念流︵ねんりゅう︶は、室町時代に念阿弥慈恩︵相馬義元︶が創めた剣術流派で、日本兵法三大源流の一つにして最も古い流儀︵念阿弥慈恩や神道流、陰流を参照︶。剣術の他、鎖鎌[1]・棒術・捕縛術などを伝えていたとする[2]。慈恩には弟子が14人いたとされ、堤宝山には刀槍と鎧組︵組討・柔術︶を教えたとされ、宝山流歌伝には﹁平︵兵︶法のみなもとこそは仏法よいずれといはは︵いわば︶法と答よ﹂とあり、僧を師としたことがわかり、当流が確認される最古級の柔術という見解がある︵﹃歴史街道 2008 6月﹄ PHP研究所 p.66︶。
流名の﹁念﹂は﹃撃剣叢談﹄によると、﹁一念をもって勝つことを主とする﹂ところからきており、﹁右手を斬られれば、左手で詰め、左右の手が無ければ、噛︵かぶ︶りついても一念を徹︵とお︶すという伝授である﹂と記している。また﹃撃剣叢談﹄の記述として、稽古時の構えとして、上略・中略・下略の三段があると記し、修行をつんだ者は、﹁太刀先に米一俵をかけ、あるいは梯子をかけて人を登らせることもできる﹂︵60キログラムのものを切っ先につけても構えられる︶と記し、そのため、刺突が速かったと記述される。
- 念流鎖鎌術から派生したとされる一心流(流祖・丹一心)の鎖鎌は、鎖の長さが1丈2尺(約3.6メートル)、分銅の重さが300匁(1.1キログラム以上)とかなり大きいものを操っている[3]。
- 『奥山念流系図』には、慈恩は「奥山念僧」と記され、次に分立誥可→有徳清太夫→本木三太夫→竹内甚太夫→金高九左衛門と続き、7代目から9代目の浦辺家(子孫本庄市在住)を経て、児玉郡域および上野国に広まる[4]。
- ^ 念流の鎖鎌術から派生したとする流派として、一心流がある。
- ^ 監修 加来耕三 著 岸祐二 『図解雑学 剣豪列伝』 ナツメ社 2004年 p.27.
- ^ 同『図解雑学 剣豪列伝』 ナツメ社 2004年 p.194.
- ^ 『本庄市史 資料編』 p.248.