1043年︶左中弁と弁官を務めながら昇進を重ねた。また、長久2年︵1041年︶には文章博士も兼帯している。
寛徳2年︵1045年︶後冷泉天皇が践祚すると、今度は東宮・尊仁親王の東宮博士となる。その後、参議を兼ねていた左大弁・源資通と右大弁・源経長の異動がなく、しばらく定親は左中弁にとどまる。永承4年︵1049年︶定親は正四位下に昇叙されるが、翌永承5年︵1050年︶蔵人頭兼権左中弁・藤原経家が定親を超えて右大弁に任ぜられてしまった。権左中弁が正官の左中弁を差し置いて右大弁に昇任されたのは、藤原氏宗︵正官は清原岑成︶・藤原頼忠︵正官は藤原文範︶以来の3例目の珍事であった[2]。
天喜2年︵1054年︶式部大輔を兼帯して文人官僚の筆頭となり、天喜6年︵1058年︶15年ぶりに弁官として昇格に与り右大弁に至った。この間、寛徳・永承・天喜の改元時に勘文を提出しており、このうち永承が定親の案であったことが判明している[3]。
康平4年︵1061年︶病気を理由に官職を退く。康平6年︵1063年︶3月3日に病気により卒去。享年69。最終官位は前右大弁式部大輔正四位下[4]。
官歴
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注記のないものは﹃弁官補任﹄による。
●寛弘8年︵1011年︶8月23日‥元服[5]
●長和4年︵1015年︶12月4日‥見文章生[6][7]
●長和5年︵1016年︶2月8日‥蔵人所雑色[6]
●寛仁3年︵1019年︶ 正月10日‥六位蔵人︵秀才︶[6]
●寛仁4年︵1020年︶2月18日‥見式部丞[8]
●寛仁5年︵1021年︶ 日付不詳‥従五位下?[9]
●時期不詳‥伯耆守
●長元5年︵1032年︶2月3日‥右少弁、元伯耆守[10]
●長元6年︵1033年︶ 正月16日‥次侍従。4月2日‥兼東宮学士︵東宮・敦良親王︶
●長元7年︵1034年︶ 正月5日‥正五位下︵策︶
●長元8年︵1035年︶10月16日‥左少弁
●長元9年︵1036年︶ 正月29日‥兼土佐権守[10]。4月17日‥停学士︵即位︶
●長暦2年︵1038年︶ 正月14日‥五位蔵人。正月29日‥左衛門権佐
●長暦3年︵1039年︶12月18日‥右中弁
●長久元年︵1040年︶6月8日‥従四位上︵前坊学士、二階︶
●長久2年︵1041年︶ 正月25日‥兼文章博士
●長久3年︵1042年︶ 正月29日‥兼備中介。10月27日‥権左中弁
●長久4年︵1043年︶9月19日‥左中弁
●寛徳2年︵1045年︶ 正月16日‥兼東宮学士︵東宮・尊仁親王︶
●永承2年︵1047年︶ 正月28日‥兼備前権介
●永承4年︵1049年︶12月29日‥正四位下[10]
●永承5年︵1050年︶ 閏10月7日‥率分勾当
●永承6年︵1051年︶ 正月27日‥兼摂津守
●永承7年︵1052年︶10月19日‥昇殿
●天喜2年︵1054年︶12月19日‥兼式部大輔
●天喜5年︵1057年︶2月30日‥兼伊予介
●天喜6年︵1058年︶4月25日‥右大弁。11月8日‥兼摂津守
●康平4年︵1061年︶10月‥辞退︵依病也︶
●康平6年︵1063年︶3月3日‥卒去︵前右大弁式部大輔正四位下︶
脚注
編集参考文献
編集- 野口実「平定親」『平安時代史事典』(角川書店、1994年) ISBN 978-4-04-031700-7 P1486.
- 槇野廣造 編『平安人名辞典―康平三年〈下〉』(和泉書房、2007年) ISBN 978-4-7576-0445-2 P150.
- 宮崎康充編『国司補任 第四』続群書類従完成会、1990年
- 飯倉晴武校訂『弁官補任 第一』続群書類従完成会、1983年
- 市川久編『蔵人補任』続群書類従完成会、1989年