村主 (カバネ)
概要
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語源は、﹁族長﹂を意味する古代朝鮮語[2]に由来し、村落団体の首長が任命されたの地方官職名か、あるいは漢人(あやひと)集団の統率者の敬称ともいわれる。韓・漢からの帰化人︵渡来人︶系中小豪族に与えられ、5世紀から6世紀にかけて形成された技術を用いる漢人集団の統率者の敬称が、7世紀後半以降に姓へと転換したようである[1]。
﹁村主﹂姓氏族のすべてが帰化人︵渡来人︶の後裔であり、なかでも漢氏系がもっとも多い。﹁坂上系図﹂に引用されている﹃新撰姓氏録﹄第二十三巻の逸文には、高向村主・桑原村主など、応神天皇の時代に阿知使主とともに渡来したとされる30の村主氏族が載せられている。
﹁村主﹂と同様に﹁すぐり﹂と読まれる姓に﹁勝﹂があるが、これは村主と性格を異にする[1]。﹁村主﹂が東漢氏系列の氏族の姓であるのに対して、﹁勝﹂は秦氏の支配下にあった首長に与えられたものであり、﹃日本書紀﹄には、雄略天皇15年に秦氏の民が﹁臣﹂・﹁連﹂に恣意的に使役されていることを秦酒公が嘆いたため、天皇が秦の民を解放して酒公に下げ渡し、そのお礼にと酒公は﹁百八十種勝︵ももあまりやそのすぐり︶﹂を率いて、庸・調の絹・縑︵かとり︶を奉って、朝廷に積み上げた、という伝承が掲載されている[3]。
また、日本の村主は、新羅の地方官職名﹁村主﹂とも直接的な関係はない[1]。
天武天皇13年10月︵684年︶に八色の姓が制定され、制度としての﹁村主﹂姓は消滅した[4]。