弁才船

中世末期から江戸時代、明治にかけて日本での国内海運に広く使われた大型木造帆船

弁才船(べざいせん)は中世末期(安土桃山時代)から江戸時代明治にかけて日本での国内海運に広く使われた大型木造帆船弁財船(辨財船)、弁済船(辦濟船)[1]とも記述された[2]

江戸時代末期、1860年代の弁才船
大阪市の「なにわの海の時空館」にある弁才船の復元模型「なにわ丸」

名称

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使[3][]使[4]

使[5]

[2]

由来

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使110960[6]2501835010001000[2][7][8][9]




改良

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江戸期の改良

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江戸初期の弁才船(『江戸図屏風』中央の大型二隻)。矢倉式の上廻り、水路内ではあるが櫓漕という初期の特徴を備えている。
 
江戸後期(天保7年(1836年)に円覚寺に奉納された弁才船の船絵馬。

16355003沿[2]

1817退

18



沿



綿綿綿17綿綿17855綿



調








明治期の改良

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23

西[10]

西西

西綿西

性能

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22使西


千石船の規模

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18世紀中期の1000石積の弁才船は全長29メートル、幅7.5メートル、15人乗りで24反帆、積載重量約150トンであった[11]。大阪市の「なにわの海の時空館」にある千石積の実物大の復元模型は全長29.4メートル、船幅7.4メートル、深さ2.4メートル、帆柱の長さ約27メートル、帆の大きさは18mX20mである[2]

積載能力

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171005001910001400180020003000140

188417101

綿1131825寿10003212525

航行能力

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沿32.81012648

綿18596507西17902586.534185

経済性

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和船は大板と梁によって構成され、曲材である助材や外板によって構成される西洋船に比べて高い経済性を有する。一例として1878年(明治11年)に同じ1000石積で業者が見積をした所、その船体価格は弁才船は2,900円、西洋船は4,600円と6割もの高値となった。なお1844年(天保15年)の船価(船体・道具込み)は1000石積で約1000、500石積で約500両とし、菱垣廻船や松前渡航船は約2割増しとされていた。

耐用年数は標準で20年程度だが、状態が良いものには30年程度の現役を可能としたものもある。なお、11・12から15・16年目に大規模な補修工事(中作事)を行う必要があった。

脚注

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  1. ^ 「辯才(言語の才能)」、「辨財(財産をおさめる)、辦濟 (wikt)(荘園で徴税等の仲介をする。e.g. 運上
  2. ^ a b c d e 愛知県の博物館 「菱垣廻船と樽廻船」
  3. ^ 『和船II』154-155ページ
  4. ^ 『和船II』152-156ページ
  5. ^ 『和船II』153ページ
  6. ^ 栃木県図書館 「江戸時代の千石船の大きさが知りたい」 原典:『図説和船史話』(石井謙治/著 至誠堂 1983)
  7. ^ weblio, コトバンク, 「千石船の帆柱」
  8. ^ 栃木県図書館 「江戸時代の千石船の大きさが知りたい」 原典:『日本史大事典 第4巻』(平凡社 1993)
  9. ^ cf. 石銭
  10. ^ 堀内雅文『大和型船:[船体・船道具編]』成山堂書店 2001年、ISBN 442530201X pp.1-2
  11. ^ 栃木県図書館 「江戸時代の千石船の大きさが知りたい」 原典:『事典しらべる江戸時代』(林英夫/編 青木美智男/編 柏書房 2001)

参考文献

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  • 石井謙治 『和船(1)』『和船(2)』 法政大学出版局 、1995年
  • 石井謙治 『日本の船を復元する』 学習研究社、2002年

外部リンク

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