徳川宗翰
日本の江戸時代の大名。常陸水戸藩5代藩主。従三位・左近衛権中将、参議。徳川宗堯の次男。側室に中沢尾上︵中澤氏、子に直之允︵1753.1.23-1795.7.15、次男︶、直之助︵1755.8.22-1756.4.10、四男
徳川 宗翰(とくがわ むねもと)は、常陸国水戸藩の第5代藩主。
徳川 宗翰 | |
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 享保13年7月29日(1728年9月3日) |
死没 | 明和3年2月14日(1766年3月24日) |
改名 | 鶴千代(幼名)→宗翰 |
諡号 | 良公 |
戒名 | 大隆院殿正蓬社賢譽瑞栄 |
墓所 | 瑞龍山 |
官位 | 正四位下・左近衛権少将兼左衛門督、従三位・左近衛権中将、参議 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
藩 | 常陸国水戸藩主 |
氏族 | 水戸徳川家 |
父母 | 父:徳川宗堯、母:美代姫(泰受院) |
兄弟 | 松平頼順、宗翰 |
妻 |
御簾中:一条郁子(絢君) 側室:美衛ほか |
子 | 治保、直之允、勝五郎、直之助、松平頼図、松平頼救、松平保受、松平保福、中山信敬、時姫(松平義裕室)、嘉姫(二条治孝室)、国姫(今出川実種室)、嶺姫(願入寺遍雄室)、金姫 |
生涯
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享保13年︵1728年︶7月29日、徳川宗堯の次男として生まれる。幼名は鶴千代。母は藩主世嗣徳川吉孚︵徳川綱條の三男︶の一人娘・美代姫。
享保15年︵1730年︶、父の早世により3歳︵満年齢1歳︶で跡を継いだ。幼少のため、将軍・徳川吉宗により御附家老・中山信昌ほか家老が呼び出され、幼君の輔育と一和忠勤を直接命じられた。
長じては父と同じく行き詰まった藩政を立て直そうと志し、寛延2年︵1742年︶に支藩藩主の松平頼寛︵守山藩︶と松平頼済︵府中藩︶が老中の堀田正亮の役邸に呼び出され、財政改革の実施を命じられたこともあり、宝暦改革と呼ばれる藩政改革を実施した。太田資胤に命じて財政再建を進めたが、宝暦6年︵1756年︶に資胤が致仕すると頓挫した。その後も改革は進まず、晩年の30代後半になると、たびたびの挫折に改革の志も萎えたらしく、奥に入り浸って歌舞音曲や酒に耽ったという。明和元年︵1764年︶に水戸城が全焼するなどの災害もあった。跡を長男の治保が継いだ。
官歴
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※日付=旧暦
●享保13年︵1728年︶7月29日 - 誕生。鶴千代を称す。
●享保15年︵1730年︶5月12日 - 水戸徳川家の家督を相続し、藩主となる。
●享保21年︵1736年︶4月13日 - 元服し、将軍徳川吉宗の偏諱を授かり宗翰と名乗る。同日、正四位下に叙し、左近衛権少将に任官、左衛門督を兼任。
●元文2年︵1737年︶12月5日 - 従三位に昇叙し、左近衛権中将に転任。
●元文5年︵1740年︶12月1日 - 参議に補任。
●明和3年︵1766年︶7月14日 - 薨去。
家系
編集偏諱を与えた人物
編集- 松平翰鄰(実兄、のちの松平頼順)
演じた俳優
編集脚注
編集関連タグ
編集徳川慶喜の系譜 |
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