本因坊秀和
江戸時代の囲碁棋士
本因坊 秀和︵ほんいんぼう しゅうわ、文政3年︵1820年︶ - 明治6年︵1873年︶7月2日︶は、江戸時代の囲碁棋士、本因坊家十四世本因坊秀和。伊豆国出身。幼名は土屋俊平、後に恒太郎、秀和。本因坊丈和門下、八段準名人。法名は日悦。囲碁四哲の一人とされ、当時周囲にも名人の力量を認められていながら、幕末の混乱のために名人就位はならなかった。実子に十五世本因坊秀悦︵長男︶、十七・十九世本因坊秀栄︵次男︶、十六・二十世本因坊秀元︵三男︶。
ほんいんぼう しゅうわ 本因坊秀和 | |
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生誕 |
土屋俊平 1820年 伊豆国君沢郡小下田村 |
死没 | 1873年7月2日 |
墓地 | 本妙寺 |
記念碑 | 伊豆最福寺 |
別名 | 土屋恒太郎[1]、日悦(法名) |
職業 | 囲碁棋士 |
著名な実績 | 八段準名人 |
流派 | 本因坊 |
子供 |
本因坊秀悦 本因坊秀栄 本因坊秀元 |
略歴
編集生い立ち
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伊豆国君沢郡小下田村︵現伊豆市︶に生まれる。文政12年︵1829年︶、9歳の時に本因坊丈和に入門。これは父と沼津に行った際に万屋某という12歳の少年に四子で負け、その結果に腹を立てた父親が江戸に上り、丈和のところに俊平を預けて帰った。しかし家族に猛反対されて連れて帰る旅中、前の少年に互先で打ち分けた。これに気を良くした父親は家族を説得し、今度こそ正式に門下生にしたのだという︵﹁矢畑半助有信手記﹂︶。その後13歳で剃髪し秀和を名乗り、15歳で三段、19歳で六段に進む。この頃は安井算知 (俊哲)を相手に星打ちなど野心的な試みもしていたが、坊門の後継者と目されるようになる頃からは堅実な棋風となっていった。
幻庵との争碁
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天保9年︵1838年︶、師の丈和が名人碁所を引退、本因坊元丈の子の丈策が家督を継ぎ、翌年に秀和が跡目となって21歳で七段に進む。この年から御城碁に出仕し、最後の御城碁まで29局を残した。またこの機に井上幻庵因碩は天保11年、名人碁所就任の願いを幕府に提出する。これに対して争碁の相手として、丈策は当主である自分でなく跡目の秀和を選び、幻庵と秀和は寺社奉行より四番の争碁を命じられる。同年11月から行われた第1局で秀和は先で4目勝ちとし、幻庵は病もあって碁所願いを取り下げる。続いて天保13年にも幻庵と秀和は2度対戦するが、秀和は先番で連勝し、幻庵は名人碁所断念に至った。
嘉永元年︵1848年︶、前年の丈策死去により、家督を継いで十四世本因坊秀和となる。同年11月には、安田秀策を跡目に定める。嘉永3年八段。
維新後
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安政6年︵1859年︶、幕府に名人碁所就任願いを出す。実力は誰もが認めるところであったが、すでに幕末の争乱期に入っており、幕府には囲碁界を省みている余裕はなく﹁内憂外患の多忙﹂を理由に却下される。この時十三世井上因碩︵松本錦四郎︶が異義を唱えていたが、このための争碁も行われなかった。
文久2年︵1862年︶、期待をかけていた跡目秀策がコレラに感染して死亡。秀和は悲嘆の淵に沈んだと伝えられる。新たな跡目として翌年、長子秀悦を指名。御城碁はこの年の下打ちを最後として行われなくなり、棋士の対局機会も激減したため、秀和は研究会﹁三ノ日会﹂を組織するが、資金不足で3、4年で中断となる。
倒幕に伴い家元制度は崩壊。明治2年︵1869年︶に東京府庁より、屋地引き替え、家禄減石の通達が出され、本所相生町の邸宅を借家にせざるを得なくなったが、直後にその借家から出火して邸宅が全焼、倉庫で雨露をしのぐなど苦しい生活に追い込まれた。明治4年︵1871年︶には家禄奉還となり、さらに経済的に困窮した。
明治6年︵1873年︶死去。秀悦が十五世本因坊となる。
秀和は名人の実力がありながら名人になれなかった元丈、知得、幻庵因碩とともに囲碁四哲と称される。また秀和とその弟子の秀策、秀甫を江戸末期の最高峰として三秀とも呼ぶ。早打ち、性格は極めて穏やかであったとされている。
後継者
編集顕彰
編集有名局
編集本因坊秀和(白)対 太田雄蔵